しおりんとデジタルデトックス

 春の柔らかな日差しが差し込む土曜日の朝、栞は珍しく早起きをしていました。彼女の部屋は、いつもの科学書や実験器具に囲まれた空間とは打って変わって、穏やかな雰囲気に包まれていました。


 ミントグリーンの壁紙に囲まれた部屋の中央には、アンティークな木製のデスクが置かれています。その上には、普段は見慣れないものが並んでいました。エッジの効いた深紅のレザーカバーのノート、繊細な羽根のように軽やかな万年筆、そして柔らかな光を放つアロマキャンドル。これらは全て、栞が昨日、デジタルデトックスのために購入したものでした。


 栞は深呼吸をして、身に着けているものを確認します。淡いラベンダー色のシルクのパジャマは肌触りが良く、まるで雲の上にいるかのような心地よさです。髪は普段のストレートではなく、ゆるやかなウェーブがかかっており、柔らかな印象を与えています。


「よし、これで準備オッケー」


 栞は小さくつぶやき、スマートフォンに手を伸ばします。

 しかし、その手は途中で止まります。


「あっ……、そうだった。デジタルデトックス中だった」


 彼女は少し困ったような表情を浮かべます。普段は常に最新の科学情報をチェックし、オンラインで研究者たちと議論を交わしている栞にとって、デジタル機器から離れるというのは、まるで呼吸を止めるようなものでした。


 しかし、最近、扇華に「しおりん、たまには電子機器から離れて、自然とか本とか、アナログなものに触れてみたら?」と言われたことがきっかけで、この挑戦を決意したのです。


 栞はデスクに向かい、深紅のノートを開きます。ページはまっさらで、無限の可能性を秘めているかのようです。万年筆を手に取り、ゆっくりとインクをペン先に満たします。


「さて、何を書こうかな……」


 栞は少し考え込みます。普段なら、すぐにパソコンを開いて最新の論文を読み始めるところですが、今日はそれができません。


 彼女は万年筆をページに走らせ始めます。最初は少しぎこちない動きでしたが、次第にリズムを見つけ、流れるような文字が紙面に刻まれていきます。


「万物理論の新しいアプローチについて」


 タイトルを書いた栞は、しばらく考え込みます。普段なら、すぐにオンラインデータベースにアクセスして情報を集めるところですが、今はそれができません。


「うーん……」


 栞は思わずため息をつきます。デジタルデトックスを始めてまだ15分も経っていないのに、もう行き詰まりを感じています。


「やっぱり、ちょっとだけネットで調べても……」


 そう思った瞬間、栞は自分の弱さに気づき、首を振ります。


「ダメだ、せっかく決めたんだから……」


 彼女は再び万年筆を握り、自分の知識だけを頼りに書き始めます。しかし、書いては消し、また書いては消しを繰り返すうちに、ノートはインクの染みだらけになってしまいました。


 栞は少し落胆しながら、窓の外を見やります。春の柔らかな風が桜の花びらを舞わせ、その光景は絵画のように美しいものでした。


「こんな風景、普段は気づかなかったな……」


 栞は少し心を落ち着かせ、再びノートに向かいます。今度は量子力学の理論ではなく、目の前の風景を言葉で表現してみることにしました。


 しかし、その試みもすぐに挫折します。適切な言葉が見つからず、栞はまたしても行き詰まってしまったのです。


 「やっぱり…… 私には向いてないのかな」


 栞は小さくつぶやき、無意識のうちにスマートフォンに手を伸ばします。しかし、その瞬間、彼女は自分の行動に気づき、慌てて手を引っ込めました。


「ダメだ…… まだ1時間も経ってないのに……」


 栞は自分の弱さに落胆しながらも、再び挑戦する決意を固めます。彼女は深呼吸をし、アロマキャンドルの優しい香りに包まれながら、もう一度ノートに向かいました。


 栞が再びノートに向かっていると、突然、扉をノックする音が響きました。


「しおりん、いる?」


 扇華の声です。栞は少し安堵の表情を浮かべながら返事をします。


「うん、どうぞ」


 扉が開き、扇華が顔を覗かせました。彼女は今日もいつものように華やかで、春の訪れを感じさせる装いでした。淡いピンクのワンピースは、桜の花びらのように柔らかな印象を与え、首元にはパールのネックレスが上品に輝いています。そして、ほんのりとピーチの香りがする新しい香水の香りが、部屋に春の息吹を運んできました。


