山小屋の怪人

 一人の中年男が両脇を抱えられるようにして山から降りてきた。

 ガリガリにやせ細り、着ている服は泥まみれだ。太い眉毛に四角い顔、顎が細い。ところどころ赤黒く変色している。血痕のように見えた。幽鬼のような男が呆然と疲れ切った表情で、消防団員に引きずられるようにして歩いてくる。

 隈井さんの指示に従い、男の素性を確認してもらうために芦刈さんに待機してもらっていた。芦刈さんと二人、診療所の前で男が連行されて来るのを待っていた。

「あれは――公正さん」

 芦刈さんが呟く。

「公正さんと言うと田口公正さんですか⁉」

「ああ、そうだ。薄汚れてしまっているが公正さんに間違いない」

 男は黒枝裕紀さんを誤って射殺してしまい、村から消えた田口公正だった。何故、七軒屋の外れの山小屋に一人、潜んでいたのか? 一連の事件の犯人は田口公正なのだろうか?

 屈強の消防隊員に両脇を固められたまま田口公正が目の前を通り過ぎて行った。

「公正さん!」と芦刈さんが呼びかけたが、田口公正はほんの一瞬、芦刈さんを見ただけだった。疲れ切った表情のまま、パトカーに押し込められ、連行されて行った。

 田口公正に遅れて隈井さんがやって来た。田口公正と一緒に山を降りてきたはずだが、普段通りだ。汗はかいていたが、表情に疲れは浮かんでいない。細く見えるが、隈井さんは体力がある。

「どうだった?」と隈井さんに聞かれた。

「はい。男は田口公正だと言うことです」

「田口公正?猟銃事件のあと、村から姿を消した男か。まさかずっと山小屋に潜んでいた訳でもあるまいに・・・・」

――そうか。その可能性があったな。

 これは広大君だ。

「男の素性について、係長に報告してくるよ」

 隈井さんは診療所で指揮を執る係長に報告に行った。

 田口公正からの事情聴取は中津署で行われることになった。

「隈井君から聞いているぞ。張り切っているみたいじゃないか。時折、はっとさせられるようなことを言うと隈井君が褒めていたぞ」

 診療所から出てきた係長が僕に近づいてくると、いきなりそう言った。隈井さんが言ってくれたようだ。嬉しい。

 係長はたたき上げの優秀な刑事だ。捜査経験が豊富で、事件の読みも的確だ。朴訥とした農夫のような風貌で、一見、無口に見えるが、実はよくしゃべる。「七軒屋にいても違和感がない。ここの住人のようだ」と隈井さんが言っていた。

 怪しい男を確保したことでご機嫌だった。中津署での取り調べを「俺がやる」と張り切っていた。

「君たちは俺の代わりに山狩りを監視していれくれ。何かあれば、直ぐに連絡をくれ」

 係長はそう言い残して、怪しい男と一緒にパトカーに乗り込み、中津署に向かった。

――昴君。家、ほら、田口公正の家があっただろう。あそこだ。調べてみた方が良い。何かみつかるかもしれない。

「分かった」

 係長に褒められたのは、広大君のアドバイスがあったからだ。広大君のアドバイスには従っておいた方が良い。

 山狩りの指揮を任された隈井さんは、何事か消防隊員と話し込んでいた。話が終わるのを待って、「隈井さん。山小屋の怪人の正体が田口公正だったのなら、彼の家を捜索した方が良いんじゃありませんか?」と伝えた。

「ああ、そうだな。緊急事態だ。捜索してみよう。芦刈さんは何処だ?日頃、田口家の手入れをしていたはずだ。何か変わったところがあれば、気が付くはずだ。芦刈さんに案内してもらおう」

「はい」そう言えば姿が見えない。

 芦刈さんを探すと、診療所の待合室に呆然と虚空を見つめながら腰かけていた。「芦刈さん」と声をかけると、「ああ、刑事さん。一体、どういうことでしょうね。山に公正さんがいた。彼が順さんを殺したのでしょうか?」と泣きそうな顔で尋ねてきた。

