1-2 この《色》のせいなのか
予想通り、家の中から両親の姿が消えていた。台所には、作りかけの味噌汁と溶き卵が入ったボウルが残され、卵液のついた菜箸が一本、床に落ちていた。
咲羅は一瞬立ち止まり、乱れた呼吸を整えると、再び走り出した。
星川に近づくと、畦道に避難している村人たちの姿があった。三十人ほどだろうか。みな呆然と、炎に包まれた建物を凝視していた。
息を切らした咲羅が近づくと、いちばん後ろにいた初老の女性が振り返った。村唯一の商店を営んでいるトキである。
咲羅は口を開こうとしていたが、トキの冷たい視線に言葉を詰まらせた。
トキの目は、咲羅が幼少期に大人たちから向けられた視線を彷彿とさせた。咲羅の《色》に驚いた後、眉根を寄せる。異質な存在に敏感な彼らの視線が、幼いころは恐ろしくてたまらなかった。
近年は向けられることが減っていたはずの目。それが、なぜ今また?
「やっぱり、あんたみたいなんがおるから……」
トキが歯を食いしばるようにして言った。
彼女の声に反応して、他の村人も咲羅に視線を向ける。トキと同じように、親の仇を見るような鋭く暗い目で咲羅を見ている人が、何人かいた。
咲羅は後ずさりをした。ここを離れなければ。急いで畦道から外れ、除雪前の苗代に降りた。くるぶしまで雪に埋もれる。蹴り上げるようにして靴先に乗った雪を払った。
十歩進んだところで、ぎゅっと雪を踏む音が咲羅の背後から聞こえた。
振り返ると、米農家の三太郎が苗代に降りていた。その後ろから木こりの正吾と大工の建二が続く。
三太郎と目が合う。
咲羅と男たち、どちらからともなく走り出す。ぎゅっぎゅっ、ぎゅっぎゅっ。雪を踏みしめる音が迫ってくる。差が縮まるのは一瞬だった。
髪と上腕を掴まれる。涙がにじむ。尻餅をつくと、両腕を後ろに強く引っ張られた。
「離してください!」
拘束から逃れようと身をよじるが、小柄な咲羅と大の男たち。力の差は歴然だった。
「おめえが呼んだんじゃろ」
三太郎が荒く叫んだ。
「よんだ? なんのことですか」
「あんの化け物どもじゃ」
「化け物?」
「突然降ってわいた化け物が、わしの米蔵を壊したんじゃ」
正吾と建二が続けた。
「火を吹く化け物が、おれの家を焼いた!」
「おれの家もじゃ。どうしてくれる」
両腕を引く力が強まった。
咲羅は歯を噛みしめて痛みに耐えた。化け物という言葉に、咲羅の目は戸惑いに満ちる。なぜ自分が責められているのか、理解できなかった。
俯くと、自身の栗色の髪が目に入る。その異質な《色》に、咲羅の表情が暗くなった。まさか、この《色》のせいなのか……。
「なにをしているんですか!」
怒りに震える女性の声が響いた。
顔を上げると、足を怪我した女性に肩を貸しながら歩いてくる、咲羅の母・
「実幸さん」
男たちの力が緩む。その隙に、咲羅は上体をぐんっと前に倒して、男たちの腕から逃れた。這うように駆け出す。雪を掴んだ手のひら、濡れたお尻や足、風を切る頬や耳――全身が冷たさに震えていた。
男たちは追ってこなかった。
実幸の元に辿りついた咲羅は、母にすがりついて泣いた。
怪我人を左腕で支えながら、実幸は咲羅の背中を右手でさする。
「これはどういうことですか」
実幸が三太郎たちをきつく問い詰めた。
村唯一の看護師である実幸には、村人の誰もが世話になっていた。厳しくもやさしい彼女をみな慕っており、嫌われることは避けたいと思っていた。
だから最初、三太郎たちは口をつぐんだ。
咲羅は、視線を外し、黙り込む男たちを鋭い目で見つめた。自分をあれだけ責めたのに、相手を見て態度を変える男たちは、体が大きいだけの子どものように見えた。
