しおりんと南方熊楠の世界

 ある日の午後、栞は図書館で珍しく生物学の本を手に取っていました。ページをめくっていくうちに、彼女の目に「南方熊楠みなかたくまぐす」という名前が飛び込んできます。


「南方熊楠? 聞いたことはあるけど……」


 栞は興味を持ち、その人物について書かれた本を探し始めました。


 栞は南方熊楠に関する本を何冊も借り出し、自宅で熱心に読み始めました。


「すごい……この人、明治時代なのに、こんなに先進的な研究をしていたんだ」


 栞は南方の粘菌研究や、生態学への貢献に感銘を受けます。

 特に、南方の持つ広範な知識と、分野を越えた独創的な発想に魅了されました。


「生物学だけでなく、民俗学、宗教学まで……しかも、これらを結びつけて新しい理論を構築している。なんて博覧強記なんだ……」


 栞の部屋は、南方熊楠に関する書籍や論文で埋め尽くされていました。机の上には、熊楠の著作が積み上げられ、壁には彼の研究に関する図やメモが貼られています。


 栞はいったんハマると、とことん追究せずにはいられないタイプでした。栞は数日間、ほとんど眠らず、熊楠の思想に没頭していました。


 彼女の手元には、厚めのノートが開かれています。そのページには、整然とした字で熊楠の思想と現代科学の関連性についての考察が綴られていました。栞は眉間にしわを寄せ、深く考え込みながらペンを走らせます。


「熊楠さんの『曼荼羅』的世界観は、現代の複雑系科学やネットワーク理論にも通じるものがある。でも、彼の視点にはもっと神秘的で哲学的な要素が……」


 栞はペンを止め、天井を見上げます。

 彼女の脳裏には、熊楠の描いた曼荼羅図と、現代のネットワーク図が重なって浮かんでいます。


「熊楠さんは、すべての事象が相互に関連し合っているという世界観を持っていた。これは現代のネットワーク理論に通ずるものがある。でも、彼はそれを単なる物理的な繋がりとしてではなく、精神的、霊的な繋がりとしても捉えていた」


 栞は深く息を吸い、ゆっくりとペンを走らせます。

 彼女の瞳は、遠くを見つめるような真剣な眼差しを湛えています。


「複雑系科学では、小さな要素が複雑に絡み合って予測不可能な現象を生み出すと考える」


 彼女は一旦ペンを止め、机の上に広げられた複雑系科学の論文を見やります。そこには蝶の羽ばたきが遠く離れた場所で台風を引き起こす可能性を示す「バタフライ効果」の図が描かれています。


「そう、一見無関係に見える小さな出来事が、予想もしない大きな結果をもたらす……」


 栞は再びペンを取り、書き続けます。


「熊楠さんの言う『事の学』も、個々の事象の背後にある複雑な関連性を探ろうとするものなんだ」


 彼女は南方熊楠の著作を手に取り、ページをめくります。そこには、様々な自然現象や民俗事象を結びつける複雑な図が描かれています。


「熊楠さんは、一つの現象を孤立して見るのではなく、それが他の多くの事象とどのように関連しているかを探ろうとした。彼は自然科学から民俗学、宗教学まで、あらゆる分野の知識を駆使してこの関連性を追求した」


 栞は熊楠の図と、先ほどの複雑系の図を見比べます。そして、ハッとした表情を浮かべます。


「ここに共通点がある!」


 彼女は興奮を抑えきれない様子で、急いでノートに書き加えます。


「両者とも、表面上は関係のないように見える事象の間に隠れた繋がりを見出そうとしている。複雑系科学は数学的モデルを使い、熊楠さんは膨大な知識と直感を駆使して。方法は違えど、目指すところは同じなんだ」


