あなたのせい

 捜査は難航していた。

 何せ犯行現場は町から遠い。山奥の山村だ。中津署と七軒屋を車で往復するだけで、優に二時間はかかってしまう。時間を節約する為に、鑑識官は現地で四十八時間、不眠不休で作業を続けた。車の中で仮眠を取り、証拠をかき集めると県警に戻った。初動捜査が大事だ。無理をするしかなかった。

 捜査員は連日、県警と中津署から車を飛ばして七軒屋にやって来ている。途中、曲がりくねった山道があり、スピードを出すことができない。移動だけで骨の折れる仕事だった。

 捜査本部は遺体の状態に注目した。

 先ず、診療所の診察室で発見された服部順治の遺体だ。部屋中に被害者のものと思われる飛沫血痕が飛び散っていた。

 検死結果待ちだったが、死因は刃物のようなもので、複数個所、切り付けられたことによる失血死であると見られている。だが、傷痕が妙だった。服部の体には、二十箇所を超える傷痕があったが、五本の傷痕が一組になっていた。刃先が五つに分かれた凶器が使用されたのではないかというのが鑑識の見解だった。

 入田家に残されていたふたつの遺体にも、同じ傷跡がついていた。傷の間隔や形状が一致しており、同一凶器による犯行であると判断された。

 診療所には無数の指紋が残されていた。その指紋をひとつひとつ、村の住人から採取した指紋と照合した結果、いくつか、身元不明の指紋が発見されている。村を訪れた関係者や故人、既に村を離れてしまった過去の住人の指紋と照合作業を行う必要があった。気の遠くなる作業だった。

 僕らは今日も七軒屋へと向かっていた。

――ねえ。昨日、見つけたブログのこと、隈井さんに教えてあげなよ。

 広大君が話しかけて来た。

「ブログのこと?」

 しまった。思わず声に出てしまった。案の定、ハンドルを握る隈井さんが、「ブログがどうした?」と聞いて来た。

 ブログの話をするしかない。「昨晩、ネットで七軒屋を検索していて、面白いブログを見つけました」

 だが僕は、ブログを読んでいない。

――そうそう。僕の言う通り、説明しな。

「随分、仕事熱心だな。で、どういう内容だった?何か役立ちそうなことが書かれていたか?」

「はい。七軒屋の悪魔というブログで、例のクマゼコについての解説がありました。どうやら七軒屋出身者が書いたブログのようでした」と僕は広大君の言葉をオウム返しに繰り返すことで、ブログの内容を説明した。

 ブログには七軒屋の起源から記されてあった。

 ブログ主によれば、七軒屋の起源は戦国時代に遡ると言う。豊後を支配した武将、大友宗麟こと大友義鎮が家督を相続する際、大友家内部で「二階崩れの変」という内紛が発生した。この内紛が七軒屋を誕生させたと言うのだ。

 義鎮の父、義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと考え、嫡男、義鎮の廃嫡を企んだ。天文十九年(一五五○年)二月、義鑑は息子の義鎮を湯治に行かせると、その間に義鎮派の粛清を行おうとした。だが、これを察知した義鎮派は先手を打って謀反を起こし、逆に城主、義鑑の居城、大友館を急襲した。義鎮派は館の二階にいた塩市丸とその母を殺害した。義鑑はこの襲撃で深手を負っている。

 湯治の湯から戻った義鎮は瀕死の父、義鑑に迫り、大友家の家督を相続した。家督を義鎮に譲った後、義鑑はほどなくして死去した。これを「二階崩れの変」と言う。

 ところが、七軒屋に伝わる言い伝えによれば、塩市丸は義鎮派の凶刃を逃れ、配下の六人の武将と共に、豊後の山深く落ち延びたと言う。やがて耶馬溪の渓谷深く、人も通わぬ山中に七軒の庵を結び、七軒屋の祖となった。

