【中編】
一年前のあの日。
雨待ちをすることもなく家に帰った。予定どおりにお弁当のおかずの作り置きもできた。それも佐倉が強引に傘を貸してくれたお蔭だ。毎日のランチ代は、積み重なると地味に懐にダメージを受ける。
折り畳み傘はやはりローテーブルの下にひっそりと潜り込んだまま、鞄の中に入れられるのをじっと待っていた。
『七瀬さん』
そう呼んだ佐倉。
佐倉は勘違いをしているだけ。それなのにそのことにはとても驚いたし、その響きは妙にくすぐったくもあった。そして、なにかいつもとは違うような……予感めいたモノの
傘のお礼のクッキーでも焼こうかと思ったが、当然のことながら味の好みなどはまったく分からない。甘いものは好きではないかもしれない。考えた末に辛党でも食べられそうな、ほんの少しの粉チーズと黒胡椒をくわえた塩味のクッキーを焼いた。
「ありがとうございました。あの、これ、甘くないクッキーを焼いたので、手作りのものが苦手でなければ、よかったらどうぞ」
お礼をしてから傘と一緒に渡すときに、手作りですよと注意を添える。苦手ならば、改めてどこかの店のちょっとした品を贈ろうと思っていた。
「ええっ。わざわざ焼いてくれたんですか? ありがとうございます」
佐倉はまた仔犬のように笑った。わずかに鋭さを感じさせる細い目の印象が変わり、下がった目尻のせいで人懐こい雰囲気になる。
私の名が『七瀬』だと知ると、彼は顔を真っ赤にして謝った。「すみません。てっきり名字だと思ってました……。皆さんもそう呼んでるし……」
ここの支部には女性が多いから……というわけでもないのだろうが、同僚とは名前で呼び合うことが多かった。そのほうがさまざまな理由で現代の社会に合っているのかもしれない。
「べつにいいですよ。どちらでも」
真っ赤になって謝る姿がなんだか可笑しくて、ちょっと
「じゃあ……俺も七瀬さんって呼ばせてもらいます」
それからは廊下や昼休憩、駅までの道、帰りのエレベーターや電車でよく見かけるようになった。ふとしたときに、こんなにも顔を合わせるようになるとは思わなかったと伝えると「それは単に七瀬さんが俺に興味がなかったからでしょう」。そう言って呆れたように苦笑した。
佐倉と言葉を交わすようになった最初のうちは立ち話をする程度だったが、それでも共通の趣味や話題が豊富にあることを知った。
そのうちに昼の時間を一緒に摂るようになり、それがたまに休日も外で会うようにもなった。お互いに気になった映画や展示会を一緒に観に行ったり、話題の店を回ったそのあとに軽い食事をしたり。気が向けばお酒も飲みに行った。
とにかく気が合う。必要以上に飾らずに、自然体でいることができる友だちを得られる機会はとても貴重だ。学生時代ならまだしも、社会に出て勤め始めるようになってからはなおさらに。
佐倉と過ごす時間は、疲れきって
佐倉の漂わせる押し付けがましくない穏やかな空気感が丁度よい。たとえば、深い森の奥の誰もいない滝の側に立っていて、落ちてくる水の音だけを聴いている。そしてその水滴の中に閉じ込められた清廉さを、深呼吸で細胞の奥の奥にまで届けているみたいに。
私はまた、笑えるようになった気がしていた。
❖
家を出てから一年半も経つのに、元夫は離婚届けを提出していなかった。戸籍上ではまだ夫のまま。なにを考えているのだろう。早く届けを出して独り身に戻り、勝手にあの女とでも違う女とでも好きに楽しくやればいいではないか。
早く連絡先を消したかった。しかし結局、そういう理由でまだそれもできないでいる。
