蛍と貫之

 村の入り口からあぜ道を進むと、黒枝家がある。自宅前に引水路があり、板で作った小さな橋を渡ると黒枝家の玄関だ。

「水が綺麗ですね。都会でこんな綺麗な水、お目にかかれません」

「そうか」と隈井さんが冷たく返事をした。

 黒枝家を訪ねると、幹江さんがいた。出歩くこともないだろう。

「黒枝のおばあちゃん、こんにちは。また、お話を聞かせてもらいに来ました」

 隈井さんが声をかけると、幹江さんは「あら、まあ、お客さんなんて珍しい。さあさ、上がって下さいな。今、お茶を煎れます」と愛想良く迎え入れてくれた。

 応接間に通されると、幹江さんは手際よくお茶を煎れてくれた。

「黒枝さん、入田孝道さんや服部順治さんが亡くなりました。殺されたのです。首藤医師は行方不明ですし、何かご存知ありませんか?」隈井さんが質問を始めた。

「おう、ヨシさんから聞いた、聞いた。ほんつ、恐ろしいことだ」

 幹江が答えた。当たりだ。今日は頭がはっきりしている。

 幹江さんは「よいしょっ」と言って座り込むと、「首藤先生がおらんようになって、薬をどうしたもんか困っている。ヤブだったけど、薬は信用できた。ヨシさんが、いざとなったら、中津の病院までもらいにいってやると言ってくれるけど、迷惑をかけてばかりじゃ申し訳ない」

「どこかお悪いのですか?」

「この年だ。悪いとこだらけだ。足が悪いので、最近は歩くのが億劫になった。お地蔵さんに詣でる以外、外に出ることはない。週に一度、首藤先生に診てもらっていた。診察の日に、あげなことになったから、薬をもらえなかった」

「ほう。事件があった日に、首藤医師は黒枝さんの家に診察に来る予定だったのですね?」

「ああ。いつも壱の屋に寄ってから、うちに回ってくれていた。壱の屋も足が悪かったから、首藤先生に毎週、診てもらっていたはずだ」

 首藤医師は毎週、入田孝道さんと黒枝幹江さんの往診をしていたようだ。

「なるほど。ところで、最近、見知らぬ人が村に居るのを見たことはありませんか?」

「うん、見た」

「何時、どこで見ました?」

「今日、あんたたち。見慣れん顔だ」

「ああ・・・」頭はしっかりしている。

 隈井さんがじろりと僕を見た。事情聴取をやってみろと言っているのだ。

「黒枝さん、家の前に綺麗な小川が流れていますね。とっても水が綺麗でした。そろそろ夏ですので、夜になると蛍がいっぱい飛ぶんじゃありませんか?」

 隈井さんは、何を聞いているんだと思ったことだろう。

「蛍かい。蛍なら、いっぱい飛んでいるぞ。今頃は、夜になると蛍が綺麗だ。そうそう。夏になると蛍の悲しい、悲しい話をよくガキたちに話して聞かせたっけな」

「蛍の悲しい、悲しいお話ですか?」

「随分と昔の話だ。聞きたいか?」

「ええ、お願いします」

「加志崎家に蛍という、それは、それは美しい女子がおった。蛍と参の屋の貫之は幼馴染で、まるで兄妹のように仲が良かった」

 幹江さんが、昔話を語り始めた。

 何時頃の話かと尋ねると、江戸時代だと言う。七軒屋のひとつ、馬廻の加志崎家に蛍という名の美しい少女がいた。少女は参の屋の田口貫之と兄妹のようにして育った。年頃になると、二人はお互いに相手を意識するようになり、禁断の恋に落ちた。

「村には鉄の掟があった。結婚相手は村の年寄りが決める。それには逆らえん」

 七軒屋では血の濃い薄いが婚姻の目安となった。このため、若者の婚姻は、村の年寄りが寄り集まって決めた。誰それの親父は誰の息子だというような家系が村人同士の婚姻の決め手となる。必然、昔のことを良く知る年寄りが若者の結婚相手を決めることになった。