 七軒屋の宗家を「塩市氏」と言い、塩市丸の後継であると称した。

 塩市氏を支える側近として入田氏、服部氏、田口氏の三家があり、それぞれ「壱の屋」、「弐の屋」、「参の屋」と呼ばれた。発音が同じことから「家」を弓矢の「矢」に例えたものだろう。毛利元就で有名な「三本の矢」と同様の教えが背景にある。

 入田氏、服部氏、田口氏の三家は結束して宗家である塩市氏を庇護し、大友宗麟の追討軍から守り抜くことを誓った。

 三家の他に「馬廻」、「桶屋」、「鍛冶屋」の三家があり、村は宗家を合わせたこの七世帯から始まった。このことより、村は七軒屋と呼ばれるようになった。

 ハンドル・ネーム「塩市丸」を名乗るブログ主は七軒屋に伝わる伝承を一通り紹介した後、「塩市丸が二階崩れの変で殺害されたことは史実だ」、「塩市丸が生きていたという話は信用がおけない」というコメントに対して、塩市丸起源説を「確かに史実と反する」と肯定しつつ、「推測するに、七軒屋の最初の住人は関が原の戦いで西軍にくみし、滅亡した大友氏の遺臣ではなかったか」と言い、「戦後、落ち武者として山中に逃れて定住し、塩市丸の子孫を名乗ったものと思われる」と自説を述べている。

 そして、ブログ読者の「江戸期に年貢の重税に耐えかねた農民が、山中に逃れ、七軒屋の始祖となったのではないか?」というコメントに対しては、「あなたは何も分かっていない。村には先祖が武士であったことを示す確実な証拠が存在している」と厳しい口調で反論している。だが、確実な証拠とは何なのか、明らかにされていなかった。

 ブログにはクマゼコに関する民間伝承が記事として載せられていた。

 クマゼコは、体は熊で顔は猿の妖怪で、夜中にやって来ては畑を荒らし、子供をさらって、油を取るといわれている。更に、怒らせると熊手のような五本の爪で襲いかかって来て、体を引き裂き、頭からまるごと齧られるという。

 ブログ主、塩市丸はクマゼコの妖怪伝説を紹介した後、「七軒屋の住人こそが悪魔の正体である」と断じている。

「何故、七軒屋の住人が悪魔なのか?」というコメントが残されていたが、塩市丸はその問いに対して答えていない。人里離れた僻遠の地にある七軒屋の住人が時折、人里に現れては畑を荒らし、子供を誘拐していたということなのかもしれない。

 説明が終わると、隈井さんは「屋号がひとつ足りない謎が解けたな」と言った。

 そうだ。七軒屋なのに屋号がひとつ足りないことが不思議だった。自分で説明していて、そのことに気がついていなかった。ダメだ。ダメだ。広大君の受け売りだと、知識として身に着いていない。七軒屋には宗家と呼ばれた塩市家があったのだ。

 塩市家はどうなったのだろう?

「ふむ」と隈井さんが考え込む。

――隈井さん、何か悩みがあるみたいだね。

「悩み。そうかい?そんな風には見えないけど」

 大丈夫だ。今度は声を出さなかった。頭の中で考えただけだ。

――毎日、一緒にいて気がついていないのかい?無神経だな。こんな大事件なのに、隈井さん、考え込んでいることが多い。

「それは事件のことを考えているからだよ。滅多にない大事件だからね。隈井さんは優秀な刑事だから、色々、推理しているのさ」

――そうかもしれないね。

 広大君はあっさり、自説を取り下げた。彼は決して、僕と争ったりしない。

 長い沈黙の後で、隈井さんがぽつりと言った。「ブログの管理者が誰なのか、調べてみる必要があるな」


 時間が止まっているのかと思った。

 七軒屋は昨日、訪れた時のまま、何一つ変わっていないように見えた。蒸し暑い季節だが、まるで天然のクーラーが効いているかのような涼しさだ。頭上を流れる雲が時折、村に陰を落として行く。青空から降り注ぐ陽光がきらきらと輝いて見えた。

