第4話 専業主婦の女
『あら、宮前さん。おはようございます。今日も朝からおきれいで羨ましいわ。見てくださいよ〜、私なんて朝はバッタバタで。夫と子供たちのお弁当に、朝ごはん作って、お化粧している時間がないの〜。宮前さんを見習わなくっちゃ』
「あぁ、どうも」
『‥‥ふふ、では失礼します〜』
この女は隣に住む岡村晶子。不気味な笑顔を残すと、そのまま自分の家には帰らず、4人で集まり井戸端会議をする女連中の中に溶けていく。そして決まって『なぁに、あの態度。寂しいかなと思って声かけてあげてるのに。私たちよりも裕福な暮らししてるからって、見下してんのかしら。ほんと感じ悪いわよねぇ』と、私に聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで囁く。
私が思うに、多分彼女たちは頭がおかしくなってしまったのだと思う。
そりゃそうか。家事育児が大変だとか、そんなことを原因が解消されるわけでもないのに毎日決まった時間に集まって、関係ない人たちの愚痴まで交えながら話し続けているのだから頭がおかしくなるに決まっている。
人間がひとり増えれば家事が大変になることなんて考えれば分かるはずで、子どもを産んだのだって自分の意思なのに、何を今更ピーチクパーチク言っているのだと理解に苦しむ。
私がこう言うとだいたいの人が、『いや、そうじゃなくてね、同じ状況を共有したり共感したいだけなのよ〜。そんなこと言ってると、友達できないよ?』なんて反応をするけれど、そんな人間関係はこっちから願い下げだ。
そして頭がおかしくなるくらいならひとりでいる方がよっぽどいいと思う私もまた、あの女たちから見れば頭がおかしい人のだろう。
私は3年前、今の夫と結婚しこの街に引っ越してきた。
以前の夫とは5年前に離婚している。とある事件以降、私はあの街を抜け出し、誰にも見つからないように隠れるようにこの2LDKに逃げてきたのだ。
以前は夜中にあの後ろ姿が蘇り、目が覚めると全身汗だくになっていることもあったが、今では思い出すことも少なくなった。
夫の収入は、とても多いわけではないが大人2人が普通に暮らしていくには充分だった。私は今、平凡な幸せを噛み締めながら、何不自由なく暮らしている。
朝7時過ぎに目覚め、顔を洗い化粧台に座る。日焼け止め、下地の順に塗って、眉を整え、赤い紅を塗り、竹櫛で丁寧に髪をときひとつに束ねる。
魚の塩焼き、卵焼き、お味噌汁を7時50分までに準備し、8時に起きてくる夫を待つ。
寝ぼけ眼の夫は、眼鏡をかけるとテーブルに並ぶ朝食を見て『今日も美味しそうだな』と満足そうに笑う。私はご飯をよそい「どうぞ」とお味噌汁の隣に置いた。
ご機嫌で食べる夫を見ながら、私はゴミを集め8時45分に家を出る。隣の岡村晶子に嫌味を投げられ家に帰ると、夫はもう家を出ていることがほとんどだ。
ここからは私の趣味の時間だ。夫は、自分も昔は趣味に生きる人間だったからと、私の生け花に対しても寛容である。腰を悪くする前は日曜大工にはまっていたらしい。
朝10時。私は、商店街の花屋に足を運び、その日のきれいな花を3種類ほど選び、家に帰って自分で生ける。今日もリューココリネ、キンギョソウ、スイートピーを抱きしめて家へと向かう。
ポストを覗くと、白い封筒の中に一際目立つ黄色の封筒があった。抱いていた花を優しくテーブルに置き、封筒を開いた。
"ナニモノニモナレナイオマエ へ
コノヒミツヲバラサレタクナケレバ
オマエヲクルシメルダレカヲコロセ
コロシタサイニハカナラズ shoot by 3トノコセ
ソウスレバオマエハナニモノカニナレルダロウ"
いかにも脅迫文と思える手紙だったが、私の頭はとても冷静だった。
これは誰に宛てた手紙だろうか。誰かのイタズラだろうか。私の知る限り、夫に、誰にもばらされたくないほどの大きな秘密があるとは思えない。だとすると、これは私に宛てた手紙ということになる。もしかしたらこれはあの子からの手紙だろうか、いや、天からの罰かもしれない。
どうもがいたって、あの事件から逃れることはできなくて、こうして一生背負って生きていくんだろうな。
そんなことを思いながら私は手紙を封筒に戻し、ふたつに折って鞄にしまった。
その日の夕方、スーパーからの帰り道、岡村晶子と出会った。
『あら〜。宮前さん、今日の晩御飯は何にされるの?』
「ビーフストロガノフです」
『あら、また手の込んだ料理〜。うちなんてただのカレーよ』
「そうですか。それでは」
そう言って立ち去ろうとした時だった。
『ねぇ、そういや宮前さんのところは、お子さんは考えてないの〜?』
「なんですか、突然」
『実はね、私の隣に住んでる山田さん、先週妊娠してることが分かってね〜。そういや宮前さんのところは、そういう話聞かないなぁって、みんなで話してたのよ』
私はこの非常識で品性のかけらもない女の顔を殴ってやりたいなんてことは考えなかったが、その代わりにあの手紙が頭に浮かんできた。
