2021/12/25 宵月
まだ明るい空には下弦の月が見える。
ああ、月だなって思って、それだけ。
世間はクリスマスらしいけど、窓から見える世界に雪は降っていなかった。
――聖夜と呼ばれる日に、僕はひとり凍えていた。
自室は日当たりが悪く暖房の効きも微妙なため、布団をかぶって勉強をしている。
リビングに行けば暖かいはずだが、親が色々と言ってくるだろう。
そこまで嫌っているわけではないけど……過剰に期待をかけられるのも、口出ししようとしてくるのも、とても気詰まりで勉強どころではない。
――親は、僕にどうなってほしいのだろう。
遊ぶ暇も与えず、娯楽も取り上げ、口を開けば勉強と進路の話……いや、最初からそこまでだったわけじゃない。
僕が中学受験を失敗したあの日からだ。
まだ小学生だったのだ。人生が終わるかもしれないなんて考えて、緊張でうまく息が吸えなくて、お腹が痛くなって、頭が真っ白になった。
僕は頑張っていた。
ただ、報われなかった。
母親の、失望と落胆に満ちた瞳が……あの日からずっと、忘れられない。
――中三の十一月。あの日、信じられないほどきれいな夕陽を眺めながら……片瀬に告げた言葉で、過去の自分も救われたような、そんな気がした。
僕はまた頑張った。
そして、報われた。
合格したときは本当に嬉しかったし、母親も父親も泣いて喜んでくれた。
――これで、満足してくれたのだろうか。
そう思ったのも束の間。親は入学して早々、晴れやかに微笑んでこう言ったのだ。
「次は大学受験ね」
「期待しているからな」
そのときからまた、家でも学校でも塾でも勉強だけをする日々。
勉強はけっして嫌いではない。
ただ、この寒い部屋で……必死に頭を働かせ続けるのは、もう疲れた。
でも僕は――そうやって生きていくしかないのだ。
もう今更、他の生き方はできない。
ほぼ使っていないスマホに、ただ一人だけ登録された友人。
高校に入学してから、あまり連絡は取らなくなった。
きみはきっと今頃、楽しいクリスマスを過ごしているのだろう。
恋人と手をつないでイルミネーションを見るのかもしれない。たくさんの友人に囲まれて賑やかに過ごすのかもしれない。あるいは家族と一緒に夕食を食べるのかもしれない。
――羨ましくてしょうがなかった。
人を惹きつけるような人格も。何事にも一生懸命に取り組む姿勢も。太陽のような笑顔も。
そんな中で、僕は片瀬の友人の一人でしかない……いや、そもそも、友人なのだろうか。
片瀬があの日、僕に声をかけたのは、僕がたまたま駐輪場にいたからだ。……きっと、他の誰かでもよかった。
別にそれでもいい。何年もひとりで過ごしてきたから、慣れている。
でも、片瀬ともう一生会わないのかもしれないと思うと……それは少し、惜しいかもしれない。
なんとなくメッセージアプリを起動させてみる。文字を打とうとして手が止まる。
……どうやって会話を始めればいいのだろう。
『今、どこにいますか?』……いや、少し怖いな。敬語はやめよう。なるべく軽く、気さくな雰囲気で……。
『今、暇だったりする?』よし、これでいこう。送信。
すぐに既読がついた。邪魔してしまったら申し訳ないなといまさら思った。
『ちょうど暇になった』『どうした?』
どうした。……どうしたのだろう、僕は。
自分の不可解な行動に頭を悩まされていると、片瀬からまたメッセージが送られてくる。
『いま○○駅にいるんだけど、来る?』『でっかいクリスマスツリーある』
やっぱり、こういう気遣いができるから、片瀬はたくさんの人から好かれるのだろう。
……行ってもいいのだろうか。でも、ちょうど暇になったと言っていたし。
『すぐ行く』
上着を着て、マフラーを巻いて、カイロもポケットに入れて、部屋の外に出る。
母親に出かけると伝えると、「気をつけてね」とだけ言われた。
正直、意外だった。どういう心境の変化なのだろうか。
……僕の親は、けっして悪い人ではない。傍から見たら子供の人生を私物化しているように見えるだろうけど。たまに見せる優しさに、なんとなく愛情を感じてしまう。
そうやっていつも騙されているのかもしれない。