 診療所の前に車を停める。立ち番の警官は三苫巡査部長とは違う人だった。今朝がた、交代したのだろう。

 畑で作業をする芦刈喜則さんの姿が見えた。梅雨の合間で、晴天が続いている。絶好の作業日和だ。

「丁度良い。芦刈さんから話を聞いてみよう」隈井さんが言う。

「隈井さんは、芦刈さんが犯人だと思っているのですか?」

 何故かそんな気がした。

「何故、芦刈さんが犯人だと思うんだ?」

「村の男が三人、殺されて、後に残ったのは余所者の恵良家を除けば、芦刈さん以外、みんなお婆ちゃんです。あの殺し方はお婆ちゃんには無理でしょう。消去法で芦刈さんが犯人だということになりませんか? 村の人だし、三人に対し、恨みを抱いていたとしても不思議ではありません。過疎化の村で、これだけ関係者が少ないと、犯人は限られてきます」

「なるほど。だが、余所者が犯人の可能性だってあるぞ」

「えっ!? 恵良さんが犯人なのですか?」

「そうは言っていない。三人に、恨みを持っている人間が村にやって来て、犯行に及んだ可能性があるということだ。それに凶器の問題がある」

 遺体は五本爪の凶器により殺害されたことが分かっている。凶器は見つかっていないし、それが何なのか特定できていない。クマゼコという五本爪を持った妖怪でもいない限り、そんな変わった形状の凶器が存在するとは思えなかった。

「やっぱり妖怪の仕業なのでしょうか?」

「馬鹿なことを言うな」

 鑑識よると、五本の爪痕は等間隔で爪先の形状が同じであること、更に傷跡より生物由来の細菌が見つからなかったことより、生物によりつけられた傷跡ではないという見解だった。

 クマゼコ犯人説は否定された形となっている。

「凶器は人の手により準備されたものだ。例えば包丁を五本、並べたようなものが凶器なのかもしれない」

「そんな手の込んだ凶器をわざわざ作ったのでしょうか?」

「そうだろうな?」

「何故、そんなものを使って殺害したのでしょうか?」

「それは――」と言いかけて、隈井さんは言葉を飲み込んだ。

 隈井さんに代わって、広大君が教えてくれた。

――クマゼコの仕業に見せかけたかったのだろうな。何とも幼稚な発想だ。犯人はこの村の事情に詳しい人物だということになる。

「五本爪の傷跡とかけて、梅雨入りと解く」と隈井さんが妙なことを言い出した。

「えっ⁉」と思わず聞き直す。

「今日から雨季、きょう、うき、凶器」

 謎かけだ。無口で真面目な人だが、時折、ひょうきんなところを見せる。「ああ、なるほど~!」と大げさに感心してみせると、僕の反応に白けてしまったようで、「芦刈さんから話を聞いてみよう」と歩き出した。

 慌てて後を追う。

「やあ、芦刈さん。精が出ますね」

「刑事さんたちか。ご苦労様。早くクマゼコを捕まえてくれ」

 芦刈さんは摘粒作業の手を休めると、大きく背伸びをして腰を伸ばした。

「クマゼコのことはさておき、五本の刃を持った農具のようなものはありませんか?」

「あんな惨いことをするなんて、とても人間業とは思えん。あれはクマゼコの仕業だ。クマゼコの手は人間と一緒で、五本指だ」

「クマゼコの仕業だとすると、何故、服部さんや入田さんたちを襲ったのでしょうね?」

「それは・・・食べるためよ」

「頭部が損傷していた遺体はひとつだけでした。ああいう生き物は必要以上の無用な殺生はしないのではないですか?食べもしないのに、人を襲うことはないように思います」

「まあ、そうだな・・・五本の刃をもった農具ねえ~」芦刈さんが考え込む。

「参考までに、お宅の農具とか、見せてもらえませんか?」

「うちにたんまり農具がある。探してみたら良い。五本爪の農具なんてないと思う。他に・・・刑事さんたちが見て面白いものなんてない。親父が生きている頃は、河童のミイラがあったんだけど、親父が亡くなった後、気味が悪いとお袋が言うので捨ててしまった。はは」

