第5話 中学生の男



人間は2種類に分けられる。

できるやつとできないやつ。


僕は"普通"と書かれた面を被り、目立たないように埋もれた、できる側の人間だと思う。なぜそうしているのか。答えは簡単で目立ってもいいことがないからである。人間は往々にして、自己主張が少なく、優しく穏やかで、自分を受け入れてくれる人間が好きである。厳しいことを言ってくる人、突飛な発言をする人、能力をひけらかしたり、自慢したりする人は受け入れられない。自分より少し下くらいの人間と、生ぬるい会話に浸っているのが心地よくてしかたないのだ。



学校はまるで小さな世界のように見える。そこが全てのように見える。ここでうまく生きていけないと、この先別のどこかに行っても同じ未来が待っているのではないか、そんなふうに見えてしまう。先生から受け取ったふたつに折られた白い紙は、運命からの通知表のように見える。僕の通知表には4と5がほぼ交互に並んでいた。



『おー、及川、通知表見せてみろよー』


クラスの不良が、いじめられっ子の及川くんの通知表を取り上げた。


「あ、やめてよ。返してよ!」

『うえー、みろよこいつ数学落としてやんの。俺でもギリだったのにダッセー。んで美術は5だって、これだからオタクは』

そう言うと不良は、及川くんの通知表を筒状に丸めると、それをバッドにして周りの奴らと野球ごっこを始めた。


『おいこらそこ〜、静かにしろよ〜』


終業式後、通知表を受け取った生徒が好き勝手に雑談を始める気の抜けた教室で、担任の声など届くはずもなかった。


『おい、津田やめろよ!及川に返してやれよ!』


運動も勉強もできて、誰からも好かれるサッカー部の松永がそう言うと、『うっせーな。ほらよっ』と筒状のまま及川くんに投げつけた。


及川くんは通知表をぐしゃぐしゃに握り、鞄を持って廊下へと走っていった。担任の方を見ると、女子生徒に囲まれて伸びる鼻の下を必死にこらえながら質問に答えていた。


ホームルームが終わり、皆一斉に席を立ち教室を出ていく。部活に向かう者、塾に向かう者、家路を急ぐ者、さきほどまで仲良く話していたクラスメイトとは手を振りサクッと別れ、志を共にする友の元へ向かう。そんな中、日直だった僕は担任に呼び止められた。


『光田、これ一緒に運んでくれないか』


僕は段ボールを抱え職員室へ向かった。


『ありがとう、助かったよ。夏休みは塾で忙しいのか』

「まぁ、はい」

『せっかくの青春時代、ちょっとは楽しい思い出も作れよー』

「はぁ。じゃあ、失礼します」


僕は、熱血もどきの担任の笑顔を冷めた目で受け流すと、ペコリと頭を下げ職員室を出た。




夏休みに入ると、図書館と塾と家を行ったり来たりするだけの生活になった。

僕には友人らしい友人はいない。いなくても特段困らないということに気づいてから、無理に作る努力をすることをやめた。好きじゃない漫画を読むのも、音楽を聴くのも、アニメを見るのも全部やめた。そうしたら当たり前に、なんとなく一緒にいた人たちは離れていった。

そんなもの意識せずとも自然にできるものだろうと現れるのを待っていたら、中学生生活も残り半年となっていた。




塾の帰り道、いつものように図書館へ向かった。二重の自動ドアのひとつ目が開くと、自転車に乗り汗だくになった体がひんやりとした空気に包まれた。

地理のコーナーに行くと見慣れた後ろ姿があった。特徴のある襟足にまさかと思い近づいてみると、やはり及川くんだった。こだわりなのか、いつも襟足をまっすぐきれいに揃えているから、後ろ姿でもすぐに彼だと分かった。及川くんは僕が隣に立っても見向きもせずに、大きな遺跡の写真をただじっと見つめていた。横目で覗くと、その遺跡はカンボジアにあるアンコールワットだった。


