2025/1/1 既朔

「……片瀬、起きて」

 遠くから声が聞こえる。

 なんだっけ。昨日は……。

「……ぁ」

「おはよう」

 ……。

 ……そうだ。桐川の家に行って……そば食ってそのまま寝てたんだった。

 肩に毛布がかけてある。……なんか色々申し訳ない。

「おあよ……ふわぁ」

 あくびをして肩を回す。ごきゅっみたいなすごい音がした。

 まだ外は暗い。なんでこんな時間に……あー、そういえば初日の出見に行こうとか言ってたな。俺が。

「毛布、ありがとう……あー……ねみぃ」

「どういたしまして。顔洗ってきていいよ」

 桐川はなんか、しゃきっとしていた。

「……お前、ちゃんと寝たのか」

「うん。でも運転するから、早めに起きてコーヒー飲んでた」

 すげーと思いながら顔を洗う。ちょっと目が覚めた。

 ……めちゃくちゃ迷惑かけちゃってるじゃん。

 まあ、いいか。

 桐川だし。

 その後、ありえないくらい濃いコーヒーを飲まされたあと、外に出る。

「さっっっっむ!」

 風が全身に吹きつけてきて一気に目が覚める。

 バイクの前で、二人乗りについて桐川から色々注意事項を受ける。本当に色々。たくさん。

 後ろに座り背中から手を回した。桐川がエンジンをかける。

 ワクワクするな、こういうの。

 ついに発進した。だんだんとスピードが増していく。

 ――風が速い。

 身を削ぎ落とされそうな鋭さ。

 慌てて腕の力を強める。

 やばい。

 めちゃくちゃ怖い。

 ああ、死にそう、って、初めて思った。

 ――今、桐川に命を預けている。

 この手を離してしまえば、桐川が運転を誤れば、一瞬で道路に投げ出される。

 すっげぇ怖い乗り物。よっぽど信用してないと一緒には乗れない。

 ――そうだよ。

 俺、桐川のこと、信じてるんだよ。

 必死に桐川にしがみつく。

 何も考える余裕がなかった。

 



 ――命を背負っていることが、怖かった。

 歯や脚ががたがたと震えるのは、寒さのせいだけじゃないだろう。

 背中に人の温かさを感じる。

 ――死にたくない。

 ――片瀬を死なせたくない。

 正直、片瀬の腕の力が強すぎて痛かった。

 ――絶対に、その手を離さないでくれ。

 ハンドルを強く強く握る。

 広い視野を持って、あくまで冷静に。

 僕たちは、光のように速くなる。

 すべてを置き去りにして。

 日が昇る場所を目指す。



 途中、コンビニに寄るために一度降りた。

 寒風に吹かれた体が内側から温まる。

「じゃあこれで。後で払うわ」

 片瀬がカゴに入れたのはコーンポタージュだった。

「いや、僕が奢るよ」

 ココアを手に取る。

 熱がじんわりと手のひらを包んだ。

「あの日のお礼だ」

 あれから劇的に何かが変わったわけじゃない。

 実際に今、実家には帰っていないし、友達も一人しかいない。

 僕はまだ、空っぽのままだ。

 それでも……僕があの日、少しだけ幸せになれたのも事実だ。

「そっか……ありがと。じゃあ、次は俺が払うよ」

 次、って。

「どうせまた会うだろ」

 そうか。

 また会えるのか。

 ただ、僕たちが会おうとすれば。

 ――考えてみれば、当たり前のことだった。

「別に、何も用がなくたって会いに行ってもいいんだからさ。それが友達ってもんだろ」

 その『次』がいつになるかはわからないけど。

 ――いつかまた会う日まで、懸命に生きよう。

 真っ黒だった僕の未来に――不確定だけど、確かな一筋の光が差し込んだ気がした。


 

 神社の麓の駐車場にバイクを停めて、徒歩で階段を上る。

 自分の足で歩くのは、途方もないほど遅く、時間がかかった。

 人はぽつぽつといるくらいで、そんなに混んでいない。

 先に参拝しに向かう。

 夜の神社は、いつもに増して厳かだった。

 触れたら壊れてしまいそうな不安定な空気。

 この場所で切実に願いをかけた多くの人たちに、思いをはせる。

 頭を垂れる。手を合わせる。

 ――僕は。

 未来を、思う。

 明日は。明後日は。来年は。十年後は。五十年後は。

 どこで何をしているかなんて、わからないけど。

 ――幸せになりたいです。

 もう、寂しいと思う日がないように。

 今日という日に満足できるように。

 幸せに、なります。

 