「わあ、しおりん、すごく雰囲気が変わってる!」


 扇華は驚きの声を上げました。

 栞の部屋の変化と、彼女自身の様子の違いに気づいたのです。


「うん、デジタルデトックスに挑戦してるんだ」


 栞は少し照れくさそうに答えます。扇華は嬉しそうに栞の隣に座りました。


「すごい! 私の言ったこと、ちゃんと試してくれたんだね」


 扇華は栞のノートに目を向けます。

 インクの染みと、途中で止まった文章が目に入りました。


「でも…… うまくいってないみたいね」


 扇華の声には、心配と優しさが混ざっていました。栞は少し恥ずかしそうに頷きます。


「うん、思ったより難しくて……」


 栞は自分の葛藤を説明し始めました。普段当たり前のようにネットで情報を得ていたことが、できなくなった不便さ。自分の知識だけでは足りないと感じる不安。そして、何よりも、習慣になっていたデジタル機器の使用を断ち切ることの難しさ。


 扇華は静かに栞の話を聞き、優しく微笑みました。


「しおりん、焦らなくていいのよ。これは一朝一夕にできることじゃないの」


 扇華は立ち上がり、栞の本棚から一冊の本を取り出しました。それは、栞が最近買ったものの、まだ読んでいない古典文学の本でした。


「ねえ、これを一緒に読んでみない?」


 栞は少し戸惑いつつも、頷きました。二人は栞のベッドに腰掛け、本を開きます。扇華が朗読を始め、栞はその声に耳を傾けました。


 時が経つのも忘れるほど、二人は物語の世界に引き込まれていきました。栞は、デジタル機器なしでもこんなに楽しい時間が過ごせることに驚きを感じています。


 しかし、物語の途中で難しい言葉が出てきたとき、栞は思わずスマートフォンに手を伸ばしそうになりました。


「あっ……」


 栞は自分の行動に気づき、慌てて手を引っ込めます。扇華はそんな栞の様子を見て、優しく微笑みました。


「大丈夫よ、しおりん。辞書を使えばいいじゃない」


 扇華は立ち上がり、栞の本棚から分厚い国語辞典を取り出しました。二人で辞書をめくりながら言葉の意味を調べる。そんな些細な行為が、栞にとっては新鮮で楽しいものに感じられました。


「ねえ、扇華」


 栞は少し照れくさそうに言います。


「こうやって一緒に本を読むの、楽しいね」


 扇華は嬉しそうに頷きました。


「でしょう? たまにはこういう時間も大切だと思うの」


 二人は再び本の世界に戻っていきます。外では春の風が静かに吹き、桜の花びらが舞い散っています。栞の部屋には、本のページをめくる音と、時折漏れる二人の笑い声だけが響いていました。


 この瞬間、栞はデジタルデトックスの本当の意味を少しだけ理解できたような気がしました。それは単にデジタル機器から離れることではなく、今この瞬間を大切に生きること。そして、目の前の人との繋がりを大切にすることなのかもしれません。


 扇華が帰った後、栞の部屋には静寂が戻ってきました。窓から差し込む夕暮れの光が、部屋に温かな色合いを与えています。栞は深呼吸をし、再びデスクに向かいました。


「さて、もう一度チャレンジしよう」


 彼女は決意を新たに、ノートを開きます。今度は、今日一日の出来事や感想を書いてみることにしました。万年筆の繊細な触感を味わいながら、栞はゆっくりと文字を紡ぎ始めます。


 しかし、書いているうちに、ふと疑問が湧いてきました。


「そういえば、明日の天気はどうなるんだろう……」


 普段なら、すぐにスマートフォンで天気予報をチェックするところです。栞は思わず机の引き出しに手を伸ばしかけましたが、ハッとして止まりました。


「そうだった、デジタルデトックス中だった」


 栞は小さくため息をつきます。天気を知りたい気持ちと、デジタルデトックスを続けたい気持ちが葛藤します。そんな時、彼女の目に入ったのは、部屋の隅に置かれた古い置時計でした。


「そうか、あれなら使えるかも」


 栞は立ち上がり、置時計に近づきます。アンティークな木製のケースに収められたその時計は、温かみのある佇まいで、デジタル時代以前の優雅さを漂わせています。栞は慎重に時計を持ち上げ、裏面を確認します。


「よかった、気圧計付きだ」


 栞は気圧の変化を観察することで、ある程度の天気予想ができることを思い出しました。彼女は時計を注意深く観察し、メモを取り始めます。


「気圧が少し下がっているから、明日は雨かもしれない……」


 栞は自分の推論に満足げな表情を浮かべました。

 デジタル機器に頼らずに情報を得られたことに、小さな達成感を感じています。


 しかし、その喜びもつかの間、栞の目は机の上に置かれたノートパソコンに引き寄せられます。画面は消えていますが、そこには最新の研究データや、オンラインの学術フォーラムが待っているはずです。


「ちょっとだけなら……」


 栞は思わずパソコンに手を伸ばしかけました。しかし、その瞬間、彼女の脳裏に扇華の言葉が蘇ります。


「しおりん、デジタルデトックスは自分との約束なのよ」


 栞は深く息を吐き、ゆっくりと手を引っ込めました。代わりに、彼女は本棚から科学雑誌を取り出し、ページをめくり始めます。


「そうだ、紙の雑誌なら読んでもいいんだ」


 栞は久しぶりに紙の雑誌を読む感覚を楽しみながら、最新の科学トピックスに目を通していきます。指先で紙の質感を感じ、インクの香りを楽しむ。そんな些細な行為が、栞にとっては新鮮な体験となりました。


