雨夜小話
冬野ほたる
【前編】
鮮やかな新緑は雨に濡れる。
霧のように細やかな雨粒は、やわらかく若い緑色の葉の上に寄り集まり、小さな
六月の空気は鬱々しく甘い。
一面の白く低い空を背景にして、萌える緑が吐き出した
湿度はたぶん100パーセントを越えているのだろう。傘の下で肌にベッタリと纏わりつく不快指数に、うなじが熱い。じんわりと首筋に浮いてくる汗を手の甲で拭う。
暑いのは苦手だ。意識が曖昧になってしまうから。
身体中の穴という穴から水蒸気のように漏れだした「私」は、螺旋を描くようにして立ち上ぼり、生命のエネルギーが混じり合った大気の中へとゆっくりと広がってゆく。そうやっていつの間にか、世界にぼんやりと同化してしまうような気がする。子どもの頃に祖母の家で焚いていた、蚊取り線香の白い煙みたいに。
それでも夏の雰囲気だけは嫌いじゃない。
太陽の光を反射して輝く雲。大輪の黄色い向日葵、夏祭りの賑やかさ、蝉時雨、風に吹かれる風鈴の音、陽が落ちたあとの夜の匂いや濃い空の色、グラスの氷が落ちる冷たくて高い音、早朝や夕方に吹く風の湿度。
この雨の季節が終われば、今年もそんな夏がやってくる。
❖
会社からの帰り道。駅に隣接する百貨店の売場で傘を選んだ。手に取ったのはほとんど黒に近い大きなもの。売場の光に透かすと本当は紫色なのだと判った。
この傘を持つ
一年前の雨の日に、強引に傘を渡してきたのは佐倉だった。
梅雨の季節は朝に雨が降っていなければ、いつも通勤鞄に折り畳み傘を入れていた。だが、その日に限って折り畳み傘は、鞄の中に影も形も見当たらない。
会社のエントランスで鞄の中身をばらまくわけにもいかない。肩にかけたまま、鞄の中に手を突っ込んで探していた。それでもやはり、傘はない。思い当たることは……昨夜、鞄の中身を整理したときに一旦外に出し、戻すのをうっかりと忘れてしまった……ということ。
小雨なら駅まで走ることはできる。多少は濡れてしまうが、タオルで拭けばいい。電車に乗るのにほかの乗客の迷惑にならないほどならば……。
エントランスの自動扉の向こう側を確認すると……灰色の空からは容赦なく
……仕方がない。少しでも小降りになるまで休憩室で待とう。
心の中でため息をつくと、諦めてオフィスのあるフロアまで戻ろうと決めた。今日はいつもより早めに帰って、お弁当のおかずを作り置きしようと思っていたのに。
「あれ? どうしたんですか?」
エントランスへ向かう人波に逆流して歩き始める。すると波の中から声をかけられた。
うちの支部の事務所はレンタルオフィスビルのフロアの一角を借りている。声をかけてきたその男性は、同じフロアにある別の会社の社員だった。
「傘を忘れちゃったみたいで。小降りになるまで待っていようかなって」
足は止めなかった。上階に戻るエレベーター方向にそのまま歩きながら答える。
この人の名前はなんだっけ? と考えながら。
「ああ! それなら丁度よかった! 俺、帰るとこなんで駅まで送りますよ」
彼は足を止めて、手に持った傘をひょいと上げる。
「うーん……それは、悪いです」
つられて足を止める。
親切心から申し出てくれるのはわかっていた。それでも駅までの道をひとつの傘の下に二人は気まずい。会話が続くとも思えないし、パーソナルスペースも近すぎる。
「大丈夫ですよ。この傘、大きいんで」
そういう問題ではないのだが。どう断ったら角が立たないだろう。そんなことを考えていると……。
「佐倉ぁ。
降下したエレベーターの扉が開き、ぞろぞろと降りてくる人々。その中のひとりが彼に声をかけた。その顔にも見覚えがある。
「あ……」
彼――佐倉はなにか思い当たる節があるらしい。その彼に「わかった。ありがとう」と、手を上げる。
「
「いや、いいですよ。……佐倉さんの傘がなくなっちゃうでしょ?」
差し出された傘の柄えを焦って押し戻そうとするが、佐倉はやんわりと止めた。
「大丈夫です。実はもう一本、置き傘がありますから」
そう言うと返事も聞かずに、再び開いた上階へと昇るエレベーターに駆け込んでしまった。
「あのっ?!」
あっけに取られた私に、扉が閉まる前に微笑んで軽く手をふる。警戒心を抱かせない、仔犬のような人懐こい笑顔だった。
廊下で会えば会釈くらいはしていたが、私は彼の名前さえ知らなかった。そんな顔見知り程度なのに、親切にも傘を貸してくれたことにも驚いたが、佐倉が私の名前を知っていたことにも、そう呼んだことにも少なからず――いや、かなり驚いたのだ。
