信心の対価

――僕が思い描いていた犯人像に合致する人物が現れた。

 広大君が言った。

 加志崎家を出た僕らは、七軒屋を目指していた。加志崎敦子さんから気になる話を聞いたからだ。

 二、三か月前に、将生君から妙なことを言われた。

「孝子さんって誰?」と将生君が言ったのだ。

「孝子さん?」将生君を問いただすと、七件屋の黒枝幹江さんが「孝子さんが村に戻って来た。敦子さんも村に戻ってはどうか?」と言ったと言うのだ。

 黒枝幹江さんは加志崎家の分家の出身で、敦子さんから見れば親戚にあたる。とは言え、「お爺ちゃんのお爺ちゃんの代に分かれた家」だと言うので、親戚と言ってもかなり血が遠い。

「村に行ったのかと聞くと、行っていないと言う。黒枝のお婆ちゃんとは町で偶然、会っただけだなんて言っていたけど、そんなこと信じられない。車も運転できないお婆ちゃんが一人で町に来ることなんて出来る訳がないし、あの子、私に黙って村に行っていたのかもしれません」と愚痴る敦子さんに、「孝子さんとは誰のことですか?」と隈井さんが尋ねた。

「壱の屋のお嬢さん。孝道さんと前の奥さんの恵美さんとの間にできたお子さん」と答えた。

 入田孝道さんは一度、離婚をしている。前の奥さんはお子さんを連れて村を出たと聞いた。前妻が恵美さんで、その子が孝子さんだ。だが、芦刈さんは孝子さんが村に戻って来たなんて一言も言っていなかった。

 そのことを確かめるために、七軒屋に行くのだ。

「君が思い描いていた犯人像?犯人は田口公正じゃないの⁉」

 そう口に出してから、ハンドルを握る隈井さんの顔を見た。隈井さんが聞く。「広大君は何と言っているんだ?」

「はい。彼が思い描いていた犯人像に合致する人物が現れたと言っています」

「加志崎将生か」と隈井さんは驚かなかった。

――隈井さんだって疑っているのさ。田口公正が犯人じゃないかもしれないって。

「広大君が田口公正は犯人じゃないかもしれないって言っています。隈井さんもそう思っているって」

 忙しい。まるで通訳だ。

「彼の供述は一応、筋が通っている。だが、田口が犯人だとして動機は何だ?」

「三人に対する恨みだと証言しています。猟銃の誤射事件で服役し、村に戻ってからひどいことを言われたとか。塩市晴美さんの一件でも三人のことを恨んでいた可能性があります」

「分かっている。だけど、何故、今なんだ?刑期を終えて村に戻ってからもう十年だ。一度は村を捨てている。何故、今になって村に戻って、三人を殺す必要があったんだ?」

 そう言われればそうだ。

「塩市拓谷さんと出会ったからですか?」

「加志崎将生が鍵になりそうだ」

「彼が犯人なのでしょうか?」

「分からない。だが、限りなく黒に近いと思う。お前の容疑者リストに追加しておいてくれ」と隈井さんが言うので、「はい」と胸ポケットから手帳を取り出した。

 加志崎将生の名前を書き加えようとして、ふと気が付いた。動機は何なのだろうと。広大君に聞いてみると、

――初めは、父親の恨みを晴らすために塩市拓谷の復讐を手伝おうと思ったんだろうね。でも、真の動機はもっと世俗的なものだよ。

 世俗的?どういう意味?

――宗家の宝だろうね。金が欲しかった。それだけだよ。

 なるほどと納得しながら、加志崎将生の名前を容疑者リストに書き加えた。


 容疑者リスト

● クマゼコ~妖怪?殺害方法がクマゼコの特徴と一致。五本爪。

● 芦刈喜則~七軒屋住人。第一発見者。消去法で最有力容疑者。

● 首藤医師~遺体を自分に偽装して失踪。殺害の動機不明。

× 塩市拓谷~入田、服部、首藤に恨みがある。行方不明。

● 田口公正~元七軒屋住人、行方不明。塩市拓谷と接触?