 現在の民法では四親等以降の傍系血族であれば結婚は認められている。だが、七軒屋では血が濃くなり過ぎないように四親等まで、所謂、従兄弟同士までの結婚を村の掟として禁じていた。

 蛍の父親と貫之の母親が兄妹であり、二人の結婚は七軒屋では認められなかった。

「大きな声じゃあ言えんが、この村には悪しき習慣があった」

 幹江さんが言う。クマゼコのことだ。世帯数の少ない七軒屋では、世代を経て婚姻を重ねるにつれ、血が濃くなってしまった。これを避ける為、七軒屋の男たちは近隣の農村から女の子をさらって来ては育て、村の男たちの嫁にした。村外から新鮮な血をかどわかして来るという蛮行を繰り返していた。だから、この辺りにクマゼコの伝説が生まれたのだ。

「当然、二人は七軒屋の掟を知っておった。だが、濁流に押し流されるように傾いて行くお互いの感情を押し留めることができなかった。この世で一緒になれないなら、あの世で一緒になろう。二人は思い詰めてしまった。ここで登場するのが黒枝同喜だ」

 幹江さんの口調が、芝居がかってきた。

「名前の通り、黒枝同喜はうちの先祖の一人だ。強情な二人に手を焼いた両家の大人は、村の年寄りに集まってもらい、二人をどうするのか決めてもらった。村の年寄たちは、加志崎蛍を黒枝同喜に娶わせるという決定を下した。

 同喜は次男坊、兄が早世しない限り、ごく潰しとして一生を終えるしかない境遇だった。蛍を娶れば分家を持たせるという好餌を村の年寄りたちから提示され、同喜は狂喜した。

 ただ、命を捨ててかかっている二人には、村の年寄りの決定など何の効力もなかった。蛍の頑強な反対に遭い、ずるずると婚礼の日が先延ばしになっている内に、痺れを切らした同喜は加志崎家に乗り込んだ。そして、風のように蛍を連れ去った」

 面白い。幹江さんは話し上手だ。幹江さんの昔話を渋い顔で聞いていた隈井さんだったが、話に引き込まれている。真剣な表情で幹江さんの話に聞き入っていた。

「蛍が同喜に連れ去られたことを知った貫之は、力づくで蛍を奪い返さん!と、抜き身を引っさげて黒枝家に乗り込んだ。蛍は助けに来てくれるのを待っているに違いない。貫之はそう信じた。

 抜き身を下げて現れた貫之を見て、黒枝家は武士の面子にかけて蛍を引き渡す訳には行かんと追い返そうとした。蛍は村の寄り合いで黒枝家の嫁と決まった。横恋慕は貫之の方だ。正当性は黒枝家にある。どうしても欲しいのなら力づくで奪い返せ、それが武士の習いよと黒枝家の家人は刀を抜いて貫之の前に立ちふさがった。多勢に無勢だ。貫之に勝ち目はない。だが、貫之は臆しなかった。無謀にも黒枝家の家人に襲いかかった」

 幹江さんは両手を動かして、斬り合いの様子を再現して見せてくれた。

「無数の手傷を負いながら、貫之は気力を振り絞って戦い続けた。一人、二人と黒枝家の家人を斬り伏せ、ついに蛍を幽閉する奥の居間にたどり着いた。襖を開くと、同喜が立っていた。貫之の前に仁王立ちになる。同喜の後ろには蛍の姿が見える。蛍――! 貫之様!! お互いの名前を呼び合う声が黒枝家に響いた」

 蛍と貫之はどうなってしまうのか⁉

「同喜が振り下ろす剣先を交わして、貫之は蛍に駆け寄った。抱き合う二人。だが、その隙を同喜は見逃さなかった。無情にも、貫之の背を同喜の太刀が一閃した。貫之は蛍を抱きしめたまま、背中を袈裟懸けに斬り下ろされ、どうと崩れ落ちた。蛍が崩れ落ちる貫之の体を抱きとめる。とどめを刺そうと、同喜が貫之に近づいた。蛍は貫之の脇差を抜いて同喜に刃を向けた。