意を決して喋り出したのは、木こりの正吾だった。
「そんな子、拾わんかったらよかったんじゃ」
「なんですって?」
「なんもないところでひとりぶつぶつ喋っとる変な娘じゃ。北山の大桜。あそこでいつも喋っとるのを、おれは知っとる。きっと化け物と話しとったんじゃ。
だからわしはあん時、反対したんじゃ。村に置くべきじゃないって。嫌な予感がしたんじゃ。よそもんは悪いもんを引き寄せる!」
「咲羅があの化け物を呼んだって言いたいの? そんなわけないでしょう!」
「それしか考えられん!」
「いいかげんにしてください!」
咲羅は手のひらを両耳に、痛いくらい強く押しつけていた。それでもふたりの声は大きくて、すべて聞こえてしまう。
なぜ自分はこんな色を持って生まれたのか。なぜ他の人と違うのか。咲羅は固く目を瞑る。目尻から涙があふれる。
咲羅の表情には悲しみと同じくらい、悔しさと情けなさが入り混じっていた。咲羅の出自は不明であった。もしかしたら、本当に化け物と繋がりがあるのかもしれない。まったく違うと言い切れないことが悔しくて、母に庇ってもらっていることが情けなかった。
しかし、自分の心の支えとなってくれている精霊たちのためにも、言われっぱなしではいられないと思った。大桜にいる精霊たちはやさしい。精霊たちが村を襲うはずがないと咲羅は確信していた。
咲羅は目を開き、涙をぬぐった。そして、実幸の肩越しに星川の方へ視線を向けた。化け物とはどんなものなのか。目を動かし探すが、黒煙と炎が邪魔をし、見つけることができない。
突然、辺りが薄暗くなった。
雲が出てきたのか。空を見上げた咲羅は目を見開いた。
頭上で巨大な鳥が羽をまっすぐ広げて旋回している。飛び方はトンビに似ているが、その体躯はワシやタカと言っても説明がつかないほど大きい。咲羅から一反ほど離れた距離にいる三太郎たちが、同じ鳥の影に覆われていた。化け物だ。
誰も身動きひとつしなかった。逃げ出せば真っ先に狙われるという本能的な恐怖が、全身を凍りつかせていた。そんな中、声をあげたのは子どもだった。実幸と避難してきた村人たちの中に、昨夜熱を出した三歳の男の子がいた。
父親に抱っこされた男の子は、堰を切ったようにわっと泣き出した。見上げているうちに、怪鳥と目が合った気がしたのだ。父親が必死にあやすが男の子は泣き止まない。
怪鳥は旋回する位置を親子の真上に移した。そばにいた村人たちがじりじりと後退し、親子はぽつんと群衆から離される。
「待って!」
懇願する父親が人の輪に戻ろうとするも、村人たちは親子が移動するたび離れていく。どうしたら。困り果てた父親はきょろきょろとあたりを見回し、咲羅の姿を捉えた。
「助けて!」親子が咲羅に向かって走ってくる。
咲羅は一瞬たじろぎ、「来ないで!」と叫びそうになった。横には怪我人に肩を貸す実幸がいる。もし怪鳥が襲ってきたら、母は自分を犠牲にしても怪我人を庇うことが咲羅にはわかっていた。それだけは嫌だった。
咲羅は掴んでいた実幸のコートを一度強く握りなおしてから離した。そして、親子がいる方へ駆け出す。
「咲羅!」
実幸の右手が空を切った。
咲羅が近づくと、男の子の父親が再び助けを求めてきた。どうしようもないのに。咲羅の眉間に深いしわが刻まれる。咲羅は自分が無力であることを誰よりも知っていた。しかし――。
咲羅は母の方を一瞥した。その目には、母を守ろうという強い決意が宿っていた。
大きな羽音がして強風が吹き荒れる。村人たちの悲鳴があがる。咲羅は足を踏ん張った。腕で顔を守るようにしてなんとか見上げると、怪鳥が急降下してきていた。鋭い鉤爪がこちらへ……いや、実幸の方へ向かっている!
