時間旅行

 おなじ頃、服部由紀さんが発見された。

 捜索範囲を広げて山狩りが行われたが、その捜索範囲ぎりぎりのところにいたと言う。賽の原の手前、一・五キロほど西にある岩場で発見された。発見された時は、意識不明の状態だった。岩と岩の間にできた隙間に体を押し込むようにして、意識を失っていた。

「恐らく服部由紀さんは賽の原を目指して、三日三晩、歩き続けた。賽の原では七軒屋のご先祖様たちが、日々、集まって村人を案じているという言い伝えがある。そこに亡くなった服部順治さんがいると信じ込んでいたようだ。だが、寄る年波には勝てず、岩場の影で動けなくなってしまった」

 女性の足でよくここまで来たものだと、由紀さんを発見した消防隊員が驚いていた。山小屋を通り過ぎ、さらに山をひとつ越した場所らしい。賽の原に行けば、ご主人に会うことができる。由紀さんはその思いだけで山道を歩き続けたのだ。

「村の女だ。山は歩き慣れている」と芦刈さんは言ったが、山小屋の往復だけで疲労困憊だった僕には真似できない。想像もつかないほどの山奥だ。

 当日、濃い乳白色の霧がかかっていて、捜索隊は由紀さんに気がつかずにいた。それに、辺りで硫黄の臭いがした。長くいられる場所ではなかった。

 そこで、消防隊員は声を聞いた。

「もし・・・もし・・・」と低い声で自分を呼ぶ声がした。

 年配の男性の声だったと言う。声がする方へ歩いて行くと、そこに由紀さんがいた。そう言うのだ。

 由紀さんは病院に運ばれ入院中だが、「お山であの人に会った」とうわごとのように言っているらしい。あの人とは当然、服部順治さんのことだ。亡き服部順治さんが捜索隊を奥さんのもとに導いたのかもしれない。

 田口公正は中津署に連行され、取り調べが行われていた。係長が取り調べを担当し、僕らもマジックミラー越しに取り調べの様子を拝見させてもらうことになった。

「腕が鳴る。よく見ていな」と係長はやる気満々だった。

 係長の尋問を受けて、田口公正が供述を始めた。塩市拓谷さんとは町で偶然、出会ったと言う。旧交を温めている内に、塩市晴美さんが亡くなったことを知り、つい、塩市母子が村を離れることになった事件について教えてしまった。田口はそう言う。

「嘘だな」と隈井さんは信じていなかった。「塩市拓谷が村を離れたのは生まれて間もない頃だ。田口は赤ん坊の頃の塩市拓谷しか知らないはずだ。町で偶然、出会って塩市拓谷だと分かるはずがない」

 隈井さんの言う通りだ。誰か田口公正と塩市拓谷さんを引き合わせた人物がいたはずだ。

 田口公正の証言を続けよう。

 母親の悲惨な過去を聞いた拓谷さんは、三人に対する復讐を誓い、殺人計画を練り上げた。勤めていた鉄工所で武器を作り、着々と準備を進めた。

「俺は止めたんだ。そんなこと止めろ。復讐なんて考えるなと。でも、拓谷は聞かなかった」

 田口はそう言う。本当だろうか?拓谷さんに、母親に対して三人がいかに卑劣な行為に及んだかという話をしたのは田口公正だ。彼は事実を捻じ曲げ、妄言を信じ込ませ、拓谷さんの復讐心をあおった。裏で糸を引いていたのは田口だった。

「でも、止めても無駄だった。協力してくれないなら、俺、一人でもやる。母親の恨みを晴らす。そう拓谷が言うもんだから、あいつに手を貸すことにした。俺も奴らに恨みがあったからな」

 田口公正は三人のことを恨んでいた。

 猟銃の誤射事件の後、入田さんからは、新聞沙汰になって村を辱めたと批難された。首藤医師からは、今度は人じゃなく猪を打てと茶化された。それに、視力に問題があるようだから診察に来いとも言われた。

 服部さんは生真面目で正義感が強い人だったので、田口公正を批難するようなことはなかった。だが、事件の後、口を利いてくれなくなった。たったそれだけの理由で彼のことを恨んでいた。事件の影響で精神に異常をきたしていたのだろう。