「アンコールワットだ‥‥‥」


僕はまさに心から漏れるように声に出してしまい、彼は「え?」と僕の方を見た。


「あ、アンコールワットだよね?それ。昔行ってみたいなぁって思って、調べたことがあるんだ」


僕がそう言うと「同じクラスの光田くんだ」と言い、「いいよね、いつか行ってみたいなぁ」と視線を本に戻した。


「あ‥‥そう‥‥だね」


僕たちの会話はこれだけだった。その後、僕は一冊の本を手に取り、いつもの決まった場所に座った。本を読みながら時々顔を上げると、及川くんは立ったままだった。


「座って読めばいいのに」


そう呟いた僕を、向かい側の女子が変質者でも見るような鋭い目つきで見てきたので、僕は、何か言いたいことでも?という表情で返し、視線を本に戻した。しばらく本に夢中になっていた僕は、及川くんが帰ったことに気づかなかった。


次の日も、図書館に行くとぴっちりそろった襟足を見つけた。その次の日も、次の日も及川くんは図書館に来ていた。毎日暇なのかと心の中でツッコんだが、考えてみれば僕も同じである。及川くんは世界遺産の図鑑を熱心に読んでいた。


「世界遺産好きなの?」

「うおっ」


及川くんは相当集中していたようで、肩をびくりと縮めて驚いた。


「それ、前も読んでたやつでしょ」

「あ、あぁうん。好きなんだ」

「‥‥僕も」

「え?」

「僕も好きだよ」


及川くんは、細い目をいっぱい開いて僕にグッと近づいてきた。


「どの世界遺産が好き!?!」

「どのって‥‥」


いや、別にこれってのは‥‥と思いながら、及川くんが開いていたページを指差した。


「そこ、そこが好き」


それは、カッパドキアというトルコにある世界遺産だった。僕の答えに及川くんは目をより一層大きく開いた。




そしてそのまま僕の隣に座ってきて、世界遺産の魅力を熱く語ってきた。今はいつか行きたい世界遺産マップとやらを制作中らしい。大好きな世界遺産について話す及川くんはとても楽しそうで、僕は少し羨ましかった。


次の日も、また次の日も、僕は及川くんを見つけて話しかけた。


「なんでいつも立って読んでるの?」

「あ、いや、本を開くともう夢中になっちゃって」


及川くんはへへへと笑った。



「いつも図書館の後どこ行ってるの?」

「家に帰って、描いたり、本読んだり、宿題してる」

「じゃあさ、今日はコンビニ寄って帰ろーよ」



僕は帰りにコンビニに誘った。アイスを買うと、公園まで全速力で自転車を漕いで木陰のベンチに腰掛けた。

僕はソフトクリームの形をしたアイス、及川くんはスイカの形をしたアイスを買った。

別に何を話すでもなく、暑いなーとか、課題終わったー?とか、その辺に転がっている普通の話をした。熱風が蝉の鳴き声とシャリッとアイスをかじる音を連れ去っていった。


「こんなの初めてだ」


青色の空をぼーっと眺めていると、突然及川くんが話し出した。


「僕、誰かとこんなふうにしたの初めてなんだ」


そう言うと「ありがとう、光田くん」と少しかしこまりながら僕の方を向いた。僕はなんだか恥ずかしくなって「まぁ、別にたいしたことじゃないし」と目を逸らし、残っていたコーンをパクッと口に放り込んだ。




それから"図書館に行く"だけだった僕の退屈な日常には、"及川くんと会って、塾がなければそのまま公園に行く"という予定が追加された。

炎天下で及川くんが好きなカードゲームをして汗びっしょりになったら図書館に戻って涼んだ。及川くんは数学が苦手なので、僕の家で勉強会をして、そのまま冷やし中華を一緒に食べて、裏庭で花火をした。僕の家に届いたイタズラの黄色の手紙の話をした。及川くんは「shoot by 3 ‥‥なにか物語が書けそうだ」とメモをしていた。地域の小さな祭りに行った。及川くんは射的の才能を開花させ、1番大きいぬいぐるみをもらっていた。