❖
家を出たのは一年半前の年末だった。
つけっぱなしのテレビからは、新しい歳を迎えるために準備するお節料理のコマーシャルソングが流れていた。明るくてどことなく伝統的な厳粛さも感じさせるそんな曲。聞くともなく聞きながら、捺印した離婚届けの上に指輪を置いた。それからテレビを消し、家中の電気を消して玄関に鍵をかけた。
離婚のために、取りあえずは家電が備え付けてあるウィークリーマンションを借りていた。会社への通勤で使う路線沿線の街だ。それからひと月ほどの間に、その街の駅から歩いて十分の場所に、新しくはない部屋を借りた。
家を出た理由はパートナーの不倫だった。
白いウエディングドレスと白いタキシードを晴々しく身に纏い、かつて神様の
どこにでも転がっているよくある話だが、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもみなかったのが正直なところ。
元夫は嘘を吐くときには饒舌になった。
会社が休みのはずの土曜日、サークルもないはずのお盆休みに、なにかと理由をつけてはひとりで出かけていく。
女の勘などというが、大抵の女はいつもとは違う何かに気がつくようにできている。男女の脳の造りの違いだろう。些細なことにも違和感を覚えるようになり、それはいつしか限りなく黒に近い灰色へと変わっていった。
疑念の気持ちを抱えきれなくなった頃。彼が命より大事だというように、肌見離さずいつも持ち歩いていたスマートフォンのロックを解除した。残業といって遅くに帰り、そのままシャワーを浴びている間に。指紋認証を設定していなかったのは、彼のリスク管理への甘さか私への侮りか。そしてそれは、私にとっては幸か不幸か。
面と向かって尋ねる勇気はなかった。さすがに怖かった。それに、もし浮気をしているのなら……素直に答えるとも思えなかった。
脱衣所でスマートフォンを手に取ったときから、両手は激しく震えていた。無断で盗み見るという行為にも罪悪感がなかったといえば嘘になる。それでも、震える指は止まることなく画面をなぞっていた。
メッセージアプリを開くときには、心臓は最大限に鼓動を早めた。苦しいほどにドクドクと脈をうたせる。それでも……。
疑心暗鬼の中での精神はもう、限界だった。なにもないことを確認して安心したかった。そうすれば平和な世界へと還ることができるはずだった。
アプリにピン留めされているアイコンは男性の名前で登録されていたが、彼が待ち受け画面にしている海の写真と同じものだった。それをタップして、開く。アイコンを見たときから予感はしていた。メッセージを遡ってスクロールをする途中から、息ができなくなった。
はっきりさせたいという気持ちの中にあるのは「そんなことはあるはずがない」という、信じたい気持ち。だが、それは見事に裏切られてしまった。
彼は頑として謝らなかった。
スマートフォンのロックを解除されたことに驚いていた。そして、そのことを
秘密を覗いたことは確かに罪なのだろう。では、そうさせるまで追い詰めたことは罪ではないのか。不貞行為は?
感情が昂ってしまい、言いたいことも言えずに勝手に涙がこぼれてくる。彼の裏切りや嘘に対する悲しみや怒り、相手の女に対する憎しみ、平穏な……幸せだと思っていた日常を壊された絶望。そんなものがないまぜになって溢れてくる。
彼はひとしきり一方的に私を非難すると部屋を出ていった。
そして翌日のさらに翌日。日付が変わる頃に何食わぬ顔で戻ってきた。喧嘩をするといつもそうだった。原因をはっきりとさせてその場で解決をしたい私とは違い、時間に逃げる彼。一定の時間が過ぎると何事もなかったように振る舞う。このときもそうだった。
それからというもの、その話をしようとすると機嫌が悪くなり、黙り込む。そしてふらっと部屋を出て行く。
その繰り返しだった。
ひと言も謝らなかった。謝ることは自分の不貞行為を認めることになるからだろう。浮気相手と別れるかどうかさえも口にしなかった。
何も話さなければ、この生活を続けられると思っていたのだろうか。このまま私と、何ごともなかったように生活を続けていきたいと思っていたのか。
その女を抱いた手で、キスをした唇で、重なり合った身体で触れられることは気持ちが悪いことだった。
私をなんだと思っていたのだろう?