 言葉巧みに家宅捜索を了承させてしまった。芦刈さんは自分が疑われているとは微塵も覆っていないようだ。善良な村人を欺いているような気がしてちくりと心が痛んだ。

 芦刈さんの案内で芦刈家を目指す。

「お一人で畑仕事は大変でしょう」

「なあに、もう慣れた。うちの母ちゃんに先立たれてしまってからは、ずっと一人だ。ここの他に、ぶどう畑もやっている。貧乏暇なしだ」

 平地の少ない七軒屋で、芦刈さんは山の斜面を利用してぶどうの栽培を行っている。祖父の代にぶどう畑を開墾し、芦刈さんで三代目となる。

「奥様はこの村の人ですか?」

 隈井さんは芦刈さんの家族構成を聞き出そうとしているようだ。

「いいや。母ちゃんは村の人間ではなかった。もともと、田舎臭いことが嫌いで、この村が嫌だった。高校を卒業すると同時に村を離れ、北九州の大学に通った。大学を卒業すると村には戻らず、北九州で就職した。一人っ子だったが、親父は何も言わなかった。今のわし同様、ぶどう畑は自分の代で終わりだと決めていたのだろう。会社の同僚だった母ちゃんと結婚して所帯を持った。姉さん女房だったけど、気立ての良さが内から滲み出て来るような女だった」

「何故、村に戻ったのです?」

「長男が生まれて間もない頃、親父が倒れてな。脳梗塞だった。中津の病院に緊急搬送された。幸い、一命はとり止めたが右足に麻痺が残った。母ちゃんと一緒に親父を見舞った時、暫く、北九州で一緒に暮らさないかと親父に伝えた。狭いアパート暮らしで、子供も生まれたばかりだったが、何とかなると思った。内心どう思っていたのか分からないが、母ちゃんも、大丈夫、きっと何とかなると言ってくれた。良い嫁をもらったと心底、嬉しかった。ところが親父は、北九州になんぞ、行かん!とにべもなく断りよった」

「はあ・・・」

 よく喋る。日頃、話し相手がいないからだろう。寂しいのだ。隈井さんは辛抱強く、芦刈さんの話に耳を傾けていた。

「爺様が苦労して始めたぶどう畑を捨てる訳にはいかんと、そう言って同居を嫌がった。別にずっと一緒に暮らそうと言っている訳じゃない。親父も体の自由が利かなくなって大変だ。お袋だって、親父の面倒を見なければならなくなる。元気になれば、村に戻って、ぶどう畑でも何でも、好きなことをやれば良い。そう言ったんだが、聞かなくてな。しまいには、あの村以外では生きられない。この年で、都会で暮らすなんて無理だ。わしは七軒屋で生まれ、そして土に返って行くだけだ。あそこがわしの生きる場所だ。村から引き離さないでくれと言って、泣かれた。親父に泣かれては、もう何も言えなかった」

「それで村に戻ったのですね」

「病院からの帰り道、車の中で母ちゃんが言った。お義父さんが北九州に来ることができないなら、私たちが行くしかないわね。あなた、七軒屋に戻りましょう。大丈夫、きっと何とかなる。田舎でぶどう畑を営むのも悪くないかもしれないってね。

 大丈夫、何とかなるは母ちゃんの口癖だった。正直、村に戻ることなど、露ほども考えていなかった。わしも悩んだ。紆余曲折はあったが、七軒屋に戻った。親父もお袋も、喜んでくれた。ぶどう畑を継ぐと言った時、親父はそうか、そうかと言って、また泣いた」

「良い奥様だったのですね」

「わしには勿体ない女だった。母ちゃんは三人姉妹の末っ子でな。三人も母親がいたようなものだ。甘やかされて育ったと言っていた。結婚するまで世間知らずのお嬢さんだった。そんな女が山奥で、夫の両親と同居しながら、ぶどうを栽培しながら暮らした。苦労をかけた。悪いな、こんなところに連れて来てしまってと言って詫びると、母ちゃんは何時も言っていた。そうよ。み~んな、あなたのせい。あなたのせいなんだから。責任を取って、一生、面倒を見てねってね。ははは」