● 橋内豊~塩市拓谷の育ての親。拓谷を殺され、復讐?

● 加志崎将生~田口の次男。最近、塩市拓谷と会っていた。動機は金。


 事件発生直後には芦刈さん以外、これと言った容疑者もいなかったのに、僕の容疑者リストは長くなる一方だ。話題を変える。

「孝子さん、入田孝道さんの娘さんって誰なんですかね?」

「新たに村に来た人間。年恰好から言って、一人しかいないだろう」

 なるほど。それなら僕にも分かる。恵良の奥さんだ。

 七軒屋に到着する。診療所に車を止める。恵良家を目指した。

 恵良家を訪ねると、多美子さんが僕らを出迎えてくれた。「主人は今、外出しておりまして」という多美子に、「いえ、あなたから話をお伺いしたくて参りました」と隈井さんが告げると、「そうですか。こちらへどうぞ」と応接間に通してくれた。

 警察の取り調べを予期していたような感じだった。事情聴取が始まる。

「ところで、恵良さん。恵良さんは、どうやって、この七軒屋を知ったのですか?」

「娘に喘息の持病がありまして、空気の良いところを探していました。ここは辺鄙な村ですが、空気は良いし、それに何より診療所まである。だから、ここに移住することを決めました。正直、首藤医師がいなくなって、途方に暮れています」

「僕の聞き方が悪かったようです。ここは落ち武者の隠れ部落だったという言い伝えがあるような辺鄙な村です。町に住んでいる人は、七軒屋の存在など、きっと知らないでしょう。この村に縁のある、ごく限られた人間しか村の存在を知らないはずだ。あなた方はどうやって、この村の存在を知ったのですか?誰かに教えてもらったのですか?」

 多美子さんが晴れ晴れとして表情で言った。「どうやら全てご存じのようですね。私が入田孝道の娘だということを」

「やはりそうなのですか。入田孝道さんは知っていたのですか?」

「知らなかったと思います。少なくとも、わたしから親子の名乗りはしていません。この春に、奥さんを亡くして、随分、気落ちした様子でした。奥さんの一周忌が終わったら、娘だと名乗っても良いかなと考えていました。それが、こんなことになってしまって・・・」

 多美子さんは目に涙を浮かべた。

 物心付いた時に父親はいなかった。母も祖父も、父親のことを良くは言わなかった。いや、むしろ悪し様に批難した。だが、多美子さんには実感がなかった。お父さんに会ってみたいとずっと思い続けてきたそうだ。

「母は――」と父母の馴れ初めを話し始めた。

 七軒屋に続く坂道と国道が交わる辺りに乗兼寺というお寺がある。七軒屋の住人はみな、多かれ少なかれ、この寺の世話になっていた。乗兼寺の住職が多美子さんの祖父と親しく、娘、多美子さんの母親だが、住職からお母さんに、年頃の娘さんがいるそうだがどうだろう?と入田孝道さんを紹介された。見合いだった。

 話はとんとん拍子に進み、多美子の母は入田家へ嫁に来た。

 多美子さんの実家も七軒屋ほどではないが僻村だ。入田家は村の実力者だったし、悪い縁談ではなかったようだ。それが、不倫相手に村を追い出される格好になってしまった。

「祖父が元気なうちは、父に会いたいなんて、そんなこと、とても口にできませんでした。母と私を追い出した父を心底、憎んでいましたから。わたしの名前は、生まれた時は孝子だったんですよ。孝道の孝に子供の子です。それを祖父が、あんな男の名前なんて相応しくないと言って、今の多美子に改名したのです。それくらい、祖父は父の仕打ちを恨んでいました。

 祖父が亡くなり、実家を伯父、つまりは母の兄が継ぐと、別府に移り住んで、そこで知り合った恵良と結婚しました。娘の喘息が分かって、治療のために、どこか空気の良いところに引っ越そうかという話になった時、わたし、七軒屋に住んでみたい。父と会ってみたいと思いました。

 主人に相談したら、それは良いと賛成してくれたので、ここに引っ越して来ました。母は良い顔をしませんでしたけど、反対はしませんでした。もうお祖父ちゃんはいないからねと言っていました。