 近寄れば刺します!蛍が叫ぶ。蛍に抱きかかえられたまま、貫之は血の泡を吹いた。やがて、ほ・た・る・・・と呼ぶと息絶えた。貫之は蛍の腕の中で重さを増して行った。この世で一緒になれなければ、あの世で一緒になろう!そう誓い合った仲だ。蛍は同喜に向けた刃を自分に向けると、貫之様――! と叫び、喉元に突き立てた」

 やはり待っていたのは悲しい結末だった。

「こうして、加志崎の蛍と参の屋の貫之はこの世では一緒になれなかった。加志崎はうちの本家筋だ。子供の頃はよく蛍姫の悲しい恋物語を聞かされたものだ。何の因果か黒枝の家に嫁いで来て、同喜も我が家の先祖となった。村の年寄は誠に詮無きことをしたものだ。同喜も村の年寄に踊らされただけかもしれない。加志崎の家も参の屋も、いまはないが、二人の悲しい話はこうして村の語り草になっている」幹江さんは長い話を終えた。

 最初は、老婆の世迷言と聞き流していたが、聞いている内に引き込まれた。隈井さんも同様のようだ。

「七軒屋版のロミオとジュリエットですね」

 思わず感想が口を吐いて出た。

 隈井さんは無言で腕を組んでいる。話に感動したのか、はたまた時間の無駄だったと思っているのか、端正な横顔から伺い知ることはできなかった。

「加志崎は馬廻り、田口は参の屋。所詮は身分違いの恋だった。宗家絶えなば、壱の屋が継ぎ、壱の屋絶えなば、弐の屋が継ぐ。弐の屋絶えなば、参の屋が継ぎ、参の屋絶えなば分け取りにせよ。そういう掟があるくらいだ」

――面白いね。足利将軍家にも、御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐと言うのがあったそうだ。きっとそれを真似たんだろう。

 日中はおとなしくしている広大君がそう漏らした。きっと蛍と貫之の悲恋話を聞いて、感じるところがあったのだろう。

 恋物語の後は、亡き夫、黒枝裕紀さんと一人息子の大紀君の話になった。突然の来訪者は一人暮らしの老婆の格好の話し相手になったようだ。

「わしは爺さんのことがあまり好きではなかった」

 幹江さんはそう言うと歯のない口を開けて「ひっひっひ」と笑った。七軒屋では血の濃い薄いが婚姻の目安となり、若者たちの婚姻は、村の年寄りが寄り集まって決めた。幹江さんはそうやって配偶者を決められた最後の世代だった。

 旦那さんのことは当然、子供の頃から知っていた。年頃になり、親から結婚相手が黒枝裕紀さんだと聞かされた時、正直、嫌だと思ったそうだ。

「爺さんは大人しいだけの男で頼りなく感じた。村の年寄りの決定に、絶対的な力なんてなくなっていた時代だ。結婚が嫌なら、村を出て自分で結婚相手を探せば良かった。だけど、親を置いて村を出て行くなんて出来なかった。学校の成績も平凡なら、容姿も普通、そんなわしには村を出て行く勇気がなかった。親を置いて村を出て行けないと自分に言い聞かせて、結婚を承諾した」

「それでも、一緒に暮らせば情が移ると言いますからね」と言うと、幹江さんは「うんにゃ」と首を振ってから、「爺さんは結婚前に思った通りの人だった」と断言した。

「優しいだけが取り柄の男だった。やがて大紀が生まれた」

 平穏で平凡な毎日が黒枝家の上をゆっくりと流れていったのだろう。

「大紀は長じると田舎暮らしを嫌がって都会に働きに出た。都会への憧れが強かった子だった。職を変えながら町から町へと移り住み、最後には東京に出て働き始めた。あの頃が大紀の短い生涯の絶頂期だったかもしれん。お袋、今度は東京で働く。親父とお袋もその内、遊びに来てくれ。大紀から電話でそう言われたことがある。東京なんて、そんな恐ろしいとこ、行きたくないと断ってしまった。一度くらい大紀の顔を見に東京に行っても良かった。折角、ああ言ってくれたのにと、今でも後悔している。

