冬空の月、月の裏側

ひつゆ

2019/11/1 夕月

 おれは、自分はすごいやつだって思ってたんだ。

 テストはほぼ満点、クラスで一番足も速かった。大抵のことはちょっと練習すればできるようになったし、友達も多くて、女の子からもモテた。

 小学生だったおれは、小さな世界のヒーローだった。

 将来の夢はころころ変わっていて、サッカー選手とか、宇宙飛行士とか、発明家とか、総理大臣とか……大真面目に夢を語っていたのを覚えている。おれは、歴史に名を刻む人間になると、真剣に信じていた。

 大きな夢を語ることがダサいとは思わない。本当に夢を叶えるような人もいるし、たとえ一生懸命に手を伸ばした結果届かなくても、そいつは夢を追いかけ続けたすごいやつだ。

 だから、そのときのおれがただの馬鹿だったとは思わない。

 でも、中学に入学したとき。

 一日に何時間も勉強していて、定期テストでは毎回一位をとるやつとか。

 数々の大会を総なめにしている陸上部のエースとか。

 美大を目指していて、美術予備校に通っている子とか。

 天文学が大好きで研究者になりたいと語るクラスメイトとか。

 本物の「すごいやつ」たちに、出会ってしまった。

 そんな中でもおれは頑張ったんだ。勉強だって部活だって頑張ったし、せめて頼られる人間になろうって、友達の相談に乗ったり、クラスで不服な思いをする人がいないように気を配ったり。

 だけど、失った「一番」は、おれがヒーローでいられたアイデンティティを、広い世界を知って喪失した苦しみは――。

 思ったより大きくて、自分が何者でもなくなったような気がしていた。

 


 高校受験は人生を左右するって、大人は言う。

 だけど、人生が終わるわけじゃないとも言う。

 ……そんなん言われたって、じゃあ、どうしろって言うんだ。

 おれの第一志望は、県トップの公立高校。狙うなら一番だろと安直に考えて、今まで目指し続けていた。

 ――わかってる。

 入試まであと、三ヶ月と二十日くらい。

 今のままじゃ全く成績が足りない。

 ……たぶん、もっと頑張らないといけないんだろうな。

 模試を終えて、問題用紙を見つめながらそんなことを考える。

 ぼんやりとした焦りを背中に感じる。実感は全くなくて、やる気も湧いてこなかった。

 ……おれなりに、頑張ってるつもりなんだけどな。

「どーせ、才能がないから……」

 か細い息が漏れた。

 『天才には勝てないわ』『地頭が違うから』『親ガチャ失敗したし』『勉強だけできたところで意味ない』『どうせ頑張ってもな』

 脳裏を駆け巡る、弱気で卑怯な言葉たち。

 ……だっせえな、おれ。

 あー……かっこわりい……。

 弱い自分をくしゃりと握りつぶす。

片瀬かたせ〜模試どうだった? 今回めっちゃむずくね~」

「あー……まあおれ、天才だからな」

「うお、さすが片瀬! 余裕じゃんな~」

 あははと乾いた笑いを返す。

 いつもなら慰めになる賑やかさも、ただ騒々しく無神経に響くだけ。

 無理して強がってみたけど、その空間から遠のいて、かえって一人ぼっちみたいに思えた。

 冬は嫌いだ。

 一人になったとたんに、寒さに気づいてしまう。

 そんな孤独が嫌で嫌で仕方なくて、今までうまくやってきた。

 それなのに今は……誰かと一緒にいても、この灰色の感情は消えそうになかった。

 

 

 今日は一人で帰ると伝えて、駐輪場に向かった。風が思ったよりも冷たくて、慌てて上着を羽織った。

 ……どうしようっかなあ。

 なんとなく……今、自分の家には帰りたくなかった。

 最寄りのコンビニで買う弁当も、温めてもらうと熱すぎて舌を火傷するし。

 おれ一人には広すぎるリビングは、暖房をつけてもなかなか暖まらないだろう。

 今日はたぶん……そんな生活を、いつものことだって割り切れない。

 どこか適当な飲食店にでも行くかと考えていると、

「あ」

 桐川きりかわがいた。

 いつも定期テストは一位だって噂がある。学校も塾も同じだが、話したことはなかった。いつも一人でいて、暇さえあれば勉強している様子が印象に残っている。

 孤立していてかわいそうだと思ったことはない。

 孤高の天才。そんな言葉が似合う。

 じっと見ていると、ふっとこちらを一瞥した。

 感情のない瞳。

 吸い込まれるかのように思えて足がすくんだ。

 その瞳には――いったい何が映っているんだろう。

 お前はどうして、そんなに――。

「……あの丘に行こう、今から!」

 後ろに見える小さな丘を指さしながら、そんなことを口走っていた。

 一瞬、静まる。

 さすがに桐川は驚いたようで、無機質な表情が揺らいだ。

 少し愉快だった。

 