家を出たのは彼が朝に仕事へ向かったあと。私よりも早い時間に出る彼が言った「行ってくる」。当たり前のようなその言葉に、視線も合わせずに顔も見ないで声だけは明るく「行ってらっしゃい」と返事をした。彼も私を見ていなかった。
私たちは結局は、なにも話し合ってはいなかった。
最初のころは「とにかく一度、顔を見てきちんと話し合いたい」「離婚の話はそれからだ」などと、頻繁にメッセージが送られてきた。それらにはすべて「必要ありません」と返信をした。かけられた電話にも出ない。
すべてが今さらで終わったこと。一度殺されてしまった心と同じで、もう、あのときの「私」はどこにもいない。そして案の定、謝罪の言葉もどこにもなかった。
引っ越し先の住所など教えるはずもない。会社に何度か問い合わせの連絡が入った。上司に事情を話してあったことできちんと対応をしてくれていた。彼はへんなところでプライドが高くて見栄っ張りだ。私に騒がれるのを警戒してか、支部の入っているビルにまでは直接会いにくることはなかった。駅で待ち伏せされるのも嫌なので、最初の半年間ほどは駅をランダムにずらして乗り降りをしていた。一駅、二駅ほどなら歩けない距離でもない。
何も進展しないままの一年半。
大事にしたくはなかったために、弁護士に依頼はしなかった。だが、この状態が続くのならば、それも視野に入れなくてはならないだろう。早くすっきりとしたかったが、正直、調停になるとめんどくさいことも確かだ。「結婚するよりも離婚するほうが何倍も大変よ」。人生の大先輩の言葉が今さらながらに胸に重い。
既に署名捺印した届けを役所に出すだけの簡単なことだ。それなのに何を話し合いたいのか。家を出る前ならば、その時間は充分過ぎるほどにあったのに。
頻繁に届いていたメッセージだったが、ここ最近はさすがに月に一度か二度ほど届くだけになっていた。こちらからの返信は、一言一句同じ文章を返すだけ。
彼はやっと、今さら話し合うことにはすでに意味がないと理解したのかもしれない。そう思い始めていた。
だから……油断したのだ。
❖
「そいつはなに?」
低く垂れ籠めた雲からは今にも雨が落ちてきそうな週末の夕方。どことなく浮き足だった雑踏には雨の匂いが混ざり込む。
地下鉄への階段を降りようとすると、後ろから強い口調の声がした。聞き覚えのある声に思わず反応して振り返ると……そこには彼が立っていた。
驚いてしまって、ただ息を飲む。
なんで今ごろになって……。
「七瀬さん?」
佐倉の視線は足が止まった私と彼とを交互に見比べた。「どうしたの?」と、声のトーンを落として耳元で訊く。
佐倉にはまだ、なにも話してはいなかった。
こんなことに巻き込むわけにはいかない。そのことを真っ先に思った。
「あ……悪いけど今日は先に帰っ……」
「名前呼びか。あんた、七瀬の男だろ?」
話し終わらないうちに、彼は威圧的に声を上げた。敵意を込めて佐倉を睨みつける。
「ちょっと……! やめてよ。失礼でしょ」
こんな場所にいきなり現れて……。何をするか分からない怖さがあった。佐倉のほうが背は高い。隠せはしないが、それでも背中に隠す。
「七瀬さん、一応確認してもいい? この
彼の威嚇に佐倉は動じる様子もなかった。それどころか何故だか
「話してなかったけど……別居してる……まだ、戸籍上は夫」
佐倉には知られたくなかった。
へんに気を使わせたくはなかったし、使ってほしくもなかった。だから、話さないでいた。それなのに、その結果が……これ。最悪だ。
「あぁ、なるほどね……了解」
それだけを言うと、佐倉は私と彼との間にするりと割って入ってきた。
……?
