1-11 表と裏
「安心しろ。お前もすぐにあの虫けらの所に送ってやる」
魔物使いの男がそう言うと、マンティコアがルーナに向き直り、ゆっくりと近付いてくる。
「……許さない……許さない……許さない……!!」
ルーナは、怒りと憎悪に身を焦がしながら、泣いていた。
まだたったの数日だ。
出会ってからその程度の時間しか経っていない。
だがそんなことはルーナの中ではどうでも良かった。
アサヒの顔が。
困った顔が、楽しそうに笑う顔が、からかうようにおどける顔が、その目に浮かぶ。
嬉しかった。
楽しかった。
私は、ずっと一人だったから。
お父さんは私が生まれる前に死んで、お母さんは幼い頃に私を庇って魔物に殺された。
ずっと一人だった。
この身に流れる血を
友達も仲間も、家族もいない。
だから、嬉しかったんだ。
「『
ミシミシ、と筋肉が軋む音がした。
筋肉が引き
低く、身体が水平になるように、低くその身を沈みこませたルーナは――。
「……殺す!!」
爆発的な加速を持って、一気にマンティコアへと肉薄した。
その速度は音速を越え、周囲に
踏み込みの瞬間、右足が負荷に耐え切れずにその筋肉も骨も砕けてしまったが、ルーナは気にも留めない。
ただ、目の前の敵を殺す。
アサヒを殺したこいつを。
加速に乗りながら剣を振り抜こうとするルーナ。狙うはマンティコアの首。
普通であれば、そのスピードは一般的な生物の知覚速度を遥かに超えている……はずだった。
『へーきへーき。不老不死、舐めないでよね』
唐突に、アサヒの言葉が思い出される。
もし……もし本当にそうなら……どれだけ嬉しいことか。
でも、そんなことはない。それは希望的観測だ。
マンティコアの炎は一瞬にして骨まで焼き尽くす。
圧倒的な回復力を持つアサヒでさえ、即死は免れない。
アサヒ……私のたった一人の、友達。
勝手にそう思っていたけど、アサヒもそう思ってくれてたかな。
アサヒの顔が、言葉が、脳裏によぎる。
――まるで走馬灯のように。
マンティコアは示し合わせたかのように身体を横に滑らせ、ルーナの軌道上にその固く鋭い尾を突き出した。
完璧なカウンターで突き出されたマンティコアの尾は、ドラゴンすら殺せる強力な毒針だ。
このままだと、ルーナの命はない。
眼前に迫るマンティコアの尾。
ルーナはその光景を、スローモーションになった世界で見ていた。
「ああぁぁああああ!!!!」
身体強化は、肉体が強化されるだけで思考速度が上がるわけではない。
だが、目前に迫った死と、ルーナの底知れぬ魔力が、土壇場でそれを可能にした。
ルーナは雄叫びを上げ、空中で身体を捻る。
顔のすぐ横、ほんの数センチ横を通り過ぎる、マンティコアの尾。
身体を捻った勢いのまま、ルーナは剣を振り抜き――。
その尻尾を根元から叩き斬った。
「グゥゥアアァァ!」
「ば、馬鹿な……マンティコアの鋼鉄の尾を……斬っただと……」
ルーナは体勢を崩しながら地面に転がる。
右足から電流のように激痛が走る。
それでもルーナは、左足を軸にしてなんとか立ち上がった。
小さく身体全体が震えている。
だがそれは、恐怖から来る震えでも武者震いでもない。
限界まで酷使した筋肉が、痙攣していた。
ルーナはマンティコアを睨む。
まだだ……まだ……あいつは死んでない。
マンティコアは尻尾の根元から青い血を撒き散らしながら唸り声を上げた。
その目が、ルーナの視線と交錯する。
「こ、殺せマンティコア! ブレスだ!」
男の声に呼応するように、再びマンティコアの魔力が渦巻いていく。
ルーナは、ゆっくりと剣を構えた。
まだ身体強化の魔法はかかっている。
まだ戦える。
まだ左足がある。
全身の震えを打ち払うように、ルーナは唇を噛み締めた。
今度こそ、首を斬り落とす!