――きっと、それでもいいんだ。
曲がりなりにも、愛があるなら、それで。
「行ってきます」
冷たい風が真正面から顔に吹きつける。思わず頬がゆるんだ。
駅から出てもすごい人混みだった。
正面に大きなクリスマスツリーと、イルミネーションで彩られた木々。そしてたくさんの人たち。
光が強い。ぎらぎらとしたオーラに圧倒された。
片瀬を探す。そもそも中学を卒業して以来会っていないから、見つけられるかもわからない。
少し広場から外れたところに、ひとり佇んでいる人影を見つけた。
近づいていくと、スマホから目を上げてこちらを見た。
「お、来たか。久しぶり」
久しぶりに見た片瀬は、背が伸びていて、髪が茶色っぽくなっていて、おしゃれそうな髪型と服装をしていた。
本当に外で待っていたのか、鼻が赤くなっていた。
「イルミネーション見た? すごかっただろ」
「……ああ、うん。でも、ああいう人工的なのは……」
「うわ、わかる。俺もな~あれはちょっとやりすぎって思ったんだけど、かの、えーっと……連れが見たがってさ。まあ、きれいなんだけど」
やっぱり彼女、さんと一緒にいたのか。……たしかに、とてもモテそうな恰好をしている。
「……まあ、とりあえず公園にでも行く?」
近くにあった、誰もいない公園の錆びたベンチに座る。正直寒いが、風がないだけましだった。
「それで、なんかお悩み相談?」
ポケットに入れてきたカイロをもてあそびながら答える。
「……いや、特には。自分でもよくわからない」
「そっか……それカイロじゃん! 一個貸してくれね?」
渡したときに触れた片瀬の手は、恐ろしいほど冷え切っていた。
「……寒くないのか」
「え? ああ、大丈夫大丈夫。慣れてるから」
寒さに強いのだろうか。カイロを握りしめて「あったけぇ……」と呟いている。
「……その、連れの方、とはもう別れたのか」
「あー……」
曖昧な返事をして遠くを眺める。……まさか。
こちらの視線に気づいたのか、慌てて弁解し始めた。
「いや振られたわけじゃないから! その……彼女、まだ小さい弟と妹がいるから、早めに帰ったんだ」
「それは……すごく良い人なんだな」
高校生で、表立って家族を大事にできる人はそうそういない。
「……そう、めちゃくちゃ良い子なんだよ……本当に……だけど。なんだろ」
長く吐いた息が、白く染まって一瞬で消えた。
「――たぶん、寂しかったんだ」
……片瀬でも、寂しいと思うことがあるんだ。
それは小さな衝撃だった。
「お前んち、クリスマスとか、やったことある?」
……クリスマスって、するとかしないとかの問題なのだろうか。でも考えてみれば、自主的にやろうとしたことはなかった。
「一応、家でケーキとかチキンとか食べたりする」
「……そっかぁ」
そして、ひどく寂しそうな目をしてうつむく。
「……俺、家でクリスマスやったことないんだよね。親が仕事忙しくて、あんま家にいなくて。クリスマスの日も、なんか意地張って普通の弁当食べてた」
――まさか。
あの片瀬が。
たくさんの人から慕われて。常に笑顔でいて。
孤独とは無縁な人間だって。
……勝手に、そう思い込んでいた。
きみも、寒くてたまらないクリスマスを知っていたんだ。
それでも、誰にも裏側を見せずに、明るく笑っていたんだ。
「保育園の友達がサンタさんにプレゼントをもらうって聞いたから、俺も願ったんだ。なのにプレゼントは来なくて……まあ、誰にも言わなかったから当たり前なんだけど……俺が良い子じゃなかったから、もらえなかったのかななんて思った。何が欲しかったのかはもう忘れたけどな」
だから片瀬は――なんて、勝手な解釈にしかならないし――僕にはきみの気持ちはわからない。
だけど、幼い頃の記憶は簡単には消えないってことを、僕も知っていた。
「僕は」
親って残酷だ。
小さくて無力だった僕らにはどうすることもできなかった。
「僕にとってのクリスマスは、親が……図鑑か参考書か、問題集をくれる日だったんだ」
いつからそうだったのかはわからない。
他に欲しいものがあったのかも、覚えていない。