彼を視界から遮ってくれた目の前の背中を見上げる。
「聞いたろ? どけよ、邪魔。これは夫婦の問題なの。何様のつもりだよ?」
彼の声にはさらに険と苛立ちが交じる。
「まあ、ちょっと落ち着きましょうよ」
「……引っ込んでろ。七瀬。もういい加減にしてほしい。七瀬だってこいつと遊んだろ? お互いさまだろ? もう充分に気も済んだろ? な? もう帰っておいで」
佐倉越しに届いたのは、人を操ろうとする猫なで声。
それを聞いた瞬間に自分でも驚くほどの悪寒と怒りが押し寄せた。今までに経験したことがないほどの、あまりにも激しい感情の高波だった。そのせいで自然と身体が震えてくる。言いたいことが溢れすぎて、かえって口を開くことができない。それほどの強い、強い感情だった。
……この男は。
何を……言っているのだ?
怒りで震える私の手は拳をぎゅうと握った。
「またずいぶんと……勝手なことを言うんですね」
呆れたように首を振る佐倉の声はとても低い。
「……さっきからなに、あんた? 七瀬のお
小馬鹿にするよう嗤うと、労いを装って佐倉の肩を拳で強く押した。ぐらりと佐倉の姿勢が揺らぐ。
「だから……そういうのやめてってば!」
前へ出ようとすると佐倉が腕を伸ばして制した。目を合わせて大丈夫、と頷く。
その様子に彼はわざとらしくため息をついた。自分は苛々しているのだと理解させたいらしい。
「とりあえず、七瀬の部屋に行って荷物をまとめよう。な?」
「いやっ!」
掴まれそうになった腕を振り払う。
「七瀬!?」
夜の時間に入る前の夕方。これから家路についたり遊びに向かう金曜日の通行人たちは、私たちの周囲を避けて通っていく。こちらを横目で見ながら、スマートフォンを片手にひそひそと話しをしている数人もいた。
「いいんですか? もう、けっこう目立ってますよ。警察とか呼ばれちゃうかもしれませんけど」
すっと近づいた佐倉がそう囁くと、彼の態度が変わった。周囲を見回して気まずそうに舌打ちをする。
「よかったら、場所を変えて話をしませんか?」
全国的に展開している喫茶チェーン店は、幸いにも入り口から最奥の隅にあるテーブルに二つの空きがあった。その目立たない席へと着く。
店内は空間照明を上手く使ってあたたかな雰囲気を創っていた。ちらほらと空席があるのは曜日と時間帯のせいだろう。昼の時間帯やもう少し早い時間ならば、友だち同士や恋人同士、親子連れなどで賑わい、楽しそうな会話が店内を満たすはずだ。
ここにきた私たちは間違いなく異物であり、週末でさえ場違いだった。
佐倉は隣のテーブル席に座った。
彼は目の前に座り腕と脚を組むと、テーブルの上にA4サイズの白い封筒をばさりと放る。
封筒の下方に興信所の社名が暗めの青いインクで印刷されている。封筒の口は空いていた。
無言で封筒を手に取る。中身は私に関する調査書と、私と佐倉が一緒に写っている数枚の写真。服装が違うことから数日に分けて撮られていたらしい。まったく気がつかなかった。
「なに、これ?」
「連絡しても埒が明かないから依頼した。とっくに住所もわかってた。今まで黙認してたのは、頭を冷やす時間が必要だと思ったからだ。俺は、七瀬が意地っぱりなのはよく解ってる」
そこまで言うと佐倉にちらりと視線を投げる。テーブルに両肘をつくと手を組んだ。
「……でもさ、いつまでも子どもみたいに拗ねてないで。帰っておいでよ」
ああ。また……。
猫なで声に鳥肌が立つ。
「そうじゃなくて……。なんで今さらなの? 離婚届はいつ出してくれるの?」
つとめて感情を抑えた。
彼は子どもを諭すようにため息をつくと、眉間を指で揉む。
「七瀬は何もわかってないよ。誤解してる」
「誤解……?」
「男の浮気なんて……ただの遊びだよ。遊び。仕事も忙しい時期だったし。ちょっと気分を変えて気晴らししただけだよ。……そのくらいは……目をつぶれないの?」
「……私も働いてた。仕事もして家事もやってた」
「だからさ……遊んだんだろ? そいつと」