 田口公正は三人を恨んでいた。一人、芦刈喜則さんだけは、普段と変わらずに接してくれたようで、彼だけが味方だったと田口公正は証言した。

 塩市宗谷さんが晴美さんに殺された時、田口公正は入田さん、首藤医師、そして服部さん、三人の合議の輪に入れてもらえなかった。三人はこれ以上、話を広めたくなかったのだろうが、田口公正にしてみれば、参の屋の自分には、宗家の一大事に加わる権利がある。仲間はずれにするとはけしからんと言う意識があった。

 そのことも三人を恨んだ原因のひとつだ。

 どうやら、事件後に晴美さんに言い寄ろうとして拒絶されたようだ。そのことで、晴美さんのことも恨んでいたふしがある。

 証言は続く、田口公正は拓谷さんと七軒屋に向かった。

 バイクで二人乗りをし、七軒屋にやって来ると何度か下見をしたと言う。入田孝道さん、首藤医師、そして服部順治さんの三人の行動パターンを把握するためだ。

 殺人が計画的であったということだ。田口は自慢げに話すが、計画的な殺人であった場合、罪が重くなってしまう。

「そしてあの日がやって来た」

 田口公正と拓谷さんは、二人で入田家へ乗り込んだ。

 田舎のことだ。戸締りはいい加減だ。二人は入田家に上がり込むと、寝室で寝ていた入田さんを襲い殺害した。

「あいつがやったことだ」

 入田孝道さんを前に、拓谷さんは怒りを爆発させた。工場で作った五本爪の凶器を手に、入田さんを切り刻んだのだと言う。

 入田さんの殺害が終わったところに、首藤医師がやって来た。無論、往診の日は事前に調べてあった。

「予定よりちょっと早かった」

 思いのほか早く首藤医師が現れた。案内も請わずに、いきなり寝室に現れた首藤医師は寝室の状況を見て目を見張った。首藤医師が現れたことに気が付いた塩市拓谷さんは五本爪の凶器で襲いかかったが、間一髪で逃げられた。首藤医師は寝室から逃げ出した。田口公正が追いすがって白衣を掴んだ。だが、首藤医師は白衣を脱ぎ捨てて逃げ出した。

 屋敷から逃げ出した首藤医師は、当然、村に助けを求めに行こうとした。

 ところが、入田家から村へは、一本道があるだけだ。運動不足の首藤医師がよたよたと走って逃げれば、いずれ追いつかれてしまう。首藤医師は当然、そのことが分かっていた。

 田口にも分かっていた。楽においつけると思った。だが、門を出ると、一本道に首藤医師の姿がなかった。

 二人で手分けをして、首藤医師を探すことになった。拓谷さんは田口に坂の上を探すように命じた。例のお地蔵さんがあった細い山道だ。そして、自分は庭を探した。

「先生は庭に隠れていた」

 やがて、拓谷さんは裏庭の草むらに潜む首藤医師を見つけた。絶体絶命、首藤医師に逃げ場はない。命だけは助けてくれ。お前のことは誰にも言わないと命乞いをしたが、拓谷さんは耳を貸さずに五本爪の凶器で斬りつけた。哀れ、首藤医師は五本爪の凶器で切りつけられ、谷底へ転落してしまった。

 残ったのは服部順治さんだけだ。拓谷さんは診療所に向かい、そこから電話をして服部順治さんを呼び出した。首藤医師の声音を真似て電話をかけた。人を疑うということのなかった服部さんだ。首藤医師からの電話だと信じた。

 塩市拓谷さんは診療所で待ち伏せし、やってきた服部さんを五本爪の凶器で切り刻んだ。

「そして、拓谷は俺のことが邪魔になったらしい」

 復讐を果たした拓谷さんは田口公正を殺そうとした。

「正当防衛ってやつだ。俺は自分の命を守るために、あいつを殺した」

 これが重い口を開いて出てきた田口の供述だった。

「何故、塩市拓谷さんの頭部を切断し、白衣を着せて首藤医師の遺体に見せかけようとしたんだ」

 こう係長に突っ込まれると、田口はしどろもどろになった。「それは・・・だな・・・あの・・・ああ、そうだ。悪いのは拓谷だ。もともと、俺は拓谷の復讐に手を貸しただけだ。だけど、このままだと俺の仕業になってしまう。だから、拓谷の死体を先生のものに見せかけた」