 赤ん坊の頃に別れたきりですし、名前も多美子ですので、父が自分の娘だと気付いてくれたはずはありません。きっと知らなかったと思います」

 やはり黒枝幹江さんが言っていた孝子さんとは、恵良多美子さんのことだった。

「そうですか。黒枝のお婆ちゃんは気がついたようです。お母さんの面影があるのかもしれません。遠い親戚同士ですから、お母さんが黒枝のお婆ちゃんには言ったのかもしれませんけど。

 お母さんにとっては、七軒屋は二度と足を踏み入れたくない、忌まわしい場所だと思っていたのですが、そうでもなかったみたいです。夏は北海道みたいに涼しいでしょうとか、冬は井戸水が暖かく、夏は冷たくて美味しいだろうとか、ここに住むようになって、七軒屋のことをよく話題にします。内心、七軒屋のことが好きだったのかもしれませんね。祖父の手前、七軒屋や父のことを悪く言っていただけかもしれません」

「そうですか」

「ここに来るまで、父は、一体、どんな悪いやつなんだろうと思っていました。実際に会ってみると、まあ、想像通りの偏屈じじいでしたけどね」多美子はそう言って笑った。「でも、子供たちには優しくて、日頃、あの愛想のない人が子供たちに対してだけは、見たこともないような笑顔を見せてくれました。ひょっとして、孫だと分かっているんじゃないかとずっと思っていました」

「分かっていたんじゃないですか。あなたのことも、自分の娘だと気がついていた。そんな気がします」

 隈井さんは優しい。隈井さんの言葉に、多美子さんは、わっと顔を覆って泣き出した。


――また一人、容疑者が増えたね。

 恵良家を出ると広大君が言った。

「全く、君は冷静だね」と広大君に答える。もう隈井さんに聞かれてもかまわない。

 恵良多美子さんかい? 動機は何?と聞くと、

――遺産目当てってことになるのかな?入田家の。

 広大君の言葉を隈井さんに伝えると、「君の容疑者リストに加えておいてくれ」と言うので、手帳に書き加えた。


 容疑者リスト

● クマゼコ~妖怪?殺害方法がクマゼコの特徴と一致。五本爪。

● 芦刈喜則~七軒屋住人。第一発見者。消去法で最有力容疑者。

● 首藤医師~遺体を自分に偽装して失踪。殺害の動機不明。

× 塩市拓谷~入田、服部、首藤に恨みがある。行方不明。

● 田口公正~元七軒屋住人、行方不明。塩市拓谷と接触?

● 橋内豊~塩市拓谷の育ての親。拓谷を殺され、復讐?

● 加志崎将生~田口の次男。最近、塩市拓谷と会っていた。

● 恵良夫婦~恵良多美子は入田孝道の娘。遺産目当て?


 診療所まで戻ると、隈井さんが「ちょっと寄りたいところがある」と言った。

「何処ですか? 何処に寄りたいのです?」

「黒枝のお婆ちゃんの家だ」

「ああ~」今回の情報源は黒枝幹江さんと言えた。

「お婆ちゃんと掛けて、冠婚葬祭の服と解く。そのこころは? 分かるか?」

 また始まった。だが、今回は違うぞ。

「隈井さん。分かりました。黒が良い、でしょう? 黒がええ、くろ、えーだ。黒枝」

「ご名答!」と言った隈井さんは悔しそうだった。嬉しい。隈井さんのギャグのセンスに追いつけたような気がした。

 僕らは黒枝家を訪ねた。

 幹江さんはいた。僕らことを覚えていなかったが、嬉しそうに迎えてくれた。

「黒枝さんは恵良多美子さんが入田さんのお嬢さん、孝子さんだと知っていたのですね?」

 隈井さんが尋ねる。

「孝道さんが順さんに、また何か言ったのか?」

 通じていない。耳も遠くなっている。隈井さんが耳元で「加志崎将生君に恵良家の奥さんが入田孝道さんの娘、孝子さんだと言ったそうですね!」と大声で言ったが、「そうか。順さんは、ええ人だからな」ととんちんかんな答えしか返ってこなかった。