家事や雑用を引き受けるタダで使える女、都合のいいときに慰めてくれる女、家賃や食費、光熱費を折半する女。そんな、なにかだろうか。
もう普通には笑えなくなった。
死んだほうが楽になるのではないかとも思ったこともある。二人への当て付けに、女の働いているビルの屋上から飛び降りてやろうとさえ思った。
普通に恋愛をして、普通に結婚し、普通に幸せになったはずだった。それなのに、不用意にも波打ち際に造った砂の城のように、波が寄せたならばすべては一瞬で壊れてしまうものだった。
まだ二年。
それなのに私の人生は……。
フルタイムの正社員として働いたあとに、スーパーに寄り夕食を作る。朝に干した洗濯物を取り込んでたたみ、床を掃除し、洗った食器をしまう。共働きだが、彼は家事を手伝うことはしなかった。確かに仕事も忙しかったのだろう。でも、その半分の時間は女と甘い時間を過ごしていたはずだ。甘えることだけは上手い男だった。まんまとそれにハマったわたしを
別れるか、別れないのか。それを決断できずに、作り笑いを張り付ける。脱け殻のように日々をやり過ごす自分自身が辛かった。
両親には相談はできない。心配をかけるからという理由でもあるが、娘が幸せに暮らしているという幻想を壊すことが忍びなかった。
普通に幸せそうな暮らしを送る友人にも相談することはできない。自分が惨めすぎるように思えたからだ。
別れたくないのは、まだ彼を愛しているからなのか? ……わからない。
わたしのあとにあの女が『妻』という肩書きを手にして、なに食わぬ顔をして笑い、普通の生活を送るのかもしれないと考えると、それは……絶対に許せなかった。だから、それが理由なのだろうか。
別れたいのか。……わからない。すでに自分から彼に触れようとは思わない。
別れるとしたら生活を最初から立て直さなければならない。実家に戻るつもりはない。幸いにも仕事はある。それでも……独りでやっていけるのか。これからの人生に対する不安も大きい。
だけど一緒にいても、かつての気持ちは元には戻らないことだけは解っていた。裏切りの記憶は、返しのついた針で抉られて引っ掻かれたような歪な傷として残る。その傷の上を何枚もの柔らかな皮膚で覆っても傷痕として残り、元の皮膚に刻み付けられてしまう。忘れようとしても、忘れたくても、忘れられるものではない。ふとした拍子に甦り、私を苦しめ続けるだろう。
もっとも近しいと思っていた相手が誰かと口にした禁断の果実。裏切りという行為は心を引き裂いて磨り潰して殺す。
まだ二年。式で祝ってくれた人たちにも顔向けはできないように思えた。そして……失敗だったと認めることは、あまりにも早すぎて、なによりも怖かった。
気持ちは来る日も来る日もどん底を這いずっていた。仮面を被って淡々と送る日々。
今にして思えば、私には覚悟が足りなく、そして弱かった。相手の秘密を知るのならば、こちらもそれ相応の対価を支払わなければならない。秘密を知ったあとに、どうしたいのかを考えてから行動をするべきだった。
寄りかかったままでいるのなら、自らの足で立つことも、真っ直ぐにも歩くこともできない。
足りない覚悟の迷路の中でボロ雑巾のように擦りきれ、疲弊していた。ろくに眠れずに空腹も感じなくなり、虚ろに笑い、だるい身体を引きずり、なにも考えたくなくてただ家事をこなして仕事に行く日々。仕事をしている間だけは、気が紛れるようだった。
私は完全におかしくなっていたのだろう。
彼が取引先との接待だと出かけた休日。車の荷物をぼんやりと整理していると、トランクの底に見慣れない小さな黒いバックを見つけた。手に取ってファスナーを開ける。入っていたのは紙袋だった。袋を何枚かに重ねてある。何気なく中身を取り出すと、クリスマス仕様の包装をされた細長い箱だった。ご丁寧にも女の名前を書いたカードも、箱に巻かれた銀色のリボンの間に挟んであった。
もう……ダメだと悟った。
この生活に意味はない。なにもない。
その箱を地面に叩き落とした。パァンという乾いた破裂音がした。思い切り踵で踏みつける。何度も何度も。リボンが外れ包装紙は破け、箱はいい気味に無惨にもぐしゃりと潰れた。中からは有名なジュエリーブランドのシルバーのネックレスがこぼれ出た。
それを指先で拾い上げる。両手で細い鎖を引き千切った。カードを真っ二つに破いて握り潰す。乾いた土で汚された潰れた箱に、同じく乾いた泥で汚れたリボンを丁寧に掛けなおす。ぐしゃぐしゃに丸めたカードも開いて、きちんとリボンの間に二枚にして挟み込んだ。それから元の場所へとしまった。
喉が詰まり、ただ涙が流れた。頬から流れ落ちた
この涙はなんなのだろう。
情けなかった。ただひたすらに。
結論はすでに出ていたのに。迷いながらも捨てられずにしがみついていた『普通』の生活。そんなものはとっくのとうに壊れていたのに。目を背けていた自分の弱さと不甲斐なさとに、とても腹が立つ。
耳に渇いた笑い声が聞こえた。私は笑っていた。頬に涙を伝わせながら、口からはふつふつと笑いが湧いてくる。
もう、修復しようとさえ思えない。
それを思い知らされた瞬間だった。
結婚当初は欲しいと考えていた子どもはできなかった。それだけが救いのようにも思えた。
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