ルーナがその一歩を踏み込もうとした、その時。
マンティコアが、側面から殴られたかのように、吹き飛んだ。
轟音を立てて、マンティコアは岩に激突する。
「な、なんだ!? 何が起きた!」
困惑する男。
ルーナは、まさか、と思った。
不老不死。
半信半疑だったそれが、現実味を帯びてルーナの中で膨れ上がる。
「アサヒ……アサヒ……!」
ルーナは叫ぶ。未だ燃え盛る炎に向かって。
その中から、ゆらりと黒い人影が浮かび上がった。
次第にはっきりとした形を成して、その影は炎から抜け出てくる。
「アサ――」
ルーナは息を呑んだ。
焼け爛れ、一部は炭化したその身体のままアサヒが姿を現す。
あまりに痛々しい姿。
だが、そこじゃない。
それよりも、もっと、恐ろしいものを見たような目で、ルーナはアサヒを見つめていた。
アサヒのその表情は、全くなんの感情も沸いていないかのように、ただひたすらに無だ。
けれどもかつて一度見た、瞳の奥に見えたあの憎悪の炎が……轟々と燃え上がっていた。
「ア……サヒ……?」
違う。あれはアサヒじゃない。
私の知ってる、アサヒじゃない。
直感的にそれを感じたルーナは、小さく震える。
それは正しく、恐怖による震えだった。
「な、なんで……なんで生きてるんだ……お前!!」
男は叫ぶ。
明らかに先程までとは違う、異質な雰囲気。
アサヒは答えない。
ただじっと、男の目を見つめていた。
そのアサヒの身体が、焼け爛れた身体が、炭化した身体が、まるで時間が巻き戻るかのように端から再生していく。
じゅくじゅくと音を立てながら、身体中の傷が元に戻って行く様はまさに――。
「ば、化物……」
そう男が呟いた時、アサヒの身体から溢れんばかりの魔力が
まるで悠然と佇む世界樹のように、立ち昇る魔力の底が知れない。
それは、人の身で宿していいようなものじゃなかった。
神だ。
まさに神に等しい、そう感じてしまう程の圧倒的な魔力。
魔力に応じて寿命が伸びる。
それがこの世界の法則だ。
なら異世界人で、魔力を元々持っていないアサヒは?
――50億年。
その莫大な年月に見合うだけの魔力を、この世界に来たアサヒは手に入れた。
辻褄を合わせるように、世界の法則に
「あ……」
ルーナは腰が抜けたように力なく地面にへたり込む。
逃げたい。
今すぐここから逃げ出したい。
全身が
冷や汗が吹き出し、自然と呼吸が浅くなった。
こんな……こんなの……本当に……。
化――。
ルーナは呼吸するのも忘れて……今、頭の中で浮かんだ言葉を
わた、私……今、何を……。
アサヒを、そんな風に……嘘……違う。
そんなこと思ってない。
だってアサヒは……友……達……。
自分がアサヒに抱いた感情が、信じられないかのように、ルーナは己の身体をかき抱く。
そのままルーナは項垂れるように、顔を伏せてしまった。
「星の守護者について――」
アサヒは呟く。
男の目を凝視したまま。
瞬き一つせず。
「知っていることを全部話せ」
その瞬間、アサヒから発せられる殺気に男は尻餅をついた。
最早、人間の敵う相手ではない。
逃げなければ……早く……でないと……死ぬ……。
男はそう考えるも身体は動かない。
アサヒはゆっくりと男に近付いていく。
その残りの距離が自分の寿命だと、男は悟った。
「グゥゥアァァァ!!!」
そんな魔物使いの精神に反応したのか、マンティコアは立ち上がり、まるで主人を守るかのようにアサヒに向かって行く。
これで時間が稼げれば……!