 

 小学生のときによく遊びに行った丘。UFO山とかなんとか呼んでいた気がする。当時は富士山くらい高いと思ってた。あほだ。今見たら山でさえない。

 木の枝や葉で秘密基地を作って、台風で全部吹き飛ばされて泣いて、あの頃は馬鹿だったなーなんて思った。……すっかり、良い思い出になっちまったんだな。

 自分が天才で無敵でヒーローで、友達は最強の仲間で、一生懸命小さな世界を守って……ああ……あの頃に、戻りてえ、なんて言ってられないんだけど。

 ぐちゃぐちゃした感情を抱えながら自転車を漕いでいたら、いつの間にか丘のふもとに着いていた。

 自転車を停めて、土をざくざく踏みしめながら頂上を目指す。

「お前、ここ来たことある?」

 丘を登りながら、なんとなく後ろを歩く桐川に話しかける。

「一回だけ。友達と」

「ふーん……」

 友達、いたんだ。

 意外だった。

「なんで?」

 沈黙がまた下りる。

 でも、不思議と気まずい感じはしなかった。

「……UFOが落ちた残骸があるって噂を聞いて、気になって行った」

 思わず振り返ると目をそらされた。

「へぇ〜……なんかいいじゃん」

 ちょっと嬉しくなってにやついてしまう。

 案外メルヘンチックなとこもあったんだ。

「UFO、見つかったか?」

「……UFOはなかったけど、木の枝で作った秘密基地みたいなものがあって、その……すごく、楽しそうだなって思ったんだ」

 秘密基地……。

「その基地を作った彼らの、楽しいという感情がこっちにまで伝わってくるようだった」

 楽しいという感情、か。

 たしかに楽しかった。そして明日が楽しい日になることを疑わなかった。

 でも基地は崩れて、だんだんこの丘に来なくなって、おれは今くさくさと悩んでいる。

 ……まあそれでも、夢見がちだった一人の少年に、楽しそうって思ってもらえたら……それでいいか、とも思えた。

「ありがとう」

「? ……ああ、うん」

 不思議そうにされた。そりゃそうだ、おれも何に対するありがとうなのかはわからない。

 一度も話したことがなかったやつと、昔にニアミスしてて……もしかしたら友達になっていたのかもしれないんだ。

 そんなやつと、なぜか一緒に丘に登ったりしている。

 ――たぶん、近くにいてくれてありがとうって意味だ。


 

「お、そろそろ頂上だな」

 山のてっぺんには、少し見晴らしの良い場所がある。

 ちょうど夕陽がしずむところだった。

 おれたちが暮らす街が、オレンジ色に飲み込まれる景色。

 ここから見える家のひとつひとつに人が住んでいて、それぞれの人生を送っている。

 ……たしかにこの山は、今のおれにとっても大きく見える。

「すごく、きれいだ」

 桐川が目を輝かせていて、誇らしく感じた。

「前に来たときはこんなにきれいだと思わなくて……夕方だからか、背が伸びたからか、成長したからか……なぜか、すごくきれいに見える」

 不器用に、文章のように紡がれるまっすぐな言葉。

 そういう感性は嫌いじゃなかった。

「……今日、」

 非日常な雰囲気に飲み込まれて、余計なことを口走ってしまう。いったん話しだしたら、言葉が洪水のように押し寄せて止まらなかった。

「……今日、模試あったじゃん。おれさー、全然上手くいかなくて。単純な計算ミスするし、めっちゃ基礎的なことも忘れるし、難しい問題も全然解けないし、模試とかテストとかになると頭真っ白になっちゃうし、なかなか偏差値も伸びないし……おれ的には、頑張ってるつもりなんだけど、まあお前に比べたら全然、全然頑張ってないように見えるかもしれないけど、おれ、頑張ってるんだよ、だけど、もっと頑張らなきゃって思って、でもこれ以上どう頑張ればいいかなんてわかんなくて、このまま頑張り続けるのが辛くて、才能がないからって、言い訳したくなって、おれ、ひどいやつなんだよ、最低なんだよ、全然かっこよくないし、かっこつけてるだけで、弱いやつで、天才じゃないから、お前みたいにはなれないから、だから、だからもっと、頑張らなきゃって」

 言葉がまとまらない。言いたいことが伝わらなくてもどかしい。ろれつが回らない。涙が滲む。

 ……むきだしの本音で話すって、こんなに辛いことなんだ。

 ――なんで、今日はじめて話したやつに。こうやって弱音を吐いているんだろう。

 いや、たぶん……桐川だから、言えたんだろうな。

 こいつの前なら、かっこつけなくても、明るくふるまわなくても……弱い自分のままでも、いいんだって思えた。

「……あはは、変だよな、こんなこと急に言って。意味わかんないだろうし、聞き流してもらっていいよ」

 そう言ったきり、音が消える。

 正直、桐川には理解してもらえないだろうと思ってた。

 いつもひたむきに、一人で自分自身に向き合ってる、強い人間だから。

 こんな弱気な感情を、認めてもらおうなんて思わなかった。

 