 神社から離れて、広場のようなところまで来た。

「桐川、なんかお願いした?」

「うん……片瀬は?」

「まあ、色々。去年は……願うことなんて別にねぇなって思ってたんだけど」

 少し言い淀んだ。

「――本当は、なんで俺がこんな思いをしなきゃいけないんだって、どうにかしろって、文句言ってやりたかった。でも、そんなの、俺が叶えるしかないじゃん」

 中学三年生のときを思い出す。

 ――強くなったな、と思った。

 片瀬は、ずっと戦ってきたんだ。

「実際、今は寂しくないしな……へへ」

 片瀬は照れ隠しみたいに笑った。

 つられて頬が緩む。

「とりあえず、冷めそうだし飲むか」

 袋から缶を出す。まだ温かかった。

「じゃあ……明るい未来に乾杯ってことで!」

「ふはっ……乾杯」

 かちんと缶をぶつける。

 空元気のような寂しささえも心を満たす。

 外は寒くても、一人で部屋にいるときより、ずっと温かい。

 三年ぶりの、甘いココアの味。

 しばらく無言で飲みながら空を眺める。

 満天の星空とは言い難いけど、ぽつぽつと光が見えた。

「というか、あと何分くらいで日の出?」

「今が六時四十分だから……たぶん、あと十分くらい」

 夏ならもうとっくに朝なのに。

 これから日が昇るなんて信じられないほどの暗闇だった。

「――初日の出って、意味あるのかなって思ってた」

 かすかな声が、夜の静けさに溶ける。

「だってさ、毎日、太陽は昇るじゃん」

 去年の元日。

 太陽の光が眩しすぎた、あの日の僕も。

「――でも、当たり前のように今日も日が昇ることが、奇跡なんだって思えたから……だから、大切にしないとなって」

 片瀬の感性は、ときどき純粋な子供みたいだ。

 素直に言葉を紡ぐのは勇気がいることだろうに。

「奇跡、か」

 中学三年生のとき。片瀬が丘へ行こうと言わなかったら。

 高校二年生のとき。僕がメッセージを送らなかったら。

 昨日。僕が電話をかけなかったら。片瀬が家に来なかったら。

 住む世界が違って、高校も大学も別で。

 僕たちが二人とも、それぞれに幸せな人間だったなら。

 たった一度さえ生まれなかったかもしれなかった。

 そんな奇跡みたいな今日を慈しむ。

「充分まともに育ったよな、俺たち」

「……うん」

「犯罪もせずに。色んなことを頑張ってきたし。今日までなんとか生きてきたんだよ。すごいよな……っ……」

「……っ……うん」

 声が震えていた。

 泣きたいような、笑いたいような気がした。

 

「――僕たちは、いつか」

 非日常な空気、友達の存在、未来への不安、明けていく夜。

 空の果てが、白く光り始める。

 

「――幸せに、なれるかな」


 夜露が頬を濡らした。

 片瀬が微笑む。

 

「……きっと、なれるよ」


 日が昇る。

 光が朝を連れてくる。


「――綺麗だ」


 去年も、同じ場所で見た景色。

 今年は――眩しい光を、真正面から受け止められた。

 特別な景色だって、心から言える。


「今日は新月だから……月は、八時くらいに昇ってくるらしい」

 携帯のロック画面に、月齢が毎日表示されているから覚えていた。

「へえ……」

 頷きながらも、眩しい空に目を凝らしている。

「……月って、裏側を地球に見せずに回っているから」

「うん」

「誰にも見せない裏側を、今は太陽が照らしてくれているんだ」

 強い光で見えない月の、輝く裏側。

「そうだな……きっと、そうだといいな」

 美しい月の裏側も、太陽は等しく、暖かく照らす。

 たとえ見えなくても、そこにあるから。

 ――そんな光と出会えた僕は。


「……僕は今、幸せだ」


 きみといればどんな景色も綺麗で。

 たとえ見えなくても月は美しくて。

 食べ物も飲み物も美味しく感じて。

 どれだけ寒い場所にいても暖かい。


「……俺も!」


 真夏のようなその笑顔を。

 冬の朝日が暖かく照らした。


「……あー、なんか……一緒に世界一周でもする?」

 片瀬が伸びをしながら言う。

 ……まったく、きみの思考回路はどうなってるんだ。

「ふはっ、さすがに急すぎるけど……それもいいな」

「だろ〜」

 今この瞬間が終わってほしくないけど。

 明日が来たとしても、きっと良い日になる気がする。

 

「……これからもっと寒くなるよ」

「きっと暖かい日もあるさ」


「まだ今は新月だ」

「これから満ちていくんだよ」


「僕は一人だから」

「俺がいるじゃん」


 寒さに身を寄せて。

 とりとめのない会話をして。

 苦しんで、落ち込んで、もがきながら。

 ――今から歩み始めるのも、きっと遅くない。


 日が昇って、朝が来る。

 太陽が沈んで、夜になる。

 桜吹雪が街を覆って。

 熱い太陽が身を灼いて。

 涼しい風が葉を散らして。

 きみと寒いねと笑い合って。

 昼と夜が繰り返して、季節が何度も巡って――僕たちを、遠いところへ連れて行く。


 朔の月の、裏側へと。

 

 ――月はまだ、満ちる途中だ。

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冬空の月、月の裏側 ひつゆ @hitsuyu

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