そう言って親指で佐倉をさす。佐倉はなにも言わずに私たちを見ていた。
「さっきも言ったけど、お互いさまでいいから。いろいろと考えたんだけど……俺はやっぱりさ、七瀬の飯が食いたいんだよ。な、一緒に帰ろうよ」
ずっと自分を抑えていたが……もう限界だった。目頭が熱くなり、涙が滲む。
付き合っている当時から結婚していた数年間まで。私はこの男の一体なにを見ていたのだろう。多少の強引さは逞しさとすり替えていた。都合の悪いときに甘えてくるのは信頼されているから……ではなく自分に甘いからだ。自分に甘いから都合好く解釈して……私の気持ちを考えようともしない。
胸が苦しくて痛い。理解されたいと願うことは、もう、疲れた。
もう、ここで……終わりにしたい。
ハンカチで目元を拭い、深くゆっくりと呼吸をする。そして……彼を見据える。
「私は……あなたと離婚したい。それだけです」
「だからそれは……七瀬の誤解だって。話し合えばわかる……」
「話し合う時間なら今までもたくさんあった。都合よく逃げていたのはあなたでしょう。誤解? 何が? 私はなにも誤解なんかしてない。遊び? 遊びで信頼を裏切るの? あなたがいう気晴らしのために楽しく女と遊んでいる間、私は家のこともして食事も作ってた。私がどんな気持ちでいたかなんて考えたことはあった? ないよね? あなたから謝られたことなんてないもの」
「それはさ、言わなくても解るだ……」
「いいえ。解らない。私がどんなに苦しかったか、あなたには言えなかった。言いたくても言えなかった。だから私の苦しみは、あなたには絶対に解らない」
「苦しみって……そんな大袈裟な。俺だって七瀬が遊んだのは赦すって言ってるだろ」
「俺は七瀬さんの浮気相手じゃないですよ。興信所がなんて報告したのかは知りませんけど。まだ、友人です」
今まで黙って聴いていた佐倉が口を開いた。私たちに身体を向けて足を組み、頬杖をついている。視線は私を捕らえている。彼ではなくて。
「俺は……わりと本気なんですけどね」
それはこの状況に対する助け船のつもりなのか。場違いな冗談なのか。
彼は再び佐倉を鋭く睨む。それを無視するといつもどおりに、目尻が少し垂れた仔犬のように微笑んだ。
彼はあからさまに大きなため息をついた。それから席を立とうとする。
「……こんな所にいても仕方ない。七瀬。とにかく部屋に行こう」
「行きません」
「七瀬」
「あなたが大事なのは自分だけ。言わなかったから知らないと思うけど……私、あなたに一度、殺されてるの」
「はぁ? なにをそんな物騒な……馬鹿なことを言うなよ。人聞きが悪いだろ」
「裏切られるとね、死ぬの。心が」
訳が分からないという
彼との暮らしも悪いことばかりではなかったはずだ。ただ……それが今はもう思い出せない。
「だから、誤解なんだって。俺は裏切ってない。「そんなつもりはなかった……」」……なんて言い訳をするのは……想像力のまったくない馬鹿か、相手を侮った馬鹿だけ。そう思うけど」
途中で言葉をかぶせると、目を見開いて私を見た。この男はやっと、私を見たのかもしれない。それは私も同じだと思った。結局は似た者同士だったなんて、笑うしかない。
「お願いだから。もうこれ以上、嫌いにさせないで」
離婚届はこちらで提出するから会社宛に送ってほしいこと、それが成されない場合は弁護士に相談せざるをえないことを告げる。
彼は口を固く結んでいた。承諾か否かも、なにも言わなかった。
バックから財布を取り出して千円札二枚をテーブルの上に置く。
私とあなたの道が交わることは二度とない。
「さようなら」
もう、これで本当に最後。
席を立つと佐倉も立ち上がった。
彼は不安そうに、傷ついたように、憐れで弱々しい自分を装って私を見上げる。
だけどね、あの日にぜんぶを置いてきたから。ごめんなさいね。もうあなたには、なにも……思わない。
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