しおりんと完全記憶能力

 今日も今日とて、栞の部屋には分厚い専門書が山積みになっていました。栞は一冊の難解そうな本を手に取り、ページをめくり始めます。そのスピードは尋常ではありません。まるで風が吹いているかのように、ページが次々とめくられていきます。


 扇華は栞の横に座り、驚きの表情でその様子を見つめていました。


「しおりん、それちゃんと読んでる?」


 扇華は半ば呆れたように、半ば心配そうに尋ねます。


「もちろん。この本面白いよ!」


 栞は読書に夢中になったまま答えました。

 その声には興奮が滲んでいます。


 あっという間に一冊を読み終えた栞は、すぐさま次の本に手を伸ばしました。

 扇華は目を丸くして、その様子を見守っています。


「ねえ、しおりん、そんなにあっという間に読んじゃって本の内容ちゃんと覚えてるの?」


 扇華は半信半疑で尋ねました。

 栞の読書スピードがあまりにも速すぎて、内容を理解しているとは到底思えなかったのです。


「もちろん全部覚えてるよ」


 栞は当たり前のように答えます。


「全部!?」


 扇華の声が裏返りました。


「うん、今まで読んだ本は一字一句全部覚えてるよ」


 栞はさらりと言いました。その態度はまるで、空が青いとか、太陽は東から昇るとか、そういった自明の事実を述べているかのようでした。


 扇華は驚きのあまり、しばらく声が出ませんでした。

 栞の天才ぶりは知っていましたが、ここまでとは思いもよりませんでした。


「でも、本当に全部覚えてるの?」


 扇華は半ば自分に言い聞かせるように、もう一度確認しました。


「うん。今まで読んだ本は10万3000冊。それ、全部覚えてるよ」


 栞は少し考え込むような仕草をしてから、正確な数字を挙げました。


「ほんとにー?」


 扇華の声には、もはや呆れを通り越した諦めのような響きがありました。


「ほんとだよ! ……あ、そうだ!」


 栞は突然何かを思いついたような表情を浮かべました。


「小学校の卒業文集も覚えてるから、扇華が書いた文章も全部覚えてるよ」

「えっ!?」


 扇華の顔が見る見る赤くなっていきます。栞は、扇華の卒業文集の文章をすらすらと朗読し始めました。その正確さに、扇華は恥ずかしさのあまり、その場にうずくまってしまいます。


「小学校の授業の時に女子の間で回ってた手紙も全部覚えてるよ」

「ええっ!?」


 栞は容赦なく、扇華が友達と交わしていた手紙の内容まで暴露し始めました。扇華はもはや悶絶状態です。床の上でのたうち回りながら、「やめてー!」と叫びますが、栞は楽しそうに朗読を続けます。