「――きみは、」

 だから、桐川が言葉を絞りだしたとき、信じられない心地がした。

 

「きみは、すごく頑張っていると思う――だから、無理して笑わなくていいんだよ」

 

 それは、中途半端な同情でも、無責任な励ましでもなかった。

 ――ずっと、この言葉が欲しかったのかもしれない。

 きみは頑張っているねと。

 きみはすごい人間だと。

 そうやって誰かに認められたくて、必死で頑張っていたんだ。

「きみは頑張っているし、ぼくも頑張っている。それを比べることなんてできない。……みんな、自分なりに頑張っているから。それでいいんだよ」

 桐川自身の、強い哲学に触れた気がした。

 ひたすら自分の道を歩むことが、どんなに孤独なことだろう。

 「自分は頑張っている」と認めながらも、それでも頑張り続ける勇気は、どれほどのものだろう。

 お前の存在が――どうしようもなく遠かった。

「あと、模試で簡単な計算ミスをしたことを気にしているようだけど」

 桐川は、ちょっと照れくさそうに笑う。

 不器用な笑顔だった。

「ぼくも今日、ミスしてへこんでたんだ。――誘ってくれて、ありがとう」

 まさか。

 ……あの桐川でも、ミスしてへこむことなんてあるんだ。

 当たり前のことだけど、桐川も人間で、同じ中学三年生で……笑うことも、ありがとうと言うことも、頑張るのが辛くなることも、当たり前にあるんだ。

 失敗を知らない人間じゃ、ないんだ。

 そうか。

「あ……おれ……」

 ……おれは、最低なことを言ってしまった。

 才能のせいにしたくないって言ったくせに、桐川は天才だから、おれの気持ちなんてわからないだろって勝手に決めつけて。

 桐川はきっと、そんな孤独の中に生きているのに。

「大丈夫。本当はそんなこと思ってないって、ちゃんとわかってるから」

 ……なんか、大人みたいだ。

 一度もしゃべったことないやつと丘に登って、ありふれた悩みを勝手に吐かれても。最低なことを言われても。おれが一番ほしい言葉をかけてくれた。ありがとうと言ってくれた。

 自分がさらにちっぽけな存在に思えて、死にたくなった。

「――お前は」

 どうして――。

「なんで、そんなに頑張れるんだ」

 ――どうして、そんなに強くいられるんだ。

「……幸せになるため、かな」

 少しはにかむように微笑む。

 ――幸せに、なるため。

 不確定な未来のために。

 もしかしたら報われないかもしれない努力を、し続けている。

 ……ああ、お前は。

 本当に、すごいやつだ。

「……ありがとう。本当に……。うん、なんか元気出た!」

 不思議と、いつものように笑えるようになっていた。

「……そっか、よかった!」

 桐川は本当に嬉しそうだった。

 ……脈絡もなく丘に登って街を眺めながら、こういう話ができるような関係も……きっと友達って呼ぶはずだ。

 太陽が沈んで、静かな夜が始まる。

 三日月がかすかに輝いてた。

 

 その日、おれと桐川は連絡先を交換した。

 家族以外で友達登録するのは初めてのようだった。その不器用に操作する手を見ながら考えをめぐらす。

 もしかしたら、もう桐川とは一生話さないかもしれない。今までも話したことはなかったし、今日この丘に来たのも、たまたま桐川が駐輪場にいたからだ。

 だけど、そもそも友情なんてたいていは偶然から生まれるものだ……だからこそ、確かな繋がりが必要だった。

 家に帰ってもやっぱり誰もいなかった。だけど、暖房を弱めにつけても、広い部屋にいても、いつもより寒さを感じない。

 今日はきっと、暖かい日なんだろう。



 結果的に、おれは第一志望に偏差値が足りなかったため、他の公立高校を受験した。

 そして、合格することができた。

 第一志望を諦めたとはいえ、十一月よりは成績も伸びたし、満足のいく結果になった、と思ってる。

 それでも、第一志望を諦めた日は悔しくて泣いたし、あのまま頑張っていたらもしかしたら……と考えてしまうときもある。

 だけど……塾にいた桐川に「合格した!」と言ったら、「……っ、おめでとう!」と嬉しそうに言われたとき。学校や塾の友達と先生からも、合格おめでとうって口々に祝われたとき。親からも、「よく頑張った」「おめでとう」ってメッセージが来たとき。

 

 ……ああ、おれは、みんなから祝福されるくらい頑張ったんだなと。

 おれが頑張ったら喜んでくれる人がいるんだなと。

 おれはなんだかんだ、周りに愛されてるんだと。

 じわじわと実感が湧いて、温かい涙が頬をつたった。

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