 検死を行えば遺体が首藤医師のものではないことぐらい直ぐに分かる。だが、田口にそんな知恵はない。単純に、白衣を着た死体に首が無ければ首藤医師のものだと勘違いするに違いないと考えた。

「それから、先生の死体を探しに行った。壱の屋で死んだことになっているからな。先生の死体がみつかると変だ。苦労したよ。死体を回収するのに――」

 田口公正は首藤医師の遺体を回収するために谷底に降りた。そして、谷底で首藤医師の遺体を見つけ、それを背負って山小屋まで運んだ。

 そして山小屋近くに穴を掘って、首藤医師と拓谷さんの頭部を埋めた。

 僕らが七軒屋で捜査をしている時、田口公正は谷底から首藤医師の遺体を背負って山道を登り、遺体を埋めていたことになる。

 隈井さんは言う。「どうも信じられないな」

 田口の証言に、うさん臭さは感じたが、僕にはどこがどう気になるのかまでは分からなかった。「彼の証言のどこが信じられないのですか?」と聞くと、「覚えているか? 塩市拓谷は血を見るのがダメだった」と隈井さんは言う。

 そう言えば是永鉄工所で事情聴取をした時、拓谷さんの同僚がそんなことを言っていた。

「そんなやつが人を切り刻めると思うか?」

 隈井さんはそう言うが、五本爪の凶器を制作したのは拓谷さんだ。血を見ることは覚悟の上だったのではないだろうか。

――彼の証言、変だね。

 と広大君も言う。

 おや、しばらく大人しくしかったけど、どうかしたの? と聞くと、

――旅行に行っていた。

 と答える。

 君、一人で旅行になんて行ける訳ないだろう?

――時間旅行さ。事件を塩市晴美が亡くなった頃、いや、七軒屋の起源と言われている二階崩れの変までさかのぼって、整理しなおしていたんだ。

 時間旅行?そこまで言うのなら、どこが変なの?と尋ねてみた。

――順序さ。

 順序?何のことだい?

――検死の結果を覚えているかい? 先に入田孝道、塩市拓谷、首藤医師が殺され、最後に服部順治が殺された。そう言ってなかったかい?

 そうだっけ?

――そうだよ。覚えてないのかい? やつは最初に入田家に押し入った。そこで拓谷は入田孝道を殺し、首藤医師を待ち伏せた。一度は逃げられたが、庭に首藤医師を追い詰めて殺し、そして診療所に行って、服部順治を殺した。最後に拓谷に殺されそうになって、彼を殺害した。そして、首を切り落とし、首藤医師の遺体に見せかけた。そう証言している。どうだい?矛盾しているだろう?

 塩市拓谷さんが殺されたのは最後じゃない。服部順治さんより先に殺されていたってことだね。

――そうだ。やつは最初から塩市拓谷を殺害するつもりだった。いや、殺害しなければならなかったんだよ。

 どうして? どうして田口公正は塩市拓谷を殺さなけなければならなかったの?

――それはまだ分からない。理由のひとつとして考えられるのは、宗家の宝を探していたからじゃないかな。首藤医師の遺体は谷底に消えてしまった。見つけるまで時間がかかる。ひょっとしたら見つからないかもしれない。拓谷の遺体を首藤医師のものに見せかけることで、時間を稼ごうとした。宗家の宝を探す時間が欲しかった。

 拓谷さんは時間稼ぎの為に殺されたってこと?

――そうじゃないだろうけど。まあ、正直、塩市拓谷の存在が分かった時、最初は彼が犯人じゃないかと思った。

 どうして?

――だって、ブログにクマゼコのことが書いてあったじゃないか。クマゼコの仕業に見せかけて三人を殺害する。その計画の一環で、あんな凶器を作ったんだと思う。

 クマゼコのことを、たくさんの人に知っておいてもらいたかった。クマゼコの仕業だと思ってもらいたかったってこと?