『だってねぇ〜。宮前さんもいい歳でしょ〜?』
「わぁ。綺麗な爪ですね。自分で塗られたんですか?」
『え?あ、あぁ。ありがとう。そうなのネイルに行く時間なんてないから、自分でね』
女は、原色の上に大きな粒のラメをばら撒いた下品な爪を見せてきた。
「ほんとにきれい。教えて欲しいなぁ。私、きれいなものが好きなんです」
『あ、あら、そうなの?今度教えてあげてもいいわよ』
「え!いいんですか!じゃあ明日がいいです。明日私の家に来てください!」
私が詰め寄ると、女は少し困惑した後嬉しそうな顔をして『いいわよ』と答えた。
帰宅後、ぐるぐるとお玉をかき混ぜながら、煮えたぎった地獄の湯の中で肉がバラバラになっていくのを見つめていたら、玄関から『ただいまぁ』と夫の声がした。
「おかえりなさい。今日もお疲れ様」
私は、夫から鞄とジャケットを預かりいつもの場所へと戻す。
「そうだあなた。ノコギリって押し入れにあるのかしら?」
『あぁ、しまってあるよ。どうして?』
「ママ友のお家でワンちゃん飼うことになったみたいで、子どもたちと一緒にお家を作るんですって。うちではもう使ってないし、貸してあげようかなって」
『あぉ、もちろんいいよ。ちょっと待ってね、ご飯食べてから押し入れの中探してみるよ』
「ありがとう。友達も喜ぶわ」
翌日の12時。
『お邪魔します〜。いいのかしら、お昼ご飯までいただいちゃって』
「えぇ、いつも話しかけてもらってるのに。私、愛想なくてごめんなさいね。これからは、ぜひ仲良くできたらって、お誘いしたの」
私の言葉に女は少し鼻息を荒くし『ぜひ〜!私たちも前からそうしたかったのよ〜!』とご満悦だった。
『今日は何を作ってくれたの?』
「爪‥‥どうやって作ってるの?」
『あ、あぁ。これね、ネイルシール。実はピタって貼るだけなのよ〜』
「え?あなたが塗ったんじゃないの?」
『え、えぇ』
「そう、残念‥‥。あなたは美しいものを生み出す人だと思ったから仲良くしようと思ったのに、偽物だったのね」
女は、がっかりする私の様子に腹を立てたようだった。
「私はね、おたくみたいに暇じゃないの。終わらない洗濯、大量の洗い物、掃除して、買い出し行ってご飯作って、自分の時間なんてないの。子供がいたことないあなたにはわからないでしょうけど』
言ってやったとまた鼻息を荒くする女に、私は、昔の話をした。
「私にはね、夢があったの‥‥。生け花の師範になること。10代の時、このまま腕を磨けばその夢はきっと叶えられるって、当時の先生に言われたわ。でも20歳の時だった、朝起きたら急な吐き気に襲われて、しばらく生理が来てないことに気づいた。そう、妊娠してたの」
私は、話をしながら和室へと向かった。
「子供なんていらなかったのよ。うるさいし、邪魔だし。何より子供なんてできたら、生け花と向き合うことなんてできないじゃない。でも、分かった時にはもうおろすことはできなかった」
昨日の夜、夫がきれいに磨いてくれたノコギリを後ろに隠した。
「だからね、私、ベランダから突き落としたの。1歳になった娘がベランダに向かってはいはいしている後ろ姿が見えた。強く祈ったの、そのまま落ちろって。そしたら娘は、振り返って笑ってきた。私は笑い返した。そして少し押したら柵の隙間からスルッと抜けて、下に落ちて行ったわ。幸せだった。やっと、自由になれるって」
『あ、あなた‥‥どうしたの!?!頭がおかしくなったんじゃない!!?!』
「そうかもしれないわ」
大きく振りかぶった瞬間、私の世界は女の爪の色と同じ真っ赤に染まった。
私はその後、女の両腕を切り落とし、手の方を上にして壺に刺した。周りに昨日買ってきたスイートピー、リューココリネ、キンギョソウを添えると、それはそれは美しかった。
あまりに美しかったので、私は白壁の前に作品を置き、床に広がる血を指で掬い、壁にshoot by 3 と書いて写真を撮った。
そしてそれを掲示板に投稿し、ノコギリを刃をぐっと自分の首元に押し込んだ。
『今週のイマドキ!!みなさん、今週SNSで1番話題になったこと、なにかご存知ですか?じゃあ〜、スタジオの三村さんなんだと思いますか?』
『え〜!?えーっと、タピオカ!!』
『残念!タピオカは少し前ですね〜。正解はこちらです!じゃん!こちらは、今週掲示板に投稿された生け花の写真なんですが、人体と花を融合させた斬新な作風が海外で高い評価を得ており、作者は誰だと現在話題になっているんです!』
『いや〜、非常に斬新ですね。腕なんて本物みたいだ‥‥』
『海外でも、正体を明かさずに壁に絵を描き続けるアーティストがいますもんね。今後、無名で活動する方も増えていくんでしょうか』
『いやぁ、それにしても不思議な魅力を持った作品ですね。作者の今後の活躍に目が離せません』
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