「まだ分かりません。中津署で田口さんから事情を聞くことになりますので、その辺、はっきりしてくると思いますよ」

「公正さんにはちょっと怖いところがあってな」

「怖いところ?」

「うん。裕紀さんが撃たれて亡くなった時、事故なんかじゃなくて、狙って撃ったなんていう噂が流れたくらいだ」

「狙って撃った⁉」とは穏やかでない。殺人事件だ。「二人の間に諍い事でもあったのですか?」

「狭い村だ。争いごとは大抵、水だ」

 なるほど、村には細い川が一本、流れているだけだ。

「あの年は日照りが続いてな。飲み水は井戸水で何とかなっていたが、畑となるとそうは行かない。裕紀さんの畑が公正さんの畑の上にあって、裕紀さんの畑に水を入れたら、公正さんの畑に水が回らないようになってしまった。それで言い争いになったことがあった」

「だから田口公正が黒田裕紀さんを猟銃で射殺したと言うのですか?」

「まあそういった噂だ。刑事さん。あくまで噂だよ。だけどな、ひょっとしたら公正さんならやりかねないと人に思わせるところがあった」

「ああ、なるほど」狂気をはらんだ人物であったようだ。

「田口公正さんの家を確認したいのですが、一緒に来てもらえませんか?」

 芦刈さんは「ああ」と大儀そうに腰を上げた。

 三人で田口家を目指した。

 服部家、芦刈家、黒枝家を通り過ぎると、道は坂道になり、しばらく登ると廃屋となった田口家がある。芦刈さんが手入れしているため、廃屋と言ってもそれほど荒れ果ててはいない。

 芦刈さんは「よいしょっと――」と手慣れた様子で、母屋の雨戸を開けて、「さあ、お上がんなさい」とまるで我が家のように言った。

 屋敷内を見て回る。

 狭い家だ。八畳ほどの居間がひとつに台所、トイレ、浴室があるだけだ。見て回るほどもない。異常は感じられなかった。

「二階があるようですね」

「うん。二階には滅多に上がらないけどな。空気を入れ替えるだけだ」

 隈井さんが階段を登って行く。

 二階は二間あり、そのどちらにも家具らしきものがほとんど無かった。事件の後、奥さんが子供を連れて家を出ている。その際に持ち出したのだろう。

 芦刈さんが、「何もないだろう」と窓を開けた。

 その瞬間、部屋の中にゴミが舞い込んできた。コンビニのおにぎりを包んでいるフィルムだ。足元に落ちたフィルムを手に取った隈井さんが表情を変えた。

「芦刈さん。前回、ここに来たのはいつ頃ですか?」

「ああ、ほら、あんたたちに出会った日だよ」

「その前は?」

「その前? さあて、ひと月前だったか、ふた月前だったか」

「事件があった日の前々日、ここに来ましたか?」

「いいや」

 隈井さんは何に気が付いたのだろう。

「ほら、これを見ろ」

 隈井さんはおにぎりのフィルムをハンカチで包むと、僕に見せてくれた。可愛らしい熊の刺繡の入ったハンカチだ。彼女のものですか?と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。今はとても冷やかせる状態じゃない。

 触らないように気を付けながらフィルムを見たが、特に変なところはない。コンビニで売っている、おにぎりを包んである普通のフィルムだ。

――ああ。と広大君はすぐに何かに気が付いた。

 焦る。僕だけ分からない。

「日付をよく見ろ」と言われて、やっと気が付いた。

 おにぎりの製造年月日が事件の二日前だった。

「事件前にここに人がいた。しかも、その人物は町で買い物をしている」

 隈井さんの言う通りだ。痕跡は消してあったが、誰かが屋敷に侵入し、二階の部屋にいたことは明らかだ。ここに潜んでいたのだ。その誰かがここで、おにぎりを食べた。窓からゴミを投げ捨てたのが屋根の上に残っていた。それが窓を開けた途端、風に乗って部屋の中へ舞い戻って来た。