――そうだよ。

 でも、拓谷さんは殺されている。犯人じゃない。いずれにしろ田口公正は逮捕された。事件は解決だね。

――どうかな? 本当に彼が言う通りなのだろうか? 死人に口無し。全てを塩市拓谷の犯行にしてしまいたいだけのような気がする。

 係長は殺害順序の件に気がついていた。「検死の結果、最後に殺害されたのが服部順治さんだと分かっている。お前の話は信憑性に欠けるな」と冷ややかに言うと、田口公正は「えっ⁉」と驚いた顔をした。そして、黙り込むと、腕組みして斜め上方の虚空を見ながら、目玉をぎょろぎょろと動かした。

「考えてやがる。何て答えれば良いのかと――」

 長い沈黙だった。「おい、どうした?」と係長に声をかけられても返事をせず、田口は必至で思考を巡らせている様子だった。

「やつの頭じゃ、どう答えるのが最善なのか、見極めることは困難だろう」

 やがて、田口公正は泣き出しそうな顔で言った。「刑事さん。俺だ。俺がやった。入田孝道を殺した。それから首藤医師を殺し、塩市拓谷を殺し、服部順治を殺した。全部、俺がやったんだ」

「ほう、そうか。分かった。なら、もう一度、最初から話してみろ」

 こうして取り調べは続いた。

「どうも信用のおけないやつだ」と憔悴した様子で取り調べ室を出てきた係長から、僕らは田口公正と塩市拓谷さんとの接点を見つけだすように指示を受けた。偶然、中津の町で塩市拓谷さんと出会ったと田口公正は証言したが、であれば、何時、どこで拓谷さんと出会ったのか、明確にする必要があった。

「頼んだぞ」と隈井さんの肩を叩いてから、「第二ラウンドだ」係長は取り調べ室に戻って行った。こうやって事件の詳細について、何度も何度も証言をさせる。取調官はわずかな証言の違いから、嘘を見抜くのだ。

 唐突に広大君が言った。

――昴君。ひとつ頼みがあるんだ。

 珍しい。広大君が僕に頼み事をするなんて。勿論、なんでも言ってよと僕は答えた。


「加志崎敦子さんに会いに行くことにしよう」

 驚いたことに、隈井さんからそう言われた。

「びっくりしました。僕も今、そう隈井さんにお願いするつもりだったのです」

「そうか。お前も同じことを考えていたんだな。いや、お前の中にいるもう一人のお前かもしれないけど――」

「えっ⁉」と僕は絶句してしまった。まさか、隈井さんが広大君のことを知っているはずがない。

「解離性同一障害って言うのか。二重人格とか、そういうやつだろう?人格が入れ替わるってのは映画やドラマで見たことがあるけど、別人格と話が出来るというのは珍しいらしいな」

「・・・」隈井さんは、全て知っていた。

「何時、俺に話してくれるのかと、待っていたんだがな」

 ――ほら。やっぱりね。隈井さんは昴君が打ち明けてくれるのを待っていたんだ。

「気が・・・ついて・・・いたんですか?」

「まあな。独り言にしては、少々、目立ちすぎるからな。それに――」と言ってから、隈井さんはひとつ大きな深呼吸をした。「実は、病気のことは、お前のお父さんから聞かされていた。もし病気のことが公になれば、お前の警察官としての将来は終わりだ。内密にしておいてくれと頼まれていた」

「そ、そんな馬鹿な!」と思った。

 父が広大君のことを知っていたなんてあり得ない。あの父が。それに、僕の将来を心配していた⁉そんなこと信じられない。父が心配していたのは、僕が精神異常者だと言うことが世間に知れ渡り、自分の名声に傷がつくことだけだったはずだ。

「どうした?お父さんがお前の病気のことを知っていたことが意外だったか?お前のお母さんだ。お母さんから聞かされていたそうだ。母親だ。お前が思っている以上に、お前のことを見ている。病気のことなんか、とっくに気が付いていた。そして、心配していた」

 母が・・・気がついていた。そして、父も知っていた。

 僕は父のため息が大嫌いだった。父が望むような大人になれなかったことで、見放されてしまったと感じていた。父のため息を聞く度に、僕は精神を苛まれた。死にたくなった。

 だが、あのため息は、父のため息は、僕が苦しんでいるのに何もできない自分に対する侮蔑のため息だったのかもしれない。

「隈井さん。事件のことで、係長に色々、僕のこと褒めて頂いたそうですが、実はあれ・・・全部、僕の考えなんかじゃないんです」

――止めろ!余計なことは言わなくて良い。

「あれ、全部、広大君が言ったことなんです。彼は僕と違って頭が良い。推理力もあるし、僕なんかよりずっと警察官に向いているんです」

――馬鹿だな。そんなこと、言わなくて良いのに!

