第2話 漆野圭1「本屋」
沙智のたった一つの世界
(今月末をもって、閉店させていただきます)
その張り紙を見て沙智を思い出した。
あたしはその本屋に入った。
半額の物が多いわりに、お客さんがほとんどいないと言うのが閉店の大きな理由と思った。
沙智とはこの本屋で出会った。
沙智は重い病気をもっていて、ほとんど家から出ることが出来なかった。
リハビリをかねて唯一歩いて来れる、この本屋が沙智の世界の全てだった。
彼女はいつもこの本屋で詩集を読んでいた。
あたしは詩なんてよく分からなかったけれど、沙智はその詩の中で暮らしているようだった。
沙智は行ったことのない、詩の中の場面場面を想像して、あたしに話してくれた。
あたしは良く分からなかったけれど、まるで今までそこにいたかのように話す沙智を、羨ましく思っていた。
でも今なら分かる。沙智はどこにも行ったことがないから、詩の世界で暮らしていた。
きっと、この本屋さんがなくなる事を一番悲しむのは沙智だろう。
だって唯一の世界がなくなるんだから。
その後、沙智はまるで初めから存在していなかったかのように、あたしの前からいなくなった。
家族で引っ越したのは、最後に入院をしたからだろうと思う。
そこから先はそう、想像したくない。
あたしは、沙智がよく読んでいた詩集を手に取る。
春の思い出。
逝く夏の歌。
秋の一日。
北の海。
おそらく沙智は決して見ることのなかった題名の詩が並ぶ。
「その詩集、あげるよ」
「えっ」
「長いことご贔屓にしてくれてありがとう」
「覚えていてくれたの」
「いつもあの子と一緒に、その詩集を読んでいたね」
「そうだね。沙智が来なくなっていて良かった」
「沙智ちゃんって言うんだ」
「うん、でもありがとう」
「何が」
「沙智がいる時に閉店してくれなくて」
「どうして」
「きっと沙智はその唯一の世界を失い、とても悲しんだと思うから」
「そうなんだ。辛かったけれど、続けていて良かった」とおじさんは言った。
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