「家の周りを見てみよう」

 他に何か捨ててあるかもしれない。

 縁側に腰をかけて動かなくなってしまった芦刈さんを残し、二人で家の周りを見てまわった。あった。案の定、他にもポテトチップス空き袋やカップヌードルの空容器、割り箸などが落ちていた。だが、これらのゴミが何時、捨てられたものか確かめる術がなかった。

 田口家の近くに、小屋があった。

「この小屋は何です~⁉」

 縁側で日向ぼっこをしている芦刈さんに聞くと、「ああ、それは鶏小屋だ」と教えてくれた。

「田口さんのものですか?」

「ああ、公正さんが使っていた」

 扉が金網になっている。ここで鶏を飼っていたのだ。「おや?」よく見ると、鶏小屋の地面が変だ。

――昴君。よく気が付いた。土の色が変だね。雑草も生えていない。最近、掘り返した跡じゃないか?

 広大君が褒めてくれた。

「掘り起こしてみよう」

――気を付けてね。

 掘り起こす。土が軟らかい。ほどなく、細長い金属状のものが出てきた。意外に大きい。

――気を付けてね。

 広大君が繰り返す。僕にだってピンと来ている。掘り起こすと形がはっきり見えてきた。熊手の様な形状だ。やがて、切れ味の鋭そうな刃先が見えた。危ない。うかつに触れると手を切ってしまう。慎重に掘り出す。

 全体が見えてきた。五本の刃物が鍵爪のようになっていて、熊手状に広がっている奇妙な凶器だ。五本の刃が磨き上げられている。包丁を思わせる。持ち手があり、それを握って使用するようだ。バンドで手首に固定できるようになっていた。

 刃や握り手の部分から、赤黒く変色した血痕が見られた。

「やったな。凶器を見つけたみたいだ。五本爪の凶器だ」

 いつの間にか背後に来ていた隈井さんが頭の上から言った。


 ついにやった!凶器を見つけるなんて、大手柄だ。

――ああ、君はよくやったよ。自慢して良い。

 と広大君も言ってくれた。そうだ。今回は広大君の力を借りていない。僕、一人の力で凶器を見つけたのだ。

 家に戻っても、興奮は収まらなかった。今晩は寝られそうもない。じっと座っていられなくて、部屋の中をうろうろと歩き回っていると、携帯電話が鳴った。

 また母からかと思った。

 父だった。「犯人を確保したそうだな」

 相変わらず直球勝負だし、こちらの捜査状況もお見通しだ。まるで監視されているようだ。

「まだ犯人だと決まった訳ではありません」

「そうか。お前が凶器を見つけたと聞いた。大事な証拠を見つけた時は、触らずに鑑識を呼べ。土の中に埋められていたそうじゃないか。凶器の周りの土だって、大事な証拠なんだぞ」

「・・・」折角の大手柄なのに、冷や水を浴びせられてしまった。

「容疑者を捕まえた。証拠を見つけた。いいか、それで終わりじゃないぞ。これからだ。容疑者が犯人であることを示す証拠を見つけて容疑を固めて行かなければならない。地道で日の当たらない作業だ。お前は根性がない。体力がない。辛くても値を上げるな」

「分かっています」

「分かった気になるな!殺人事件の捜査は初めてだろう。犯人を捕まえて、間違えましたじゃ済まされないんだぞ。今こそ、手綱を締める時だ」

「分かっています!僕にだって、それくらい」

「まだだ。この事件が終わってから、ああ、あの時、ああしていれば、こうしていればと後悔することになる。きっとな。そう思わないとしたら警察官失格だ」

「父さんは経験豊富で、優秀な警察官かもしれません。でも、僕は僕です。警察官に向いていないことくらい、僕が一番、良く分かっています」

「じゃあ、警察官なんて辞めてしまえ!」

 売り言葉に買い言葉で「警察官なんて辞めてやる!」と言いかけて、その言葉をぐっと飲み込んだ。

 僕はずっと警察官になりたかった。父が警察官だったからだ。子供の頃は、清廉潔白で、正義感にあふれた父が憧れの的だった。だけど、大きくなるにつれ、自分が父に似ても似つかない出来損ないであることが分かって来た。憧れだった父は嫌悪すべき対象になってしまった。僕はずっとコンプレックスの中で生きてきた。