 しかし、記事を読み進めるうちに、栞は再び葛藤に直面します。興味をそそられる研究について、もっと詳しく知りたいと思ったのです。普段なら、すぐにオンラインデータベースで関連論文を検索するところです。


「でも、今はそれができない……」


 栞は少し歯がゆい思いを感じながらも、雑誌を読み続けます。そして、ふと気づいたのです。


「そうか、これも大切な経験かもしれない」


 全ての情報をすぐに手に入れられない状況。それは、じっくりと考え、自分なりの推論を立てる機会を与えてくれるのかもしれません。栞は新たな視点を得て、再びノートを開きました。


「この研究について、自分なりの仮説を立ててみよう」


 栞は熱心にペンを走らせ始めます。デジタル機器の助けを借りずに、純粋に自分の知識と想像力だけで考えを展開していく。それは、彼女にとって新鮮で刺激的な体験でした。


 窓の外では、夜の帳が静かに降りてきています。栞の部屋には、ペンを走らせる音と、時折ページをめくる音だけが響いていました。彼女のデジタルデトックスの挑戦は、まだ続いています。果たして、栞はこの挑戦を最後まで貫くことができるのでしょうか……。

 夜が更けていく中、栞の部屋には静寂が満ちていました。彼女はベッドに横たわり、天井を見つめています。普段なら、この時間はスマートフォンで最新のニュースをチェックしたり、SNSを眺めたりする時間です。しかし、今日はそれができません。


「眠れないな……」


 栞は小さくつぶやきます。デジタル機器を使わない夜の過ごし方に、彼女はまだ慣れていません。ベッドサイドテーブルには、昼間に読んでいた古典文学の本が置かれています。栞はそれを手に取り、読み始めようとしますが、暗い部屋では文字が見えません。


「そうだ、キャンドルを使おう」


 栞は起き上がり、デスクの上に置いてあるアロマキャンドルに火を灯します。優しい光が部屋を柔らかく照らし、ラベンダーの香りが静かに漂います。


「こんな雰囲気で本を読むのも、悪くないかも」


 栞は再びベッドに戻り、キャンドルの灯りを頼りに本を読み始めます。しかし、すぐに彼女は新たな問題に直面します。本の中に出てくる難しい言葉や、よく分からない歴史的背景。普段なら、すぐにスマートフォンで調べるところです。


「うーん、どうしよう」


 栞は悩みながらも、なんとか文脈から意味を推測しようと試みます。想像力を駆使して物語の世界に入り込もうとする彼女の姿は、まるで昔の人々が本を読んでいた様子を彷彿とさせます。


 しかし、読み進めるうちに、栞の目は再びスマートフォンに引き寄せられます。充電のために、スマートフォンは机の上に置かれたままです。画面は消えていますが、そこには未読のメッセージや、最新のニュースが待っているはずです。


「ちょっとだけなら……」


 栞は思わずベッドから起き上がりかけました。しかし、その瞬間、彼女の目に映ったのは、窓の外の満月でした。


 「わぁ、きれい……」


 栞は思わず息を呑みます。デジタル機器に気を取られていなければ、こんな美しい光景を見逃していたかもしれません。彼女は窓際に近づき、月明かりに照らされた庭の景色を眺めます。


 静寂の中、栞は深呼吸をします。月の光、木々のざわめき、そして遠くで鳴く虫の声。これらの自然の音に耳を傾けていると、不思議と心が落ち着いてきました。


「こんな経験、今までしたことなかったな」


 栞は窓辺に腰かけ、しばらくその景色を楽しみました。そして、ふと思いついたように、デスクに向かいます。


「月の満ち欠けと潮の満ち引きの関係について、なにか面白い考察ができるかもしれない」


 栞は再びノートを開き、ペンを走らせ始めます。デジタル機器の助けを借りずに、純粋に自分の知識と観察だけで考えを展開していく。それは、彼女にとって新鮮で刺激的な体験でした。


 時間が過ぎていくうちに、栞の瞼が重くなってきました。彼女はペンを置き、ベッドに戻ります。キャンドルの灯りを消す前、栞は満足げに微笑みました。


「意外と楽しい夜だった」


 栞はそう呟きながら、目を閉じます。デジタル機器のない静かな夜。

 それは、彼女に新たな気づきと安らぎをもたらしたのです。


 ネットによってなんでも調べられてしまう時代。


 確かに便利ですが、そんな時代だからこそ、少し立ち止まって自分の頭だけで考える時間が大切なのかもしれません。きっとそこから生まれる新たなものあるはず……。そんなことをしみじみ考えた栞なのでした。


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