 大紀は休みの日に、会社で仕事をしていて、トイレの窓から飛び降りて死んだ。毎日、早朝から深夜まで働きづくめだったようだ。名の通った会社だったが、劣悪な環境で労働を強いる悪質な職場だった。仕事が遅い。田舎者は使えないと上司や先輩から罵詈雑言を浴びながら、毎日、薄氷を踏む思いで仕事を続けていた。休日出勤をして仕事をしている時に、魔がさしたのだろう。突発的な飛び降り自殺だと判断された。労災が認定され、まとまった金が会社から支払われた。大紀のお陰で、一生、食うには困らん」

 幹江さんの言葉には、深い悲しみが含まれていた。


 また電話だ。父からの電話かと思ったら、母からだった。

「昴君。ちゃんと食事している? 洗濯物、ためていない? 忙しくて、洗濯や掃除をする暇なんて無いんじゃない? お母さん、行ってやってあげようか?」

「洗濯も掃除もちゃんとやっているよ。来なくて大丈夫。大体、お母さんがこっちに来たら、誰がお父さんの面倒を見るんだい?」

 どうせ父を置いて来やしない。相変わらず口うるさい。ひとしきり小言を聞いてから、「じゃあね」と電話を切ろうとした。すると、最後に母が妙なことを言った。

「良い。母さん、警察のことは分からないけど、困ったら隈井さんに相談するのよ」

 言っていること自体、おかしなところはない。だけど、僕の相棒の名前が隈井さんだと言うことは、母に言った記憶がないのだ。どういうことだ?

――お母さんもお父さんも昴君のことを、ちゃんと見ているってことだよ。

 広大君が答える。ちゃんと見ている?

――分からなければ良いよ。それより、隈井さん、今日は変だったね。

 変だった? 何処が?

――君があんなこと聞いたのに、何も言わなかったからさ。

 あんなことって何だよ。

――水が綺麗だから蛍がいるんじゃないか、なんて事件に何の関係があるんだい? 黒枝さんから、おとぎ話を延々と聞かされて、隈井さん、何も言わなかったなんて変だよ。

 悪かったね。蛍と貫之の話を聞いて、何も思わなかったの? 隈井さんだって黒枝さんの昔話に聞き入っていたよ。

――だから変だって言っているのさ。普段だったら、さっさと話題を変えていただろうから。まあ、あの話、面白かったよ。クマゼコといい何かと秘密の多い村だね。

 そう言われればそうかもしれない。何時もの隈井さんだったら、事件に関係のないおとぎ話に聞き入ったりしないだろう。どうしたんだろう? と広大君に聞くと、

――分からない。想像はつくけど、他人のプライバシーに立ち入りたくないから、教えてあげないよ。君に言うと、直ぐに隈井さんに口走ってしまうから。

 ひどいな、と思ったものの、広大君の言う通りだ。僕は口が軽い。うかつなことは、聞かないでおいた方が良い。


 翌日、中津署から、橋内豊に関する身上調査結果が届いた。彼が語った近況は、隈井さん曰く、嘘八百だったようだ。

「嘘八百ですか?」

「新しい伴侶を見つけて、うまく行っているみたいなことを言っていただろう。確かに、八年前に結婚して子供が一人できたが、五年前に離婚している。子供の親権は母親が持っていて、現在は一人暮らしだ」

「そうだったのですか・・・まあ、嘘をついたと言うより、見栄を張っただけかもしれませんよ」

「そうだな。見栄八百と言った方が良いかもしれないな。だが、我々、警察を欺いたことには違いない。中津署の捜査員が塩市拓谷のDNAを採取できそうなものがないかと家を訪ねた。幸い、塩市拓谷が遊びに来て泊まった時に使った歯ブラシと剃刀があった。その後で、近所を聞き込んで回った」

 橋内家は日豊本線と国道二十三号線に挟まれた場所にあり、民家が隣接していたが、庭付きの一戸建てだった。隣家の主婦が在宅していて、主婦が言うには、五年ほど前、橋内の妻が突然、やって来た。そして、「夫と離婚して実家に戻ることになりました。今まで色々お世話になりました」と挨拶をして、娘を連れて家を出て行ったと言った。

