第8話 死線を越えて



 激怒の兎と地面の間から半身を出したあなたは、天を仰いだ。

 血痕のついたダガーをあなたは手放す。

 興奮状態がおさまると共に、あなたの全身は悲鳴をあげた。



 あなたの残りヒットポイントは2。

 当たりどころがまだよかった結果、あなたは戦闘不能状態にならずに済んでいた。



 最後に破れかぶれで胸元でダガーを構えたのも功を奏したと、あなたは思った。

 ダガーは垂直に激怒の兎の胸部に突き刺さり、止めに繋がった。

 レベル差はあっても、自傷ダメージのようなものは問題なく入ったようだった。

 


 組み伏せ状態から追撃が来た場合、あなたは間違いなく戦闘不能になっていた。

 本当に本当に朝方に教会に寄付しておいてよかった――あなたは朝の自分に感謝した。



 あなたの全身が発光する。

 激怒の兎も粒子になって消え、足下にいくらかの装備アイテムが散らばった。



 戦闘経験値と、あなたの善行に対しての経験値が入り、あなたはついにレベルアップした。



 原作では、主人公の現在のカルマに沿った振る舞いによって経験値を得るケースが多い。この世界を見守る女神が祝福を授けたためと、設定資料集には記載されていた。



 男がレベル1からレベル2にあがるには、多くの経験値が必要である。無事にレベルアップしたことにあなたはひとまず安堵した。

 そして、レベル4のモンスターを倒したのにレベルが1しかあがらないことに、あなたは逆にムカつき始めた。



 なにはともあれ。

 あなたは死線を一つ乗り越えた。あなたの体の隅々で未だ暴れ散らかす激痛が、そのことを教えてくれた。



 ……誰か、ポーションくれーい。

 あなたは、指先一つ動かすこともできずにいた。



⬜︎



「モブぐぅ〜ん! よがっだ、よがっだ、よがっだよおお〜〜っ……」



 ――か、回復……。



 あなたにミカエラが抱きついてきた。

 痛みをおくびにも出さず、あなたは懇願する。

 今のでヒットポイント1減ってないか? あなたは心配になった。



 あなたの祈りが届いたのか、近寄ってきたマリーがあなたの頭に手をかざす。



『癒やしの御手』



 頭部を中心にあなたの身体の隅々に暖かみが行き渡る。なんだか血行がよくなったみたいだと、あなたは思った。



「ささ、治療は私にお任せください。ルー、ミカエラさん、他の方も連れてきてくださいますか?」



「はいっ、わかりました!」



「ん」



 するりとマリーがあなたの頭部を、自身の折り畳んだ脚の上に置いた。

 マリーのももの柔らかさがあなたの頭部越しに伝わる。

 両手をあなたの頬に当て、あなたを覗きこむようにマリーは花のかんばせを傾けた。



 桃色の髪とシスターヴェールがあなたの顔を周囲から隠す。

 あなたは青い生地に隠された豊満なものをガン見しながら、マリーの言葉に耳を傾けた。



「お疲れ様でした、モブ様♡」



 唐突な様呼び。あなたはだんだんとめまいがしてきた。

 心なしか語尾にハートマークもついている気がする。



「わたくし、いたく感動いたしましたわ。学友のために身を張ってターゲットを取り、最前線で指揮を取るお姿……。まるで、英雄ランズの逸話を目の当たりにしたようでした……♡」



 豊満なものがあなたに迫る。なんなら押しつけられた。



 あなたは身の危険を感じとって身じろぎしようとするも、柔らかさの海に押し流され、あなたの下半身ち〇ぽはいつの間にか状態異常を引き起こしていた。



「私、強気な男の方に目がなくてですね……♡  へきと言いますか……ふふっ♡ 今夜、楽しみにしていてくださいね……♡」



 オーマイゴッド! 神は死んだ。



 近距離で囁かれた瞬間のたうった下半身を、あなたはどうにか気力で押さえつけた。

 早く動かんかこの馬鹿者ぉー! あなたは回復が遅い身体に鞭打たんとする。



「ちょっと待って、あなた」



「あら」

 


 マリーの蛮行に歯止めをかけたのはマリン先輩であった。

 マリン先輩はマリーの両肩に手を置いて、マリーをのけぞらせる。

 さらに上方からあなたとマリーを、先輩は見下ろした。



「無理やり迫るのは、気持ち悪いね。彼も嫌がってると思うよ?」



「……あら、そうでしょうか? 男性というのは、内心ぐいぐいとこられることを、期待しているのですよ。奥手な女よりも、強引な女の方が好まれるものです。ふふっ、知りませんでしたか?」