 広大君が叫ぶ。

「はは」と隈井さんは笑顔を浮かべると、「もっと自信を持て」と言う。「広大君と言うのは、もう一人のお前のことか?お前の分身か?だとしたら、広大君が考えたことも、お前が考えたことだ。お前たちは二人で一人だ。お前、イコール広大君だ。広大君が警察官に向いているとしたら、お前にも警察官としての素質があるってことだ」

 言葉に詰まった。

――ほら、流石は隈井さんだ。全てわかっている。

「あ、ありがとうございます」と言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

 今まで、こんなに優しい言葉をかけてくれた人がいただろうか?こんなにも僕を評価してくれた人がいただろうか?いない。隈井さんだけだ。胸がいっぱいになった。

「さて、加志崎敦子さんから話を聞いて来よう」

 隈井さんが歩き出す。

 その背中を見つめている内に、ぽろぽろと涙がこぼれて来た。涙を悟られないように、僕は三歩下がって、俯いて、後をついて行った。


 僕らは中津にある加志崎家へ向かった。

 田口公正の元妻、加志崎敦子さんは二人の子供と共に中津市に住んでいる。長男が良生君、次男が将生君だ。

 去年、隈井さんは加志崎家の長男と会ったと言っていた。住所を調べてあったのだろう。ハンドルを握る手に迷いがない。

 加志崎家は中津市内から外れた田畑の中にあった。田畑の一部を整地し、住宅地としたようだ。小ぶりな日本家屋が碁盤目状に並んでいた。その一画に加志崎家があった。

 加志崎敦子さんは五十代後半、年とともに縮んでしまったかのように小柄だ。くるくるとパーマのかかった髪が小さな顔に乗っているようで、きのこを思わせた。鼻筋は通っているので、若い頃は美人だったに違いない。

 事前に電話をしてあったので、敦子さんは在宅だったが、長男の良生君がいて、「同席しても良いですか?」と尋ねて来た。母親が刑事から事情聴取を受けると聞いて、心配になって、会社を休んで駆けつけて来たと言う。

 母親と違って、すらりと背が高く、肩幅が広い。顔は父親に似たのだろう。太い眉毛に四角い頭をしているが、顎が細い。将棋の駒を逆さまにしたような顔だ。

 加志崎家の食卓で、膝を突き合わせるようにして事情聴取が始まった。

「七軒屋で起きた殺人事件のことはご存知ですか?」

 隈井さんが尋ねる。

「加志崎の家は――」と敦子さんが語り始めた。

 最初に七軒屋を捨てた家が加志崎家だと言う。「先祖代々、宗家の小作人でした。貧しくて、祖父は中津や行橋、そして北九州に出稼ぎに出ていました。祖父がこちらで仕事を見つけて家族を呼び寄せようとしたのですが、一度に全員を呼び寄せることができませんでした。兄弟、上から順に呼び寄せて行き、結局、最後に残ったのが父でした。それで末っ子の父が七軒屋の家を継ぐ形になってしまいました」

 敦子さんの父は四人兄弟の末っ子で、父親を頼って兄弟が村を出た後、加志崎家に残った。かつては家を継ぐ長男が羨ましがられたものだが、貧乏くじを引いた形になった。村を捨てた方が、生活が楽になる。そんな時代だった。

「その内、父親が糖尿病を患いまして。治療がありましたので、村にいては何かと不便だと言うことで、母親と共に村を出ました。私は参の屋に嫁に行ったばかりでしたので、一人、村に残されてしまいました。村で田口と共に生きて行くしかないとあきらめました。ですが、あんな事件が起きてしまい、村を捨てることになりました。子供たちを連れ、両親を頼ってここに来ました」

 敦子さんが住んでいるこの家は祖父が建てた家だそうだ。

「父親の兄弟は大阪と福岡、北九州に散り散りになっています。結局、この祖父の家も私が父から相続する形になりました」

 父親は先年、他界したが、母親が健在で同居している。現在、この家で敦子さんと母親、それに末っ子の将生君の三人で暮らしていた。事情聴取に同席している良生君は結婚し、家を出ているそうだ。