 栞は椅子から立ち上がり、部屋を歩き回り始めます。彼女の頭の中では、複雑系科学と南方熊楠の思想が交錯し、新たなアイデアが生まれつつありました。


「でも、違いもある。複雑系科学は主に自然現象や社会現象を対象としているけど、熊楠さんは人間の心や文化、さらには宇宙の神秘までも視野に入れていた」


 栞は再び机に向かい、新たなページを開きます。


「もし、複雑系科学の手法と熊楠さんの広い視野を組み合わせることができたら……私たちは世界をもっと深く理解できるかもしれない」


 彼女の目は輝きを増し、ペンは止まることなく走り続けます。栞の探求は、科学と哲学、そして神秘が交わる新たな領域へと進んでいくのでした。


「しかし、熊楠さんの視点には、さらに現代科学にはない要素がある。彼は、この複雑な関連性の中に、宇宙の神秘や人間精神の深遠さを見出そうとしていた。これは、現代の科学があまり扱わない領域だ」


 栞は深く息を吐き、椅子の背もたれに寄りかかります。彼女の目は、遠くを見つめているようでした。


「現代科学と熊楠さんの思想を融合させることはできないだろうか。科学的厳密さを保ちながら、彼のような広い視野と深い洞察を取り入れることはできないだろうか」


 栞は再び身を乗り出し、新たなページを開きます。そこには「新たな科学の可能性」というタイトルが書かれました。


1. 分野を超えた総合的アプローチ:物理学、生物学、民俗学、哲学の融合

2. 現象の背後にある関連性の探求:『事の学』の現代的解釈

3. 神秘性と科学性の共存:定量的手法と定性的洞察の調和

4. ネットワーク理論の拡張:物理的繋がりを超えた関係性の探求


 栞はこのリストを見つめ、小さくつぶやきます。


「これが、熊楠さんから学んだ新しい科学の姿。きっと、ここから何か革新的なものが生まれるはず」


 夜が更けていく中、栞の探求は続いていきました。彼女の目は疲れを感じさせながらも、新たな発見への期待に輝いていたのです。


 栞は自分の専門である物理学と、南方の生物学・民俗学的アプローチを結びつけようと試みてみようと思いました。


 ある日、扇華が栞の家を訪れました。


「しおりん、最近よく見かけない本を読んでるけど、どうしたの?」


 栞は目を輝かせながら答えます。


「南方熊楠という人のことを研究してるんだ。彼の研究方法や思想から、現代の科学にも応用できるアイデアがたくさんあると思うの」


 栞は熱心に自分の考えを説明し始めました。


「例えば、南方さんの『事の学』という概念。これは現象をただ観察するだけでなく、その背後にある関連性や意味を探る方法なんだ。これを現代の物理学に応用すれば……」


 扇華は栞の熱意に圧倒されながらも、興味深そうに聞いています。


 南方熊楠の研究を通じて、栞は科学の新たな可能性を見出しました。


「私も南方さんのように、分野を超えた研究をしてみたい。物理学と生物学、そして民俗学や哲学までも結びつけて……」


 栞は新たな研究テーマを見つけ、意欲的に取り組み始めます。彼女の部屋には、物理学の教科書と並んで、生物学や民俗学の本が並ぶようになりました。


「しおりん、その研究、私にも手伝えることある?」


 扇華が申し出ます。


「もちろん! 南方さんも言っているように、知識は共有され、つながることで成長するんだ。扇華の視点も必要だよ」

「あっ!」

「うん?」


 突然扇華が栞の顔をまじまじと見始めます。


「しおりん……また徹夜した?」

「ぎくっ」


 扇華の鋭い指摘に思わず一歩あとずさってしまう栞。


「そ、それはなんというか科学的探究のためのやむを得ない犠牲というか……」

「徹夜はだめって言ったでしょ、しおりん!」

「はい! ごめんなさい!」


 ぷんすかと怒る扇華に素直に頭を下げる栞。


「もう、ちゃんと寝ないとだめだよ、しおりん。お肌荒れちゃうよ? ……しおりんも女の子なんだから、もっと気をつけないと」

「はい……」


 扇華に優しく諭され、反省しきりの栞なのでした。


(了)

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