 芦刈さんの目に光るものが見えた。

「お子様はお一人で?」

「娘が一人、息子が一人。二人共、田舎暮らしに興味がないようで、村を出て行ってしまった。まあ、それで良いと思っている。長男は熊本に、長女は大分に住んでいる」

 芦刈さんの家についた。

「ここだよ」と案内してくれたのは、車庫だった。

 芦刈さんは軽トラックを所有している。車庫には軽トラックと農具がところ狭しと置かれてあった。

「好きなだけ探してみると良い。おう、これなんて五本並べると、五本爪に見えなくもないな」

 芦刈さんは手にした鎌を隈井さんに見せた。「生憎、鎌は一本しかないが・・・ああ、そうだ。もう一本あった」そう言いながら、車庫の隅から古びた鎌を引っ張り出してきた。これが演技なら大した役者だ。

 一通り車庫の中を見たが、凶器らしきものは発見できなかった。

「他にありませんかね? おうちの中とか――」

 おや。令状も無しに、自宅の捜索までやるつもりだ。

「うちの中かい・・・包丁くらいあるが、五本もないぞ。それに、包丁じゃ、五本並べてもあんな傷にはならんだろう。ああ、あの晩のことを思い出してしまった。おう、お茶の一杯も出さずに、悪いことをした。折角、来たんだから、あがっていきな」

 芦刈が人懐っこい笑顔を向けた。心が痛む。

「お邪魔します」

 仏壇のある応接間に通された。

「ちょっと待っていてくれ」と言って、芦刈さんが台所に消えた。お茶を煎れに行ったのだ。

「芦刈さ~ん! お部屋の中、勝手に見て回りますよ~」

 隈井さんが台所に向かって叫ぶ。聞き取れなかったのか、台所から「ああ~?」と返事が返って来た。

 やがて、芦刈さんが茶碗を三つ盆に載せて戻って来ると、「気の済むまで見て回ってくれ。その方がわしも助かる。順さんたちを殺した犯人だと疑われるのは、たまらんからな」と言った。

 こちらの意図など、お見通しだった。頭ははっきりしている。

「それじゃあ、遠慮なく」と隈井さんが部屋の中を見て回り始めた。

 必然、僕が芦刈さんの話し相手となった。

「刑事さん、順さんたちを殺したやつを見つけてくれ。あれがクマゼコの仕業なら、由紀さんもあきらめがつくだろう。人の仕業となると、何で、順さんが殺されなきゃならなかったのか、由紀さんは知りたがるだろう。わしもだ」

「全力を尽くします。ところで芦刈さん、殺された三人に恨みを持っていた人物に心当たりはありませんか?」

「恨み?藪医者の首藤先生と偏屈者の孝道さんはともかく、順さんは良い人だ。人から恨まれることなんてなかった。だから、わたしは、クマゼコの仕業だと思っている。化け物なら順さんが良い人だと分からないからな」

「今のお話だと、首藤医師と入田さんは誰かの恨みを買っていたのですか?」

――おっ、良いところを突くじゃない。

 広大君がひやかす。うるさい!と頭の中で怒鳴った。

「はは、言葉のあやだよ。首藤先生は藪医者だったし、身勝手な性格だったから、患者の恨みを買うことがあったかもしれない。孝道さんは人付き合いの悪い人だったから、誤解されることがあっただろう。それでも、二人共、殺されるほど憎まれていたとは思えない」

「首藤医師にご家族はいなかったのですか?」

「いないはずだ。大昔には村のおなごと良い仲になったことがあるが、ずっと一人だった」

「入田さんはいかがです?奥さんを亡くされたばかりだとお聞きしました」

「ああ、由香里さんは旦那と違って愛想の良い人だった。子供はおらんかったが、入田は再婚で、前の奥さんとの間に女の子が一人いた」

「前の奥さんは事件のことを知っているのでしょうか?」

「さあ、どうだろう。孝道さん、由香里さんと結婚する時に、前の奥さんと子供を家から追い出してしまったからなあ~今、どこで何をしているのやら。誰も知らない。ひょっとしたら、孝道さん自身も知らなかったんじゃないかな」