気づけば1ヶ月が経ち、今年の夏の思い出を開けば、どのページにも及川くんの姿があった。





8月になり、学校が始まった。

僕は教室に入り及川くんを見つけると、「おっはよー」と声をかけた。

その瞬間教室中が静かになり、刺さるような視線が僕たちに集まった。


『‥‥光田ってあんなキャラだっけ?』

『及川と仲良かったんだ』

『夏休み明けでキャラ変とかイタイ』


「光田くん来て!」と及川くんは僕の腕を掴み、教室を出た。そして初めて見る階段を登って行った。


「ねぇ、どこ行くの?」


僕の声を無視するように、及川くんは前を向いて階段を登って行った。そして立ち入り禁止の札がぶら下がった鎖を跨ぎ、その向こうの扉を開くと、そこは屋上だった。


「屋上‥‥?」


僕の前に立っていた及川くんはクルッと振り返ると両手を広げ「じゃーん!僕の秘密基地!」と笑った。

そして大きく広げた両手を閉じ、「学校で話すのはやめよう」と言ってきた。


「なんで?」

「‥‥光田くん、いじめられちゃうよ?僕と一緒にいたら。君の平穏な日々が変わってしまう」


及川くんは、屋上をぐるっと囲う柵に近づきながら、少し前のことを教えてくれた。


「実は僕ね、ここから飛び降りようと思ってたんだ。この先も、なんかいいことなさそうだし、別に特別な人間でもないし。でもそんな勇気もなくて、どうしようって悩んでた時、光田くんが声をかけてくれたの」


「図書館?」


「そう。僕あの日すごく嬉しくて、全速力で自転車漕いで帰った。クラスの人と話したことなかったから」


及川くんは、腰より少し高い柵に両手をかけ、ひょいっとジャンプして腰掛けた。


「それからは、夢みたいな毎日だったなぁ。全部初めてだった。コンビニ寄ったのも、友達の家で勉強したのも、一緒にお祭り行ったのも。ほんと楽しかったんだ。忘れないと思う。だから僕、光田くんが僕のせいでいじめられたりなんかしたら」


「一緒に行こう」


僕は及川くんの言葉を遮った。


「カッパドキア、一緒に行こう。それだけじゃなくて、及川くんが好きな世界遺産、一緒に行こう。おんなじ高校に行こう、大学も行って、就活して、上司がうぜーとか言ってさ、居酒屋で愚痴言ったりしようよ。だからさ‥‥死にたいなんて言わないでよ‥‥」



及川くんは何も言わずに僕の話を聞いていた。僕は近づいて柵に腰掛けた。横を見ると、彼の頬に一筋の光が走った。

「うわっはずかし」と拭き取ろうと、柵を掴んでいた両手を離したその瞬間、及川くんはバランスを崩した。


「あぶない!!!!!」


僕は柵に足をかけ身を乗り出して、及川くんの肩を思いっきり掴み上に持ち上げた。早朝の雨のせいで柵は濡れていて、僕は足を滑らせた。



落ちていく瞬間、及川くんの叫ぶ顔が見えた。ごめん。したばかりの約束守れなくて。 


そういえば、僕はあの時、どうして及川くんに話しかけたんだろう。自分より弱い立場にいる彼といて心地が良かった?気持ちよかった?自分が上にいるみたいで?

いや、違う。僕は世界遺産なんて興味なかったんだ。アンコールワットはたまたま知ってただけ。僕もずっと長い間、何者でもなかった。したいことも、夢もなかった。だから、熱心に本を見つめる君をみて、その姿に惹かれたんだと思う。この子と話してみたら、僕は変われるかもしれないって。


僕は、君にとっての大切な人になれたのかな。

友達とアイスを買って食べたの、僕も初めてだったんだ。









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