 敦子さんの身の上話を聞いた後、隈井が尋ねた。「別れた元夫、田口公正さんとは連絡を取り合っていますか?」

「いいえ。あの人から連絡して来ないので、連絡なんて取り合っていません。刑期を終えて出所してから七軒屋にいるはずです」

 隣の良生君が顔をしかめた。

「七軒屋にはいません。芦刈さんによれば、ある日突然、村から出て行ったそうです」

「そうですか。まあ、あんなことがあったから、村に居づらかったのかもしれませんね。あの人が今、何処で何をしているのか、私は知りません。興味もありませんし」

 すると、敦子さんの言葉を遮って、良生君が言った。「中津だよ。親父はここにいる」

「えっ⁉」と敦子さんが小さく声を上げた。

「中津のどちらにいるのですか?」

「何処に住んでいるのか、詳しい住所は知りません。建設労働者が集まる飯場って言うんですか、そういうところにいるみたいです」

「あなた、あの人と会っていたの?」敦子さんが驚いた顔で尋ねる。

「ごめんよ。お袋、今まで黙っていて。あれでも一応、俺たちの父親だからな。会いたいって言われて、何度か、一緒に飯を食った。将生も一緒だった」

 子供たちは田口公正と連絡を取り合っていたようだ。

「お父さんの連絡先は分かりますか?どうやって連絡を取っていたのですか?」

「まだ公衆電話ってものがあるんだよな。信じられないことに、今時、携帯を持っていなくて、他人の携帯を借りたり、公衆電話から電話をかけて来たりする。日中、仕事があるから、携帯に出られない。電話を受けるのは将生の役目だ。親父から電話があると、将生がメッセージを送って来てくれる。大抵、何時何時、親父が一緒に飯を食おうと言っているといった内容だった」

「なるほど。それで、最近は何時、お父さんに会いましたか?」

「さあ、一番、最近会ったのは、半年、いやもっと前だと思う」

「最近は会っていなかった訳ですね。では、塩市拓谷という名前に心当たりはありませんか?」

 隈井さんの質問に、敦子さんと良生君が同時に「塩市拓谷!」と反応した。

「知っているよ。宗家の跡取り息子だ。宗家と言うのは――」

「宗家については知っています」

「じゃあ、話が早い。七軒屋のことなんて、最近は思い出しもしないけど、子供の頃、あそこで育った。拓谷は勿論、知っている。弟が拓谷と同い年で、誕生日まで一緒だった。俺も弟も、拓谷と同じ学校に通っていたからね。仲が良かった。拓谷も中津にいるから、将生とはちょくちょく会っていたみたいだ」

 田口公正と塩市拓谷さんを引き合わせたのは、加志崎将生君だったに違いない。

「弟さんが塩市拓谷と親しかったのですね。今、弟さんはどちらに?」

「それが――」敦子によれば、もう四日ほど、姿を見ていないと言う。

 将生はアラサーだ。家に帰って来ないと言って、心配するような年齢ではない。高校を卒業後、一度、近所の工場に勤めたが、仕事が面白くないと言って辞めてしまった。それからは、定職につかずにぶらぶらしているらしい。

「あいつが家にいないことなんて、いつものことだから」と良生君は言う。

 バンドをやると言って、一年以上、家に帰らなかったことがあった。博多でホストをやっていた時期もあったと言う。

「また、何処かで夢みたいなこと言っているのだと思います。全く、あいつ、何時までお袋に心配かければ気が済むのか」

 良生君が忌々しそうに吐き捨てた。

 服部順治さんや首藤医師、入田孝道さんのことについて尋ねてみたが、敦子さんも良生君も、七軒屋を離れてから一度も会っていない。七軒屋でさえ、一度も行っていないということだった。

「懐かしいという気持ちがない訳ではありません。子供の頃、山でカブトムシを採ったり、川で泳いだり、魚を釣ったりしましたからね。でも、まあ、遠すぎます。法事で、乗兼寺辺りまでは行くんですけど、七軒屋まで行こうとは思いません。いつか、年をとったら、行ってみたいと思うかもしれません」

 良生君が寂しそうに笑った。両親の離婚の原因になった事故が、トラウマになっているのだろうか。

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