 マリン先輩の底冷えした声を、マリーは鼻で笑う。

 静寂が満ちる。マリンとマリーの視線が交錯した。

 もしかして俺の周りだけ『沈黙』かかってる? あなたはいぶかしんだ。

 


「彼がそうだとでも? 思い上がりもいい加減にしたらどう?」



「ふふふっ♡ そんなことありませんよね、モブ様……♡  私のこと、お嫌いですか?」



「はっきり言ってやったほうがいいよ、モブくん。図々しい女は嫌いだって」



 人の頭上で空中戦すんじゃね――! 空気悪すぎるんじゃ、いてこますぞコラ!! ……と、あなたは言わなかった。

 マリン先輩に同意を示しつつ、あなたはマリーに感謝を述べることにした。



 ――マリー、回復ありがとう。おかげで助かった。でも、あんまりぐいぐい来られると、ちょっと困るな……。



 あなたは上体を起こしながら言った。あなたの下半身のアナコンダは、あなたの意見に異を唱えているがどうにか落ち着かせる。



「……あら♡」



「っふふっ。ほら離れた離れた。他にも怪我人はいるよ」



「――」



 笑いを堪えた先輩を、マリーが冷めた目で見ている。

 マリーの口元の笑みは、勝ち誇りの笑みなのか? あなたが二人を観察していると、不意にあなたは右手の甲がこそばゆくなったのを感じた。



 あなたは、視界の端であなたの手の甲にいたずらする指を見つける。マリン先輩からは見ることのできない位置であった。



 ちらとマリーがあなたに目配せする。

 名残惜しく指でマークを描き終えると、マリーは立ち上がってあなたの側を後にした。ミカエラとルールルーが運ぶ患者のところにマリーは向かった。



 あなたも立ち上がる。

 あなたの手の甲にハートマークを描いてきた人物の背から視線を外し、距離を詰めてきたほうの人物を見下ろした。



「……ごめんなさい」



 ――。



「君を巻き込んで、死なせるとこだった。引率役、失格だね、私。本当は、みんなのことを連れて、すぐに帰還するべきだった」



 あなたは俯くマリン先輩をじっと見つめる。マリン先輩が心情を吐き出し終わるのを、あなたは待った。



「昔から、私直情的でさ、考えるよりも動いちゃう……。後衛職なのに、俯瞰が苦手で、さっきも、下級生の君に指示を仰いで……。ほんと、情け、ないよね……」



 あなたは、マリン先輩の両肩に手を置く。

 見上げるマリン先輩に対し、あなたはゆっくりと首を振って答えた。



 ――ありがとうございます。



「……え?」



 ――ミカエラと先輩が、悲鳴を聞いて走り出した時、俺迷ってたんです。学友を見捨てるほうがパーティのみんなが幸せになれるんじゃないかって考えて、やらない理由を必死に考えてた。



 ――でも、先輩たちの背を見て、俺も本当は助けたがってることに、気づいたんです。二人から、俺は勇気を貰いました。だから、ありがとうございます。



「……でも、でも。負けてたら、みんな死んでたかもしれなかったよ? それだったら……」



 ――いいんですよ。俺たちは、勝ちました。他の班の人を助けることに自分たちの命を賭けて、勝ったんです。勝ったならいいじゃないですか。自分の選択は間違ってなかったって、今は自分を褒めてやってください。今回は、それでいいじゃないですか。……また、同じ場面は訪れるかもしれない。その時、自信を持って同じことができるよう、互いに備えましょう、先輩。

 


「……ぁ」



 ――先輩、ありがとうございました。先輩がいたから、奴を倒せたと思います。先輩が頼ってくれたの、俺、すごい嬉しかったです。



 何かを言いかけるマリンにあなたは人差し指を差し出す。指を、あなたはマリン先輩の唇の手前に置いた。



 ――こういうのは、互いにありがとうで、いいんですよ。今日は本当にありがとうございました、マリン先輩。



「……ぅん、ありがとう、モブくん」



 マリンが涙ぐむ。

 お互いにお礼を言ってから、あなたたちは治療中の仲間たちのほうに振り返った。

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