【後編】
喫茶店を出るときにはまだポツポツと顔に当たるだけだった雨。これくらいならと、佐倉は傘をささなかった。
地下鉄の入り口付近になって急に雨脚は強くなり、傘を持たない人々は店の中で雨宿りをするか、歩道を小走りで駆け抜けるほどになった。佐倉は慌てて傘を広げようとしたが、目の前の地下鉄の階段に飛び込むほうが早かった。
地下鉄の狭いホームは雨を避けるために、一駅か二駅ほど利用する乗客がいるのか、いつもよりも人が多いような気がした。
「けっこう降ってきちゃったね」
急いで駅に駆け込んだものの、佐倉と私も濡れてしまった。バックから取り出したタオルを佐倉に渡す。くせのある佐倉の前髪が濡れて、弛いウェーブを描いていた。
「へんなことに付き合わせちゃって……ごめんね。驚いたよね。でも、本当に助かった。ありがとう」
謝罪と礼を伝えて頭を下げる。
佐倉には、戸籍上ではまだ既婚だということを知られたくはなかった。へんに気を使わせたくなかったし、使ってほしくもなかった。だから、話さないでいた。
なんて……。
そんなのはただの体のいい言い訳。私が一番よく解っている。本当はそれを知って……線を引かれてしまうことが怖かった。心地好い関係が終わってしまうことが怖かった。
だけど、知られてしまった。
ホームのタイルが歪む。頬を伝って、ぽとりと熱い
濡れた服と肌と髪に纏わりつく湿気は、反対側のホームに入ってきた電車が巻き上げる風に飛ばされる。手の甲で頬を拭い、乱れた髪を耳にかけて顔を上げる。
ふわりと頭にタオルが載せられた。濡れた髪を佐倉が器用に拭いてくれる。
「お疲れさま」
いつもどおりの笑顔。そのとたんに、涙が溢れて止まらなくなった。
❖
一旦ホームを出ると、涙が落ち着くまで雨の中を歩いた。まるで当たり前のように佐倉と手を繋ぎ、一緒の傘の中にいた。佐倉の誕生日プレゼントに選んだ傘だ。傘の恩恵を私に譲った佐倉の肩は、半分以上は雨に濡れてしまっていた。
大きな手のひらの中に握られた私の手は熱く、その箇所だけ発熱しているようだった。
「雨がやむまで……部屋にくる?」
半分の傘の中で躊躇いがちに、それでも籠るような熱を感じる佐倉の言葉に黙って頷く。そう感じるのは、私がそう思いたいだけなのかもしれない。
私の傘は鞄の中にあった。
このまま佐倉についていってもいいのだろうか。そう迷う気持ちがないとはいえない。ただ、この熱を振り払う気持ちはさらさらなかった。
佐倉の部屋がある階に止まると、狭く古いエレベーターをおりる。
マンションの駐車場を照らしているのは、夜の中に白過ぎる光を投げるLEDの灯り。その白い光の前に、さらさらと降る雨が映し出されては消えていく。
外廊下の手すりに落ちる雨の滴は、ぴちゃっと音を立てて跳ねては、冷たい
静かに降り続ける雨の音と対照的なのは心臓の鼓動だった。
佐倉も私もなにも話さなかった。ただ熱い手を引かれて外廊下を歩く。角部屋の扉の前で足を止めると、斜め掛けのショルダーバックから鍵を取り出し扉を開ける。カチャと鳴く金属音は最後の警告。
ぐっと腕を掴まれると、開けた扉の中へと引っ張り込まれる。閉めた扉に背を押し付けられると、濡れた服が扉にはりついて冷たい温度を吸い上げる。
一瞬の間でも放すことが惜しいというように両方の手のひらも重ねられると、背中と同様に玄関扉に押し付けられた。
「後悔……しませんか?」
私を上から覗き込んだ佐倉の瞳は、強い熱を孕んで睨んでいるようで、でも溶けてしまいそうに潤んでいた。
たぶん、私も同じ目をしている。
「あなた……こそ」
強がってそうは言ってみたものの……今のままの心地好いだけの関係を変えてしまって、いいのか。それを、私も佐倉も本当に望んでいるのか。雰囲気に流されているだけではないのか……。はっきりとそうじゃないと言えるほどの自信はなかった。だから怖かった。
それでもその怖さと同じくらいに、その不安をすべて埋めてしまえるように、今は佐倉の熱と身体が欲しかった。佐倉もそう思っているはずだと、なぜだかそう思えた。
後悔? そんなものはいつでも
佐倉の熱い両の手のひらが私の頬を
佐倉と同じに目を閉じる。
しっとりと湿った熱い唇は、私の唇にわずかに軽く触れる。熱い。啄むように一旦離れては、すぐにもう一度、今度は深く深く合わされる。