 しかし、しばらくすると扇華の表情が変わりました。何かを思いついたような、きらりとした光が目に宿ります。


「ねえ、しおりん」


 扇華はゆっくりと身を起こし、栞に向き直りました。


「その完全記憶能力、もしかしたらすごく役立つかもしれない」


 栞は不思議そうな顔で扇華を見つめます。


「どういうこと?」

「それはね……」


 扇華は目を輝かせながら、栞に向かって説明を始めました。


「ねえ、しおりん。あなたの記憶力って、本当にすごいわ。でも、それを私をからかうためだけに使うのはもったいないと思うの」


 栞は少し考え込むような表情を浮かべました。


「そうかな? でも、扇華の恥ずかしがる顔を見るのが楽しいんだよね」


 扇華は軽く頬を膨らませます。


「もう! しおりんったら……でも、聞いて。その能力を使って、もっと素敵なことができると思うの」


「素敵なこと?」


 栞は首をかしげました。


「そう。例えば……」


 扇華は少し言葉を選ぶように間を置いてから続けました。


「私たちの大切な思い出を、もっと鮮明に残せるんじゃないかな」


 栞の目が大きく見開かれました。


「思い出?」


「うん。しおりんは全てを覚えているけど、私は時間が経つにつれて忘れていってしまう。でも、しおりんが思い出を教えてくれれば、私も鮮明に思い出せるんじゃないかな」


 栞はゆっくりと頷きました。


「なるほど。確かに、それなら楽しそうだね」


 扇華は嬉しそうに微笑みました。


「じゃあ、やってみよう! 例えば……一緒だった幼稚園のこと、覚えてる?」


 栞は目を閉じ、深く考え込むような仕草をしました。そして、ゆっくりと口を開きます。


「あれは確か幼稚園の年中さんの時だったね。お遊戯会で踊った時、扇華は白いウサギの衣装を着ていて、耳がちょっと曲がっていた。でも、そこがとってもかわいかったよ」

「すごい! そんな細かいところまで覚えてるんだ!」


 扇華は嬉しそうに笑いました。


「あの日はすごく緊張したけど楽しかったなー。しおりんは……」

「僕は茶色のクマの衣装。そして、踊りの途中でつまずいて転んじゃって、みんなに笑われちゃったんだ」


 栞の言葉に、扇華の目が大きく見開かれました。


「あっ! そうだったわ!」


 扇華は急に思い出したように声を上げました。


「しおりんが転んだ時、私、すごく心配したの。覚えてる?」


 栞は少し照れくさそうに頷きました。


「うん、覚えてるよ。扇華が駆け寄ってきてくれて、『大丈夫?』って聞いてくれたんだ」


 扇華はクスッと笑いながら続けました。


「そうそう。それで私、しおりんを助け起こそうとしたんだけど、自分のウサギの耳が邪魔で、二人して転んじゃったのよね」


 栞も思い出したように笑いました。


「そうだった! 二人で転んで、みんなに大笑いされちゃったんだ」


 二人は顔を見合わせて、今度は大きな声で笑い合いました。


「でも、あの時ね」


 扇華が優しく言いました。


「しおりんが『だいじょうぶ、いっしょに笑われるならこわくないもん』って言ってくれたの、すごく嬉しかったわ」


 栞は少し驚いたような表情を浮かべました。


「へえ、そんなこと言ったんだ。それは、僕、覚えてないな……本当に言った?」


 扇華は優しく微笑みました。


「ふふ、たまにはしおりんが忘れてて、私が覚えてることもあるのね」

「うん。本は完璧に覚えてるんだけど……想い出の方は扇華の方が詳しいのはあるかもしれないね」


 栞は照れくさそうにほっぺを掻きました。


「他にも思い出したいことある?」


 栞が尋ねました。

 扇華は少し考え込んでから答えました。


「じゃあ、小学校3年生の時の遠足のこと、覚えてる?」


 栞はすぐに頷きました。


「うん、水族館に行ったやつだね。扇華はイルカショーに夢中で、ずっと最前列で見てた」

「そうそう!」


 扇華は目を輝かせました。


「しおりんは?」

「僕は……」


 栞は少し恥ずかしそうに言いました。


「クラゲの展示室があまりにも面白くて出られなくなっちゃって、先生に探されたんだ」


 扇華は驚いたように目を丸くしました。


「えっ、そうだったの? 私、全然知らなかった」


 栞は小さく笑いました。


「うん、あまり人には言ってない。でも、扇華なら笑わないで聞いてくれると思って」


 扇華は優しく栞の手を握りました。


「もちろん。しおりんのそういうところ、大好きよ」


 二人はまた窓の外を見つめました。夕日がさらに深く部屋を染めています。


 二人は再び顔を見合わせ、温かな笑顔を交わしました。思い出を共有することで、二人の絆がさらに深まっていくのを感じています。


 そして、この瞬間もまた、新たな大切な思い出として、二人の心に刻まれていくのでした。


「ねえ、しおりん」


 扇華が優しく言いました。


「こうやって思い出を共有するの、とても素敵だと思わない?」


 栞はゆっくりと頷きました。


「うん、確かに。扇華と一緒に過ごした時間を思い出すのは、とても楽しいよ」


 扇華は栞の手を取りました。


「これからも、たくさんの思い出を作っていこうね。そして、時々こうやって振り返るの」


 栞は優しく微笑みました。


「うん、そうしよう。僕が全部覚えているから、扇華が忘れても大丈夫だよ」


 二人は手を握り合ったまま、窓の外を見つめました。夕日が部屋を優しく染めています。これからも二人で作っていく思い出が、きっと素晴らしいものになるだろうと、二人は確信していました。


 そして、この瞬間もまた、栞の完璧な記憶の中に、大切な思い出として刻まれていくのでした。

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