その後の世界 綿野健の心理アセスメント
――新しい先生か。高い制汗剤の臭いがする。足音はとぼとぼ、野暮ったい。太っているだろう。体重九〇、いや一〇〇キロ超えか。発声位置が低い。チビだ。健康診断の結果は最悪。
――尻のあたりから安い合成皮の臭いがする。この施設の椅子の座面素材ではない。車の趣味が悪いな。国産に乗ればいい。
――あんたはデブでチビの汗っかき、車の趣味が悪い気の毒な男だ。だが心理学者としては悪くない。呼吸が落ち着いている。挑発に乗らんプロらしい人間だ。私の姿を見ても取り乱さんしな。
――で、何の用だ。くだらん心理テストや測定をするつもりならこのまま意識を手放す。私に許された唯一の強権だ。
――……ほう。面白いな。今の気持ちを聞きたいか。
――言葉選びに私怨を感じる。貴様、プロの立場を利用した復讐者だな。私を殺しに来たか。
――たやすいことだ。私につながっているチューブを数本外せばいい。どれでもいい。すべて致命的なチューブだ。
――雪村瞳は、私の肉体の三分の一を破壊した。ものの二〇分ほどでだ。そこまでされなければ、私も告白などしなかった。自分が裏切り者だと、売国奴だと、認めはしなかった。
――あの女はまるで鋼鉄だ。怒りすら感じなかった。相手が悪かったんだ。
――……多くの者が、私をさげすむ。長年右園死児と戦ってきたのに、最後の最後ですべてを裏切り、英雄の席に座り損ねた馬鹿者とな。
――だが、さげすむのは、大抵が戦わなかった者達だ。何もしなかった者ほど私を悪しざまに言う。石を投げる。
――神谷が会いに来た。二ヶ月前だ。彼は何も言わなかった。怒りを感じなかった。雪村瞳とは別の雰囲気だった。
――彼は分かっていたんだ。私の気持ちを。問うまでもなく分かっていた。理解してくれていた。許しはしないだろうが、責めもしなかった。
――私は、この国が、滅びるべきだと思ったのだ。
――さんざん見てきた。国の犠牲になる人を。仕方のない犠牲として、切り捨てられる人を。私は羽田電次とも話した。あの男の人間性は今でも取りざたされる。英雄願望をこじらせたガキだったのか、虐げられる人々のために立ち上がったヒーローだったのか。エツランシャすら知りたがった。
――答えは、その両方だ。彼は愚にもつかない夢想を語るガキだった。ヒーローぶって、違法に得た力を振りかざすクソ野郎だった。だが、彼のおかげで死なずに済んだ者もいる。溜飲を下げた者もいる。羽田電次は軽蔑すべき英雄だった。
――彼のような人間が出てくる国は、もう、駄目だと思ったんだ。
――羽田電次も、エツランシャも、ある意味では正しいんだ。巨人信者も正しさをはらむ存在だ。それは人を殺す法に、法治国家において、背を向ける正しさだ。
――若い頃の私なら、鼻で笑った。犯罪者に正しさなどと。暴力とテロに訴えた時点で、そいつは死んで当然のクズだと。
――そういった傲慢が、金輪部隊を生んだ。
――痛いと泣き叫ぶ人々の悲鳴を無視した先に、金輪部隊の世界があった。多くをとりあえず生かすために、少数を殺す正義の先に、あの地獄があった。
――私は思ったんだ。この国は滅びるべきだと。どんなに卑劣な手段を用いても、滅ぼすべきだと。
――だから、最低の裏切りに走った。そして、このザマだ。懲罰として、生かされている。
――……今の気持ちを訊いたな。教えてやる。
――この暗い独房の内にあって、私は、何も感じない。
――何も思わない。
――……。
――殺さないのか?
――……そうか。分かった。
――ここにいるよ。ずっと。
――私があんたから何を奪ったのか、知らんが……。
――……。
――いや、やめておこう……。
――ここにいるよ。最後まで。
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