自由になった両手を佐倉の後頭部へと回す。湿気でゆるく巻かれてしまった髪の中へと指を突っ込む。ぐしゃぐしゃにして強く、強く引き寄せる。
熱い。熱くてたまらない。
佐倉の唇は導火線だった。必死で抱き寄せていると、佐倉の舌先が何かを探すように唇を割った。
痺れて、熱くて、なにも考えられなくなる。
柔らかな唇と大きな手と関節が浮き出た指。それらに髪や皮膚をなぞられると、それだけで息がこぼれてしまう。
穏やかで激しい静寂に支配されたこの部屋の中には、雨音も忍び込めない。
呼吸は熱と甘さを帯びて湿気を孕む。重力に負けた息遣いだけが雨の夜の底に落ちていく。
ああ。
佐倉の存在は、なぜこんなにも甘いのだろう。蜂蜜のようでチョコレートのようで白い砂糖のようで。甘くて甘くて泣きそうになる。まるで……。
……重なる佐倉の身体はまるで、六月の空気のようだと思った。
私はあの空気に溶かされている。萌える緑の季節の、あの生命の力を溶かしこんだスープのような大気。もやもやとした生命の塊。それが私の身体中の毛穴から忍び込んできては、隅々までを侵していくのだ。爪の先から髪の毛の一筋まで。指先からは佐倉の熱と匂いと鼓動を吸収して。肌と肌と汗と汗が溶けて混じって
お互いを形作る境界線がわからなくなってしまうまで。何度も、何度も、何度も。
コーヒーの香りに目を覚ました。
見慣れない天井にここは佐倉の部屋だと思い出す。隣で眠っていたはずの佐倉はいない。すでに起きているようだった。
ベッドの中で身体を丸める。佐倉の匂いを吸い込んで耳を澄ます。外からはまだ降り続いている雨の音が聞こえていた。
カーテンを閉じられたままの部屋は薄暗い。
キッチンからはいつか聴いたことがあるような唄を、佐倉がのんびりとしたリズムで口ずさんでいた。
時間が静かに流れているように思えた。ベッド脇の時計が秒針を刻む音も、心なしかゆっくりと聞こえる。
なんだかこの部屋は海の
「おはよう」
佐倉は私のぶんのコーヒーカップを渡してくれた。
「おはよう」
片手で受け取り、慌ててブランケットを胸元に手繰り寄せた。昨日の夜のことを思いだすと急に気恥ずかしくなる。
「お腹空いたよね。着替えたらなにか食べに行こうか?」
そういえば……昨夜はなにも食べてはいなかった。
佐倉が先にシャワーを浴びている間にニュースをつけた。ちょうど気象情報が流れていて、キャスターは来週には梅雨が明けるだろうと予測をしていた。それを聴きながらコーヒーを飲んだ。砂糖もミルクも私の好みの量を覚えてくれている。
浴室から出てきた佐倉に、もうすぐ梅雨が明けるようだと告げる。バスタオルで髪の毛を拭きながら「じゃあ、夏はどこに遊びに行こうか?」。私は「暑いのは苦手なの。でも季節の雰囲気は嫌いじゃないかな」と答える。佐倉は「気が合うね。俺も」と笑った。
雨の中を大通りまで歩く。明かりに透けると紫色だと判る傘を二人でさした。佐倉の肩は濡れていない。
落ち着いた雰囲気のカフェでブランチを食べながら、種明かしをするとね、と佐倉が切り出す。「七瀬さんに事情があるのは知ってた」らしい。
「岡崎さんが忠告してくれたんだ」
「岡崎課長が……?」
岡崎課長は上役になる。課長も離婚を経験していたために、家を出たあとに相談にも乗ってもらった。会社にも事情を説明してくれていた。人生の大先輩だ。
「本気じゃないなら手を出すなって。お互いに傷つくからって」
「課長が……」
そんなことを言ってくれていたなんて。
「いい上司だね」
その言葉に素直に頷く。
「だから……俺は本気」
たじろぐほどの真っ直ぐな視線。
一回目は昨夜に彼の前で。
「それ、冗談じゃなかったんだね。……嬉しいな」
私にはまだ問題が残っている。
佐倉を信じたいと思う。だけど、その過程で佐倉が離れてしまったとしても、それは責められはしない。
私はもう、永遠なんてないことを知っているだけ。
ただ、それでも今は佐倉に溺れていたい。鬱々しくて甘い、雨の季節の空気に。存分に浸って、やがては溶け出して混じり合うように。過去なんかには囚われず、未来なんかはどこ吹く風で。
❖ 了 ❖
雨夜小話 冬野ほたる @hotaru-winter
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