「先日、田口貫之と加志崎蛍のお話を聞かせていただきましたが、加志崎家と田口家はその後どうなったのでしょうか?」

 芦刈さん曰く、調子が良い日と悪い日がある。隈井さんはあきらめたようだ。

「跡取り息子を討たれた田口かたの怒りは凄まじかった。息子の敵討ちと黒枝同喜を成敗する為に兵を集めたっちゅう。黒枝かたでも負けてはおらん。同喜を討ち取られてなるものかとこっちも兵を集めた」

 これには反応した。変なものだ。蛍と貫之の悲恋話の続きだ。隈井さん、興味無さそうに聞いていたが、続きが気になっていたのかもしれない。

「村を二つに割る諍いに発展しそうな勢いだった。そこで、宗家が乗り出してきた。両家のうち、どちらかでも兵を起こせば、宗家への謀反と看做して討ち取ると宣言なされた。まだまだ宗家のご威光が盛んだった時代だ。宗家に楯突いて、この村では生きて行けん。やっと双方納まった」

「じゃあ、同喜はお構いなしだったのですか?」

「いいや。村の年寄りの言いつけに背いて一緒になろうとした二人に非がある。それに、黒枝家に攻め入ったのは貫之だ。同喜は何も悪くない。でもな、跡取り息子を討たれた田口家の無念を考えると、同喜をそのままにしておくことはできなかった」

「じゃあ、同喜はどうなったのですか?」

 隈井さんが身を乗り出すと、幹江さんは嬉しそうな顔をした。話をするのが、嬉しくて仕方がないのだ。

「同喜は次男坊だった。蛍を娶れば一家を成せるという約束だったが、その約束は反故にされた。一時期、宗家に拘束された後、村を追われる形で放免になった」

「無罪放免ですか」

「まあな、同喜は村から姿を消し、諸国を放浪したという噂だ。どこぞで、のたれ死んだに違いない」

 黒枝家の祖先の一人だと言うのに、冷たいものだ。

「ご主人を撃った田口さんは、貫之の末裔になるのですよね?」

「ああ。そして、旦那は同喜の子孫だ。貫之の子孫が同喜の子孫を撃ち殺して、先祖の仇をとったという訳だ。蛍姫の話は大昔の話だけども、田口かたでは黒枝のことをずっと恨みに思っていたのかもしれん。事故だと言っていたが、わざとやったと言う者もおった」

 田口公正の心のうちまで、誰も分からない。

「旦那は猟が好きで、殺生を繰り返していた。だから、あんな事故に巻き込まれたんだ」

 まるで他人事のようだが、その表情は寂しそうだ。

「蛍姫の怨念のなせる業だったのかもしれませんね」

 僕らは丁寧に礼を告げた。幹江さんは玄関まで僕らを見送ってくれた。

 玄関にある靴箱の上に一輪挿しに紫陽花が活けてあった。いや、花が活けてあるだけで、一輪挿しではない。徳利だ。徳利に花を活けてあるのだ。深みのある青が美しかった。

「お婆ちゃん、この徳利はどうしたのですか?」と隈井さんが聞くと、「お地蔵さんのものだ」と幹江さんは答えた。

 村には寺がない。麓に乗兼寺があるが、車がないと通うのは大変だ。村人の信心の拠り所は村はずれのお地蔵様だと言えた。

 幹江さんは猟を生業としていた裕紀さんに「山に入る前に、お地蔵さんをお参りして行け」といつも言っていたらしい。事故の日、裕紀さんは「お地蔵様にお参りをしなかったのだ」と言う。だから事故にあったのだと。

「天気が良くて、足の調子が良ければ、お地蔵様にお参りに行く」のだそうだ。

 この瞬間、「ああ~」と僕らは理解した。

 宗家の宝は入田家の屋敷の中に無かった。屋敷をいくら探しても宝は見つからなかったはずだ。入田家から少し登ったところにあるお地蔵様の足元にあったのだから。そしてお宝を見つけたのは信心深い黒枝幹江さんだった。お参りの時、台座の下に扉があることに気が付いた。開けてみると、桐箱があった。桐箱の中には、綺麗な徳利が入っていた。