男の目に、希望の光が僅かに灯る。
だが――。
「そんなに、死にたいのか?」
アサヒは吐き捨てるように言うと、右手を前に突き出す。
その瞬間、走っていたマンティコアが、突然苦しみだした。
「は?」
男の口から、そんな間の抜けた声が漏れ出る。
暴れるマンティコア。
アサヒが突き出した右手を手招きするように折り曲げる。
すると、石のようなものがマンティコアの身体を突き破ってアサヒの手の中に収まった。
マンティコアは地面に倒れ、ぴくりとも動かない。
「……中々の大きさだな」
それはマンティコアの魔石だ。
赤いこぶし大の石は、陽の光が反射してきらきらと輝いていた。
魔石は魔物の核だ。心臓と言っていい。
アサヒはそんなマンティコアの心臓とも言える魔石を手の中で
「……それで? 俺の話は無視か?」
「あ……ぐ……」
男は答えない。
いや、答えられない。
「言え」
アサヒは念動力で男を掴み上げた。
「い、言えない。俺にその権限はない」
「ほぅ……権限か……。例え死ぬとしてもか?」
アサヒの黒い瞳が男を射貫く。
それは正に死神の目だ。
「死ぬとしても……だ……」
「そうか……残念だよ……」
アサヒはなんの感情も籠ってない声で呟くと、その膨大な魔力を練り上げた。
「『集え炎の精。我が前に顕現し、形を成せ
「な……まさか……」
アサヒは呪文を唱える。
「『業火を宿し真紅の瞳。その手に握るのは断罪の剣』」
立ち昇る魔力が、アサヒの身に収束していく。
「『燃え固めるは赤熱の炎炉。燃え広がるは焦熱の湖』」
それは火属性の最上位魔法。
この世界において使える者は片手で数える程もいない、伝説級の魔法だ。
「『この身に刃を突き立てし者、その全てを灰と化せ』」
男は、祈るように呟く。
「あぁ……星王様。星の導きがあらんことを……」
「『
アサヒの手から赤白い光が
その光は目の前の全てを呑み込み、そして――。
耳を
ルーナは体勢を崩しながらも、思わず顔を上げる。
遥か彼方まで、一切が
アサヒの目の前にいた魔物使いの男も、マンティコアの死体も、大小様々な岩石も、何もない。
あるのはただ、永遠と続く真っ白な灰。
腕を下したアサヒを、太陽が照らす。
気付けば、空には雲一つない。
そんな中、ルーナは確かに見た。
不敵に笑う、アサヒの顔を。
目が、合った。
ルーナは反射的に視線を落とす。
ぽたり、と汗が地面に滴り落ちた。
怖い。
怖い。
怖い。
殺されるかもしれない。
そんな考えがルーナの中を覆いつくす。
友達なのに。
頭ではそう思っても、本能が、理性を凌駕していた。
アサヒの足音が聞こえる。
ゆっくりと近付いてくる。
足音が、ルーナの目の前で、止まる。
耳元で激しく鳴り響く鼓動音。
それだけしか聞こえない世界で、でもルーナは、確かに聞いた。
「ルーナ……大丈夫……?」
それは、紛れもなく、アサヒの声だ。
私の知っている、アサヒの。
ルーナは顔を上げる。
そこには、心配そうにこちらを覗き込む、アサヒの姿があった。
「あ……アサ……ヒ……」
「えーっと、ごめんね。僕、炎を見ると昔を思い出しちゃって……ちょっと……過激になるっていうか……その……」
困ったように視線を泳がすアサヒ。
あぁ、アサヒだ。
いつものアサヒだ。
そう思ったら突然、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
「え、えぇ!? 大丈夫? どこか痛むの?」
おろおろと情けなくうろたえるアサヒに、ルーナは抱き付く。
「こ、怖かった……アサヒが……アサヒじゃないみたいで……怖かった……怖かったよ……」
「ルーナ……」
その頭を、アサヒは優しく撫でる。
「ごめん……怖い思いさせちゃったね」
わんわんと泣きじゃくるルーナ。
その声だけが、灰色の世界でただただ
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