 だけど、だけど、今は七軒屋の事件の捜査に、隈井さんとの捜査に生きがいを感じている。今は警察官を辞めたくない。

「僕は僕です。後悔のないように捜査を続けます」そう言い返すのがやっとだった。

「とにかく油断は禁物だ。細心の注意を払って捜査を続けろ」

 そう言い残して父は電話を切った。


 黙秘を続けるかに見えたが、首藤医師の行方を尋ねると、田口公正は、

「やつが何処にいるのか知っている」

 と突然、口を開いた。

「先生は山小屋の傍で眠っている」田口公正は言った。

「眠っている?」

「俺が死体を埋めた。拓谷の頭も一緒だ」

「お前が殺したのか?」という問いに田口は答えなかった。

 田口公正立ち合いのもと、現場検証が行われることになった。

 また山小屋だ。無論、僕と隈井さんも現場検証に参加できることになった。

 五本爪の凶器の発見は係長を喜ばせた。「でかした!でかしたぞ‼嶽君。よくぞ、凶器を見つけた。いや~最初に会った時から、見どころのある若者だと思っていたんだ」と何度も言われた。

 どうだろう?父のコネで押し付けられた僕のこと、厄介者だと思っていたはずだ。

――そう、すねるんじゃないよ。素直になりな。

 広大君は言う。昨晩の父との喧嘩で意固地になっているのかもしれない。

――そうだよ。考えてもみな。昴君がお父さんに口答えしたのって、初めてじゃない?

 そう言われればそうだ。父に反抗したのは初めてだ。

 とあれ、どうだい。凶器を発見したのは僕だ。鶏小屋の異変に気が付いて、地面を掘り起こして凶器を見つけたのは僕だ。僕の鋭い観察眼はちょっとした異変も見逃さないんだ。僕は広大君にそう言って自慢した。広大君は、

――凶器を見つけたのは君だよ。もし君が、気がつかなきゃあ、いまだに凶器は見つかっていないかもしれない。そうなると、田口公正だって、犯行を自供していなかったかもしれない。

 と言って、大いに僕のことを誉めそやしてくれた。

 鶏小屋から五本爪の凶器が見つかったことを聞かされた田口公正は、がっくり、うなだれると、「私がやりました」と自供した――という話になっている。

 僕の功績は大と言えた。

――君はやれば出来る人間なのさ。もっと自信を持ちなよ。

 山狩りで疲れていたが、広大君の言葉が疲れを吹き飛ばしてくれた。

 結局、服部由紀さんは見つからなかった。今日は範囲を広げて、再度、山狩りが行われることになっている。だが、田口公正が確保された今、彼の証言通り、首藤医師の遺体が見つかれば、この先も大掛かりな山狩りが行われるかどうか微妙だ。そもそも由紀さんが山に入ったのかどうか、はっきりしていない。

 服部由紀さんの捜索は今日が勝負と言えた。

 山狩りの部隊とは別に、田口公正を取り囲む警察官と鑑識官に交じって、僕らは山小屋を目指す別動隊に所属することになった。

 昨日の山狩りで足がパンパンだった。さすがにきつい。

 別動隊に三苫巡査部長がいた。僕の顔を見ると、昨日と同じように「嶽刑事!」と歩み寄って来た。

「三苫巡査部長、ご苦労様です。今日は一緒ですね」

「昨日は大活躍だったみたいですね。こちらは空振りでしたけど」

 素直に嬉しい。僕の活躍が話題になっているみたいだ。「大活躍だなんて・・・・そんな」と謙遜しておいた。

「嶽刑事。実はあれから、色々考えたのです」

「何でしょう?」また何か考えたようだ。

「クマゼコは犯人ではない理由ですよ。服部順治さんの殺害で、犯人はドアを開けて診療所に入っています。診察室にもドアがありました。クマゼコにドアを開けることができるとは思えません。わざわざドアを開けて入ったということは、クマゼコが犯人ではないってことになりませんか?」