「そうですか。服部さんのご家族は?奥さんがいることは分かっていますが――」

「順さんとこには順一郎君と言う一人息子がいる。今は・・・たしか・・・博多で働いているはずだ。仕事が忙しいみたいで、なかなか村に帰って来ない。由紀ちゃん、ちゃんと連絡を取っているのかな」

「それじゃあ、黒枝さんは? お一人で暮らしているようですが、ご家族はいらっしゃらないのですか?」

「幹江さんかい」途端に芦刈さんは気の毒そうな顔をした。

「まったく、気の毒な話だ。昔はな、加志崎という家が村にあって、馬廻と呼ばれていた。分家と合わせて、結構な人が住んでいたんだが、加志崎の先代が亡くなった頃から、一族で村を捨てるもんが相次いでな。あっという間に、誰もおらんようになってしまった。

 まあ、加志崎のもんに限ったことじゃない。とにかく、加志崎のもんは、あんま畑を持っていなかったからな。よその畑の手伝いをしたり、豚を飼ったりして、しのいでおった。戦後、一時期、豚は良かったんだが、オイルショックの頃から値段が下がり出してな。加志崎のもんは生活に困るようになってしまった。食べて行けなくなって、村を捨てたって訳だ。幹江さんは加志崎の分家から黒枝に嫁いで来た。裕紀さんと一緒になってから、実家が無くなってしまって帰る場所がなくなってしまった」

「夫婦仲が悪かったのでしょうか?」

「裕紀さんは無口なお人だった。ちょっと癖があったが、悪い人ではなかった。夫婦仲は悪くはなかったと思う」

「旦那さんは確か・・・」

「ああ。あの年はイノシシが仰山、山に出て畑を荒し回っていた。こりゃあ、どうにかせにゃならんという話になって、裕紀さんと公正さんが駆除に当たった。それがあんなことになってしまった」

「猟銃の誤射事件ですね」

 隈井さんが担当した事件だ。

「公正さんも可哀想だった。裕紀さんを撃ち殺してしまってから、夫婦仲がぎくしゃくし始めて、あっちゃんは、子供たちを連れて、家を出て行ってしまった」

「あっちゃん?」

「ああ、奥さんの敦子さんのことだ。あっちゃんと息子さんたちが出て行ってしまってから、公正さん、村に居づらくなってしまったのだろうなあ~色々、言うやからがいたからな。ある日、突然、村から姿を消してしまった。なんもかんも残して、突然、いなくなった。何時またひょっこりと戻って来るか分からないから、屋敷だけは管理してやっている」

「奥さんやお子さんたち、今は中津にいるそうですね?」

 隈井さんが中津で長男と会ったと言っていた。

「そうらしいな。村のもんは町に出ても、うまくやって行けないものが多いから、あっちゃんたちも苦労しているだろう」

「それで、黒枝さんは夫婦に、お子さんはいらっしゃらないのですか?」

「子供。おったよ。大紀君だ。裕紀さんが亡くなったのは、大紀君の事件の後だったから、幹江さんの悲しみようは、そりゃあ、端で見ておれんほどだった」

「大紀君の事件?」

 まだ何かある。これは隈井さんも初耳のはずだ。

「裕紀さん夫婦には大紀君と言う一人息子がいた。早うに亡くなってしまったからなあ。本当に気の毒なことだった」

「何があったのですか?」

「自殺したんだ。休みの日に仕事しておって、会社の窓から飛び降りた。大人しい子だったから、色々、人に言えん悩みを抱えていたんだろう。可哀想に」

 都会に憧れた若者が休日出勤の最中に、会社の窓から飛び降りて自殺した。そういうことらしい。

「自殺ですか・・・旦那さんを事故で無くし、息子さんまで亡くされた。本当にお気の毒です」

 そう答えた時、隈井さんが戻って来た。

「何かあったかな?」

「いいえ。何もありませんでした。少なくても、今日のところは」

 隈井さんはまだ芦刈さんのことを疑っているのだろうか?

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