「橋内さん、近所のスーパーに勤めていたんですけどね。不景気でスーパーをクビになったみたいですよ。よく知りませんが、失業保険だか生活保護だとかを受けて、それで生きているんじゃないですか」と橋内が無職であることを教えてくれた。

「生活に困って自暴自棄になっていた可能性がある」

「実の息子のように可愛がっていた塩市拓谷さんを殺され、橋内さんが復讐をしたと考えることができますね?」

 隈井さんの目の前で、容疑者リストに橋内豊の名前を加えた。


 容疑者リスト

● クマゼコ~妖怪?殺害方法がクマゼコの特徴と一致。五本爪。

● 芦刈喜則~七軒屋住人。第一発見者。消去法で最有力容疑者。

● 首藤医師~遺体を自分に偽装して失踪。殺害の動機不明。

× 塩市拓谷~入田、服部、首藤に恨みがある。行方不明。

● 田口公正~元七軒屋住人、行方不明。塩市拓谷と接触?

● 橋内豊~塩市拓谷の育ての親。拓谷を殺され、復讐?


「塩市拓谷が殺されたことをどうやって知ったのか、など、橋内豊が犯人だとすると、色々、解明しなければならない謎が出てくるな。だが、容疑者リストに加えておいた方が良い」

「田口公正については調べが進んでいるのでしょうか?」

 こちらも中津署で捜査を進めていた。住民票は七軒屋のままだ。七軒屋を離れてから、中津にいるらしいが、どこで何をしているのか、分かっていなかった。

 そこで、突然、「隈井君~!」と隈井さんが係長に呼ばれた。

「はい」と隈井さんが係長のデスクに走って行く。隈井さんが席を空けると直ぐに、受付から「隈井さんに来客です」と連絡があった。

「分かりました」取りあえず僕が下りて行くことにした。

――容疑者となり得る人物なんて、最初は芦刈さんくらいしかいなかったのに、随分と容疑者リストが増えたね。

「捜査が進むに連れて容疑者が増えて行っているんだから仕方ないよ」

――これからだって、まだ容疑者が増えるかもしれないよ。

「止めてくれ。もう十分だ。勘弁してくれ」

 困ったことに、広大君の予言はよく当たる。

 ロビーに降りた。あちらの方ですと、受付の府警から教えられた先に若い女性が立っていた。二十代後半だろう。僕より年上に見えた。細くてスタイルが良い。痩せ過ぎで頬がこけている。もう少し丸美がある方が良い。赤茶けた髪、大きな目、派手さはあるが美人だ。

「あの~隈井さんは今、係長と話をしています。僕でよろしければ、代わりに話をお伺いいたします」と声を掛けると、女性は大きな目を更に見開いて、「結構です!」と声を荒げた。

 女性の剣幕に驚いた。

「では、こちらへ。隈井さん、直ぐに終わると思いますので」

 女性をロビーの隅にあるミーティングコーナーに案内して一課へ戻ることにした。途中、階段で隈井さんとすれ違ったので、女性をミーティングコーナーに案内しておいたことを伝えた。

「ありがとう」隈井さんは言葉少なだった。

――隈井さんって、確か、彼女、いたよね?

「他人のプライバシーに立ち入ってはダメだよ」

 隈井さんには彼女がいた。大学のゼミの後輩で、学生時代からの付き合いだ。刑事になって忙しさから会えない時期が続き、一度は分かれたが、数年前に再会し、また付き合い始めたという話を隈井さんから聞かされたことがある。確か奈緒さんという名前で、隈井さんと一緒のところを、何度か見たことがある。