「嬉しかったときも、そうでもないときもあった。ないよりはいいだろうと思って、声をあげることを忘れてしまった」
まだ僕は恵まれているほうなんだって。
きっと、愛されているからこんなにも期待されているんだって。
「僕は本当に勉強が好きなのか、他にしたいことがあるのか……もう、わからないんだ。もし今、好きに生きていいと言われても――きっと、今と同じ生活を続けるだろう。勉強ができなかったら、僕は誰にも愛されないし、期待されないし、本当に、一人になってしまうから」
言葉が途切れる。
……最初に片瀬が言った通り、僕は悩み相談がしたかったんだ。
一人でずっと考えても、答えは見つからなかったから。
何かが変わることを、勝手に期待してしまう。
「……僕はやっぱり、きみが羨ましいんだ。きみの自由に生きる姿に憧れてしまう。きみにはきみの苦しみがあるって、わかっているのに」
ただの自分のエゴだ。ないものねだりに過ぎない。
わかっているのに、感情はそれを追い越していく。
……まったく、みっともない姿だ。
僕はただ、片瀬の優しさに甘えているだけで。
自分にとって都合の良い言葉を期待しているんだ。
「……俺だって、お前が羨ましいよ」
優しさと、寂しさと、無力感と……渦巻く感情を押し込めたような。
人間は結局、わかりあえないんだと悟ったような切ない声色だった。
「――だけどさ、俺たちの親、どっちもひどいよ! 当たり前のように俺たちを愛してくれて、自分が欲しいクリスマスプレゼントをくれるような……願うなら、そんな家に生まれたかった」
――自分の親を、はっきりひどいと言われたのは、これがはじめてだった。
心の奥底では気づいていた。
これは歪んだ愛情だって。
でも、口には出せなかった。
だって――。
「――でも、たまに優しくなったり、褒めてもらえたり、やっぱりこの人たちも一応、親なんだなって、思っちゃうから……心の底から嫌いになるなんて、できないんだよな」
片瀬は唇を震わせながら、そう続けた。
僕の親はきっと、傍から見たらけっして良い親ではない。
そんな人たちでも、僕の親なのだ。
……きっと片瀬も、似たような葛藤と戦ってきたのだろう。
「どっちのほうが幸せかなんて、誰にもわからないだろ」
片瀬は、涙をこらえるように、それでも笑った。
「――お前が教えてくれたんだよ」
片瀬は……。
僕があの日に言ったことを、今まで覚えてくれていたんだ。
――僕たちは似ているけど、正反対だ。
お互いの感情なんて、完全には理解できない。
それでも片瀬は、僕の気持ちに寄り添ってくれた。
僕の代わりに、怒ってくれた。
「お前がもし勉強ができなくなったとしても、俺はお前を嫌いになったりしない。お前が幸せになるために頑張っていたことを、忘れたりしない」
そうだ、僕は。
――幸せに、なりたかったんだ。
頑張れば、幸せに一歩近づけると信じていた。
それが正しいのかはわからないけど。
僕には、そうするしかなかったから。
「やっぱりお前には、クリスマスプレゼントが必要なんだ。何もしなくても、お前がお前であることで、天から欲しいものが降ってくるような」
片瀬は、横にある自動販売機の前に立つ。
「何が欲しい? コーヒー、ミルクティー、コーンポタージュ、ココア……」
「こ……ココアが、いい」
幼い頃、眠れないときに作ってもらった、ミルクたっぷりのココアを思い出す。
……やっぱり、僕の思い出の中には両親がいる。
僕を育ててくれた人たち。
それは揺るぎない事実だ。
「オッケー、ココアな。じゃあ俺はコンポタにしよ」
小銭が音を立てる音。ボタンが押される電子音。がこんと缶が落ちる。
考えてみれば、自動販売機を使うのも何年ぶりだろう。あんなもの不合理だって父親は言っていた。
――今では、その存在の大切さがわかる。
たとえ不合理でも。
今この瞬間に、必要だから。
「はい」
片瀬がココアの缶を差し出す。
「メリークリスマス!」
その笑顔に。
明るさに。
僕は、何度も救われる。
十二月二十五日。
雪が降っていなくて、よかったと思う。
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