 花瓶は薄汚れてしまっていた。黒枝幹江さんは、家に持って帰って洗い、花を生け、地蔵のもとに持って来ようと思いながら、そのまま忘れてしまった。そんなところだろう。

 黒枝家を辞して、診療所へ歩いて行く。

「宗家の宝のこと、どうします?」

「放っておくさ。収まるべきところに収まっただけだ。宝探しは俺たちの仕事じゃない」

「やっぱり神様は全てお見通しですね」

 そう言うと、隈井さんは「天網恢恢疎にして漏らさず」と答えた。そして、「そうさ。神様はお見通しだ。やっと決心がついた。卑怯だと思いながらも結論を先延ばしにしていた。どちらも選べないのであれば、どちらも選ばない。それが最善の道だったんだ」と呟いた。

 隈井はプライベートで小松奈緒さんと妹の美緒さんとの三角関係に悩んでいた。もともと、姉の奈緒さんと付き合っていたのだが、妹の美緒さんと関係を持ってしまった。姉妹のうち、どちらかを選択しなければならない状況に追い込まれていた。そして、隈井さんにはそのどちらかを選択することなどできなかった。

 このままでは三人共、不幸になってしまう。僕はそう思っていた。隈井さんは、どちらも選ばない道を選択したようだ。

 隈井さんの吹っ切れたような表情を見て、これで隈井さんも前に一歩、進むことが出来たのだと思った。


 電話だ。父からだ。

「はい。お父さん」と電話に出る。

「捜査も大詰めを迎えているようだな。だが、大詰めを迎えている今こそ、慎重にならなくてはならない」

 相変わらずだ。

「分かりました。事件について、相談したいことがあります。お父さん、どうしたら良いのか教えて下さい」

 そう言うと、父は戸惑ったように「お、おう」と答えた。

「容疑者を確保し、彼は犯行を自供しています。でも、僕らは彼が犯人ではないと思っています。犯人は別にいる。彼は犯人をかばっているだけだ。そう思っているのです。僕らが怪しいと思っている人物は身を隠しています。その人物を探し出して捕まえたいのですが、どうすれば良いのでしょうか」

「ほう。難しい問題だな・・・」と父は答えると、やや間があってから言った。「詳しいことは聞けないから一般論になるぞ。いいか?」

「はい」勿論、それで十分だ。

「探し出して捕まえるには指名手配をかけるのが一番だ。そのためには、証拠が必要となる。物証だ。物証が無ければ信用のおける証言だな。誰も冤罪なんて望んではいない。証拠を見つけ出して、その人物の容疑が濃いということになれば、当然、指名手配をかけて探すことになる。そこまで持って行けなければならない。何か物証は無いのか?」

「物証ですか?」と考えてみた。僕らは一連の事件に背後に加志崎将生がいるはずだと確信していた。だが、今のところ加志崎将生が犯人であることを示す証拠は何ひとつ見つかっていない。正直にそのことを伝えると、「待て、待て。今までに見つかっている物証でも構わない。もう一度、調べなおしてみてはどうだ?その君たちが怪しいと思っている人物の指紋やDNAを調べてみたか?」と早口で言った。

 そうだ。加志崎将生の指紋やDNAはまだ手に入れていない。

「いえ。まだです。そうですね。先ずはそこからですね。分かりました。お父さん、ありがとうございます。参考になりました」

 嫌味ではなく、本当にありがたかった。

「私からのアドバイスだなんて言わなくて良いからな。明日、隈井君に相談してみろ」

 僕の相棒が隈井さんだということも、ちゃんと知っている。僕は「はい」と元気よく返事をした。

「うん。頑張っているようだな。もう心配はいらないみたいだ。何か困ったことがあったら、何時でも電話して来て良いからな」

 父の優しい言葉なんて、初めて聞いたような気がした。何故か他人行儀なのが嫌になった。

「うん」僕はそう答えて甘えてみた。

 電話を切ってから、僕は自分が泣いていることに初めて気がついた。

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