咲羅の目が驚きで見開かれた。
咲羅は元いた場所へ腕を伸ばした。
実幸が怪我人を抱きしめ、怪鳥に背を向ける。
「やめてっ!」
母が殺されてしまう。そう思った瞬間、咲羅の体の奥底から熱いなにかが湧き出た。
『だいじょうぶだよ』
精霊の声がした。
続いて、ホイッスルを大音量で吹いたような怪鳥の鳴き声がした。
咲羅は混乱に満ちた目で周囲を見回した。地上に突撃していたはずの怪鳥が、空の高い位置に戻っている。実幸も他の村人たちも無事である。ただ、実幸も含めた全員が、顔を引き攣らせていた。嫌悪というよりは、畏れを抱いているような複雑な表情をしている。
「咲羅、あんた……」
実幸の言葉は続かない。
咲羅の表情には困惑の色が濃く浮かんでいた。
『さくら、もういっかい』
戸惑う咲羅の耳に、また精霊の声が届いた。咲羅の体が緑色のもやのようなもので覆われる。払おうとするが、腕の動きにあわせて、もやがついてくる。もやは体から出ていた。
『さくら、かぜをだして』
「風? どうやって……」
『てをうえに、まものにむけて』
見上げると、怪鳥が旋回していた。
咲羅はゆっくりと両手を持ち上げ、手のひらを怪鳥に向ける。その動作にはためらいが見えた。
『こっちにくるなっておもって』
『さっきとおなじきもちで』
さっき。母を失いそうになったあの時。生まれてはじめて味わった激情。咲羅のこわばっていた表情が、決意に満ちたものに変わっていく。また何かが、心臓のあたりから、むくむくと湧いてくるのを感じていた。体の中にとどめきれない力が、徐々に溢れ出す。
咲羅の手のひらから放出された力は、鎌のように鋭く薄い風となって怪鳥の胸を裂いた。甲高い鳴き声があがる。傷は浅い。もう一回。精霊の声に促され、またひとつ、ふたつと風を放出する。が、咲羅の単調な攻撃に慣れた怪鳥は、たやすく風を避けてしまう。
琥珀色の眼が咲羅を鋭くにらんだ。
『まもるよ。かぜをひろげて』
精霊の言っていることはわからなかったが、力を放つと自然と緑色のもやが村人たちの頭上に広がった。
怪鳥が強く羽ばたき、
『ちからをだしつづけて』
咲羅は足を踏ん張った。氷が緑色のもやに当たるたび大きな衝撃がくる。手押し相撲をしている気分だった。
自分が後ろに倒れたら……氷がみんなに当たる。
咲羅の全身が、かつて経験したことのない緊張感に包まれていた。雪が残る春先だというのに、咲羅はびっしょりと汗をかいている。時おり頭を振り、流れる汗を払いながら、怪鳥の猛攻に耐えていた。
『がんばって、もうすこし』
「もうすこしって、どのくらい!」
『あとちょっと』
精霊の声には緊張感が欠けていた。普段なら癒されるはずの彼らの声が、今は咲羅の神経を逆なでする。
ぜったいに母を助けたい。そう思うのに、腕を上げていることが辛くてたまらない。咲羅の表情には決意と苦痛が交錯していた。腕は震え、体全体が強張っている。
「あとちょっとって――」
『あ、きた』
精霊の声が、すっと前方へ伸びていく。
咲羅は視線を落とす。前方には雪が積もった田んぼが広がるだけだ。それだけだったはずなのに――。
突然、何もない空間からいくつかの人影が現れた。遠目には性別すら判然としない。人影たちは何かを確認するような仕草を見せた後、行動を開始した。
何人かは雪を強く蹴ると、人とは思えぬほど高く跳躍し、燃え盛る星川周辺へ向かった。その結果、咲羅の眼前に残った人影は二つ。
一人は咲羅の方に駆け寄ってきた。近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。着物に馬乗袴。腰には日本刀。まるで時代劇から抜け出してきたかのような出立ちの男だった。
その男の奥では、もう一人の残っていた影が怪鳥に向かって跳躍していた。怪鳥に向かっていったということは、彼らは味方なのだろうか。
集中力が切れた咲羅は、膝から崩れ落ちる。そんな彼女を、着物姿の男が支えた。
咲羅は疲れた目で男を見上げた。しかし、男の《色》に気づいた瞬間、藍色の目が驚きで見開かれる
十八くらいに見えるその男は、焦茶色の髪と真紅色の目を持っていた。咲羅と同じ異色の目を。
咲羅はその真紅の目に見入っていた。夜を呼びよせる空の色とも違う。秋に天地を埋め尽くす紅葉の色とも違う。どこかなつかしい、深く昏い紅色が苛烈に燃えている。
「あなたは……」
咲羅の声は、怪鳥の断末魔でかき消された。
空中で怪鳥の首が胴体から離れていた。命尽きた巨体が、重力に引かれるように地面へと落下していく。
わっと村人たちが叫んだ。怪鳥は鈍い音を立て田んぼの上に落ちた。舞い上がった粉雪が日の光に反射し、咲羅は目をすがめる。
雪が赤く染まっていた。
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