 三十分ほどして隈井さんが戻って来た。

「誰ですか?」と聞きたかったが、我慢した。

「係長の指示だ。七軒屋に向かうぞ」と隈井さんが言う。

 僕らは再び七軒屋を目指した。

 車に乗り込んでから、しばらく沈黙が続いたが、隈井さんから「妹だ。奈緒の――」と話し始めた。奈緒さんに、あんなに奇麗な妹さんがいたとは知らなかった。

「参った」

 珍しい、隈井さんがプライベートを話題にしたがっている。聞いてもらいたいのだ。

「何かあったのですか?」

 隈井さんの誘いに乗った。

「彼女を抱いた」と隈井さんはドキっとする台詞を口にした。

「えっ⁉ 彼女って、妹さんを・・・ですか?」

「そうだ。修羅場だ」

「彼女は知っているのですか?」

「さあな。美緒が言ったかもしれない」

 妹さんは美緒さんと言う名前らしい。

「でも、どうして?」奈緒さんを裏切るようなことをしたのだろう。正義感の強い隈井さんらしくない。

「薄々、あの子の気持ちには気がついていた」

 美緒さんは奈緒さんの三つ下だと言う。隈井さんが奈緒さんと付き合い始めた時には、まだ高校生だったことになる。その少女も何時の間にか三十路間近、隈井さんは奈緒さんとの再会により美緒さんとも再会することになった。

「あなたのことが好きなのと、夜中に突然、アパートを訪ねて来た」

 自慢で言っている訳ではない。表情が苦しそうだ。

「彼女の気持ちに気がついていなかったかというと嘘になる。彼女の視線の激しさに、思わず奈緒の顔色を伺ったことがあった。仲の良くない姉妹。そう聞かされていた。子供の頃から、彼女はお姉さんのものを何でも欲しがったそうだ。彼女が俺に向ける熱い視線は、お姉さんのものを欲しがる子供っぽい心理なのだと思っていた」

 随分、生々しい告白だ。だが、僕に聞いてもらいたくて喋っているのだ。黙って隈井さんの話に耳を傾けることにした。

「あの日は小雨が降る寒い夜だった。突然、美緒がアパートを訪ねて来た。俺のアパートを知っていたことが意外だった。流石に部屋に上げるのはまずいと思った。だけど、小雨の降りしきる中、傘もささずに訪ねて来たようで、彼女の髪がしっとりと濡れていた。そのまま追い返す訳にも行かず、部屋に上げてしまった。彼女は小刻みに震えていた。このままじゃあ、風邪をひくと、バスタオルで彼女の濡れた髪を拭いた。すると突然・・・俺のことを・・・好きだと言って・・・・」

 隈井さんが口をつぐんだ。後のことは想像がつく。だけど、こういうことに疎い僕は何と言ったら言いのか分からずに、ただ黙っているしかなかった。

 僕の沈黙を無言の圧力だと感じたのか、隈井さんがあきらめたように口を開く。「彼女が抱き着いてきた。小雨のそぼ降る夜は、人恋しくなってしまう。俺は・・・俺は衝動に押し流されるようにして、彼女を抱き締めてしまった。俺たちは一線を越えてしまった。

 俺たちの関係の変化を奈緒が感じ取っているような気がする。もともと大人しくて感情を滅多に表に現さなかった奈緒が、最近、俺の前でよく笑い、よく怒り、よく泣く。貴方と一緒になれないなら、死んでやる。そう言われたこともある。美緒からも、会いたいというメールが頻繁に届くようになった。俺は・・・どうしたらよいのか分からない。全て、身から出た錆だということくらい自分でも分かっている。自業自得だ。だが、俺には奈緒と美緒のどちらかを選ぶことなどできない。我ながら優柔不断だと思う。だが、どちらかを選ぶということは、どちらかを捨てるということだ。どちらかを傷つけてしまう。そんなことしたくない。でも今のままだと、どちらかが暴発してしまいそうで怖いのだ」

 隈井さんが苦しそうに呟いた。追い込まれているようだ。正直、僕には隈井さんの苦しみは理解できない。だけど、隈井さんが僕なんかに、こうして苦しい胸の内を打ち明けてくれている。そのことが嬉しかった。

 黒枝さんの昔話を聞き入っていたのは、そういう事情があったのだ。何処か、今の心情に合致するところがあったのだろう。

 だが、広大君は手厳しい。

――隈井さんは身勝手だよ。誰も選ばないということは、誰も幸せになれないってことだ。

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