第6話 忘れられない女
暗くて、きっともう永遠に抜けられない、果てしなく続くトンネルの中を歩いている。
何も見えない。進んでいるのか、下がっているのかも分からない。温度もない。自分の手の甲を思いっきりつねってみたが、何も感じなかった。そうか、私もやっと、恭一と同じ世界に来たのか。
墨汁を垂れ流した世界のどこかから、カッカッカッと一定のリズムを刻む音が聞こえてきた。メトロノームだ。恭一がピアノの練習をするときにつけていた、メトロノームの音と似ている。
━━━ カッカッカッ
「恭一‥‥どこにいるの‥‥」
暗闇は私の声を吸い込むだけで返事はなかった。
「恭一‥‥いるんでしょ?‥‥恭一」
「‥‥ここだよ」
振り向くと、白のYシャツにデニムを履いて、肩にトートバッグをぶら下げた、あの頃と変わらない恭一の姿があった。
「恭一‥‥会いたかった‥」
「長い間、寂しい思いをさせてごめんね。あっちが出口だ。さぁ行こう」
私は恭一の指に自分の指を絡ませて、ぎゅっと閉じた貝殻みたいにして握りしめ、もう二度と離れないようにと祈った。少し歩くと向こう側に小さな光が見えてきた。私たちは暗いトンネルから抜け出し、溶けた雪が残る道路沿いを歩いた。
「今、冬だったんだ‥‥」
「そうだよ。ここ最近はずっと雪が降ってたんだ。早く僕らの家に帰ろう」
「そうね」
木造の小さなアパートへ入り、電気をつけて、こたつの電源を入れる。
「懐かしいわ」
「そうだね。僕らが初めて一緒に暮らした部屋だよ」
「あ、雪だ‥‥」
「また降ってきたんだね。今夜も寒くなるよ。今日は加奈子の手料理が食べたいな」
「何が食べたい?」
「んー、グラタンが食べたい」
「冷蔵庫なにも入ってない。スーパーに具材買いに行かなくちゃ」
「一緒に行くよ」
私たちは、ふたりで一本の傘をさして商店街の中にあるコンビニより少し大きいくらいのスーパーへ向かった。
「グラタンって何が入ってるのかしら」
「エビ入れたいな」
「シーフードグラタンね。じゃあ貝柱も買いましょ。あとはベーコンとブロッコリー」
会計の時、入れた覚えのないポテトチップスがレジを通った。
「ポテトチップス?」
「怒らないでくれよ。こーゆーものを食べないとやってられない時もある」
「怒らないわよ」
「そう?昔の君はよく怒ってたよ。体に悪いって」
お釣りを受け取りスーパーを出ると、外はまだ雪が降っていた。私が持っていた荷物を、恭一はなにも言わずにサッと奪って、私の空いた手を握ってきた。
家に帰るとエプロンをつけて台所に立った。エビの皮を剥き、ベーコンとブロッコリーをひとくちサイズに切っていると、恭一が後ろから抱きしめてきた。
「危ないわよ。お腹すいたの?」
「うん。あと、加奈子の料理しているところよく見ておこうと思って」
「これからも見れるじゃない。私たちずっと一緒でしょ?」
私がそう言うと恭一はこたつに戻り、寝転びながら私の料理する姿を見ていた。
15分後、オーブンをあけた瞬間、焦げたチーズとホワイトソースの湯気が私を包んだ。取り出すと、こんがりと狐色に染まり、小さくフツフツと沸騰して、とても美味しそうだった。グラタンってどんな味だったっけと思い、ひとくち味見をしたが、味も温度もなにも感じなかった。
「お待たせ。あ、サラダも出すわね。味見してみたんだけど分からなくて、大丈夫かしら」
「加奈子が作ってくれたものならなんでも美味しいよ」
恭一は、四角い鍋いっぱいのグラタンをぺろりとたいらげると、そのままこたつで眠ってしまった。口元にホワイトソースをつけたまま、それはそれは幸せそうな寝顔だった。
この世界に来て、どれくらい時間が経ったのだろう。体感だと3日くらいだろうか。外は今日も雪が降っていた。
「この世界は、ずっと雪が降っているのね」
「クリスマスイヴだからね。ねぇ加奈子、今日は河川敷に行かないか」
「クリスマスイヴに河川敷?映画とかじゃなくて?」
「君とゆっくり話がしたいんだよ」
外に出る前、恭一がマフラーを巻いてくれた。この世界に来てからはずっと灰色の空だ。手のひらにのった雪はよく見ると丸ではなく、歪な形をしていた。私は、雪を指で潰した。冷たさも感触も何も感じなかった。これは本当に雪なのだろうか、もしかしたら死んだ後の誰かの魂が降ってきているのかもしれないと思った。
恭一が連れて行ってくれた河川敷には見覚えがあったが、いつの記憶かは思い出せなかった。
「ちょっとコーヒー買ってくるよ」
恭一は小走りで、少し先にある自動販売機に向かった。
「加奈子も飲む?」
「ううん。‥‥ねぇ、ここ、来たことある気がする」