 またクマゼコ犯人説だ。ちょっと面倒くさくなった。

「そうですね。それにクマゼコが犯人なら、一度にたくさんの人を襲ったりしないのではないでしょうか?野生の動物は食べるのに必要な分しか狩りをしないはずです」

「そうですね」と三苫巡査部長は頷くと、「また考えておきます」と言って戻って行った。

 山狩りの捜索隊と共に、診療所を出発した。

 入田家を超えた辺りで、もう息が切れた。みな、粛々と山を登って行く。遅れる訳には行かない。歯を食いしばって歩き続けた。

 鬱蒼と生い茂っていた森が段々、薄くなり、突然、緑の高原が目の前に広がった。膝丈の雑草が緑の絨毯を形成している。気温がぐっと下がる。羊が群れを成すヨーロッパの山地にありそうな高原だ。だが、斜面が急でのどかな牧草地とは言えない。

 緑の絨毯の上にぽつんと山小屋が建っていた。

 牧歌的だ。益々、ヨーロッパの山々を思い出す。

 山小屋は近づいてみると、かなり朽ち果てていた。梅雨時とは言え、高地だ。隙間風が冷たかったことだろう。田口公正はよくこんな小屋に潜んでいたものだ。

 ねえ、広大君。本当に首藤医師の遺体があるのかな?田口公正が犯人なのだろうか?

――・・・・・・

 寝ているのか。僕の質問に広大君は答えてくれなかった。

 小屋に到着すると、「こっちだ」と田口公正が僕らを案内する。小屋のある当たりは斜面がなだらかで平地に近くなっているが、そこから下に下った場所に雑草の生えていない地面がむき出しになった個所があった。

 土饅頭が出来ている。ここに何かを埋めたのだ。

「ここだ」と田口公正が言うので、鑑識官たちが一斉に地面を掘り返し始めた。捜査員が手を貸す。僕は若手とあって、最前線に送られ、シャベルを渡され、「いいか。慎重に掘れよ。何か見つけたら、直ぐにシャベルを置いて、手で掘れ」と年配の鑑識官に怖い顔で言われた。

「分かりました」

「お前もだ」と三苫巡査部長にもシャベルが渡された。

「頑張りましょう!嶽刑事」

 三苫巡査部長は何時も元気だ。僕に三苫巡査部長、それに若手の鑑識官、二人で地面を掘り起こす。土が柔らかい。一度、掘り起こしたからだ。見る見る内に地面に穴が広がって行く。