「昔、一緒に来たことがあるよ。あの日も雪が降っていた」
「恭一、私ね、ここに来てからずっと感覚がないの。幸せだけど、味もしないし、手を繋いでくれても温度も感じないの。私おかしいのかしら」
「おかしくないよ」
「ずっと考えてたの。私、間違えてしまったんじゃないかって」
「加奈子はなんにも間違ってない」
「ほんとうにそう思う?」
「昔僕が、平凡でもずっと君といられるなら、これ以上の幸せはないって言った時、君は何も答えなかったね」
「私、あの時囚われてたの。死ぬ気で働いてないと生きてる意味なんてないって。20代の後半になって急にいろんな選択を迫られて、どうしたらいいのか分からなかった。でも仕事だけはちゃんと続けてきた自信があったから、それを手放すことは怖かった」
「うん」
「ごめんね。側にいられなくて」
「加奈子、君の愛情は伝わってる。僕が死んだのは君のせいじゃない。分かってるだろ」
「でもあの日、私がもう少し早く帰っていれば、恭一の異変に私がちゃんと気づいていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。恭一はまだ、生きていたかもしれないって」
頬がひんやりと冷たくなり、自分が泣いていることに気づいた。
「どうして私、泣いてるの」
「加奈子、今が、何月何日か分かるかい?」
「分からないわ‥‥。私、この世界のこと何も知らないもの」
「今日は12月24日、いや、実は僕らは3日前からずっとあの日を繰り返しているんだよ。僕も後悔していたことがあったから」
恭一はトートバッグから、小さな箱を取り出した。手の平にのるくらいの小さな箱だった。
「加奈子、誕生日おめでとう。僕と出会ってくれてありがとう。本当はすぐに渡して君を帰すつもりだったんだけど、加奈子の顔を見たら、もっと一緒にいたいと思ってしまって、渡すことができなかった」
箱を開くと中には銀色の指輪が輝いていて、舞ってきた雪が、まるで宝石のようにくっついた。
「つけて」
恭一は箱から指輪を取り出し、私の薬指へそっととおした。
「嬉しい。私たち、これからもずっと一緒よね。そうだ私、恭一のピアノもう一度聴きたいわ」
私の言葉に恭一は少し寂しそうな顔をした。
「加奈子‥‥君はまだ死んでないよ。この世界の匂い、味、温度を感じないということは、まだ死んでない。だからちゃんと浩介さんの元へ帰るんだ」
恭一が私の両肩にそっと手をかけた。
「そして今度浩介さんが、これからも君とずっといたいと言った時には、私もよって答えてあげるんだ。もう後悔しないように」
「‥‥お別れなの?」
「そうだよ」
抱きしめようと背中に手を回すと、私の手はスッと恭一の体を通り抜けてしまった。手を夜空にかざすと、手のひらの向こうで星が輝いているのが見えた。
「透けてる‥‥」
「加奈子、大好きだよ。ずっと一緒にいたかった」
「恭一‥‥」
今まではしっかりと見えていた恭一の姿が、水彩画のように薄くなっていった。
「待って、私、まだ‥‥」
そしてその水彩画に水を垂らすように、目に映る恭一の姿は崩れていってしまった。
「待って‥‥」
目が覚めると、最初に見えたのは真っ白な天井だった。
『‥‥かなこ、‥‥かなこ!!聞こえるか!!!』
「‥‥こう‥‥すけ‥‥さん」
『はぁ‥‥よかった‥‥本当によかった』
「‥‥わ、たし‥‥」
目覚めた翌日、浩介さんが話してくれた。
浩介さんが家に戻ると、入った瞬間変な匂いがして、私はリビングのソファでぐったり眠っていたと言う。キッチンへ行くと、火がついたままフライパンの上には石炭がのっていて急いで火を止めたそうだ。私は、たまたま忘れ物をとりに戻ってきた浩介さんに、命を救われたのだ。まだ意識がはっきりとしなくて、自分がそんなことをしたことが信じられなかったし、よく思い出せなかった。
浩介さんは話し終わると私の手を握り、優しく微んで『戻ってきてくれてありがとう』と言った。涙が溢れてきた。
「浩介さんごめんなさい。嘘じゃないの。私、今、幸せなのは嘘じゃない。だけど‥‥」
『分かってるよ、かなこ。大丈夫だから』
浩介さんが涙を流す私をそっと抱き寄せ、背中を優しくトントンした。その温度とリズムに安心して、私の心は少しずつ落ち着いていった。
『ちょっとコーヒー買ってくるよ』
そうか。恭一は、私を止めるために会いに来てくれたんだ。窓の外は、晴天の中で粉雪が待っていた。
私はカバンに入れていた黄色の封筒を細かく破り、ゴミ箱に捨てた。
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