 最初は丁寧に掘り進めていたが、その内、肉体労働にしか思えなくなった。ざつにシャベルを土に入れて、「もっと丁寧に。慎重に」と何度か年配の鑑識官に怒られた。

「すいません」と汗をぬぐう。

 ほどなく、「あった!あったぞ!」と僕の隣でシャベルを振るっていた三苫巡査部長が声を上げた。

「どけ、どけ」と僕は土の中から追い出された。

 鑑識官たちが地面に広がった穴に飛び込んで、手で土を掘り起こしてゆく。

 穴の周りに捜査員が集まり、「どけ、どけ」と僕と三苫巡査部長は穴から遠ざけられた。まあ、良い。助かった。正直、遺体をなんて見たくはない。

「やりましたね。嶽刑事」三苫巡査部長が肩で息をしながら笑顔で言った。

「ご苦労様です」と僕が答えた時、「おお!」と穴の周りで歓声が上がる。

 地中から、遺体が出てきたのだ。首藤医師だろう。腐敗が進んでいて身元が確認できなかったようだ。

「傷跡を見ろ!五本だ」

 僕は見ることができなかったが、入田さんや服部さんと同じように、遺体に五本の平行した傷跡が見られたようだ。被害者は五本爪の凶器で殺害されていた。

 どういうことなんだろう? 広大君に尋ねてみるが答えはない。

 首藤医師は山小屋まで逃げて来て、ここで田口公正に殺された。そんな気がした。遺体を背負ってこの山道を登って来るなんて、やせ細った田口公正にそんなことが出来ただろうか?

 遺体が着ていた上着のポケットから、鍵が見つかった。首藤医師が診療所と軽自動車の鍵を持ち歩いていたことが分かっている。

 遺体が首藤医師のものであると見て間違いないだろう。

「うおおおおー!」

 地鳴りのような歓声が上がった。人の頭部が見つかった。こちらも腐敗が進んでいたが、塩市拓谷の頭部だ。僕は少しだけ穴を囲む人の輪から遠ざかった。

 出来れば見たくない。はは~そうかと思った。広大君もこういうシーンが苦手なのだ。だから出てこないのだ。

 更に、斧が出てきた。

「遺体の頭部を切断するのに使用した凶器のようです」鑑識官の言葉が聞こえた。斧を使って遺体の頭部を切断したのだ。それを聞いて、人の輪から更に足が遠のいた。

「刑事さん、そこの若い刑事さん」

 いつの間にか田口公正も穴から遠ざけられていたようで、どうやら僕のことを呼んでいるようだった。皺だらけの顔で僕を見ていた。幽鬼のような顔はムンクの叫びという有名な絵画に出てくる人物を思わせた。

「何でしょう?」と近づくと、「あんた、昨日、喜則さんと一緒にいたな」と聞かれた。

「はい」とうなずくと、「じゃあ、あんたに教えてやる」と言って皺だらけの顔を歪めた。笑ったように見えた。

 隈井さんに目をやる。遠巻きに穴の様子を見守っていたが、僕と田口公正のやり取りに気がついたようだ。

「何を教えてくれるのです?」

「あの斧は入田の納屋から拝借した」

 田口は入田家の納屋から斧を持ち出して塩市拓谷さんの頭部を切断したと言うのだ。村の事情に詳しい田口の仕業らしかった。

「もうひとつ。こっちだ。ついて来な」

 何処かに案内したいようだ。

 隈井さんが歩み寄って来た。

「どうした?」

「どこかに連れて行きたいみたいです」

「そうか」と隈井さんの指示で、田口公正を先頭にぞろぞろと歩いてゆく。

 山小屋からやや下った場所に木々が鬱蒼と茂った場所がある。森の限界だ。どうやらそこを目指しているらしい。

 一瞬、森に逃げ込もうとしているのではないかと思った。

「ああ、ここだ」と田口公正が指をさした。何かある。藪の中にうまく隠してあった。バイクだ。僕は藪に分け入って、草木をかき分けた。オフロード・バイクが隠してあった。

 中津から七軒屋へやって来るのに使ったものだ。オフロード・バイクが山小屋近くの茂みに隠してあった。

「拓谷のバイクだ。あいつにバイクに乗せてもらって、ここに来た」田口は言う。

「あなたがやったのですか?服部順治さん、首藤医師、そして塩市拓谷を殺したのはあなたですか?」

 急に彼のことが怖くなった。三人もの人間を殺害できるなんて、どんな神経をしているのだろう。僕には信じられなかった。

 田口公正はまた顔を歪めただけだった。その顔は何処か悲し気に見えた。

 現場検証を終え、山を降りる。

 前を警官に囲まれて、ゆらゆらと揺れるようにして田口公正が歩いて行く。針金のように細いが足腰はしっかりしている。少なくとも僕よりましだ。

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