五本爪の傷跡

 分かっていることは多くない。

 僻地の山村で、七軒屋で三人の人間が惨殺されたということだけだ。

 直ぐに隈井さんが三苫巡査部長と駆けつけてくれた。遺体を検分した隈井さんは、五本爪の傷跡と呟いた。

 遺体に無数の傷跡があったが、そのどれもが平行な五本の線になっていた。入田家の遺体は五本の爪で滅多斬りにされたようだ。

「クマゼコの仕業ですかね?」と隈井さんに尋ねると、「ふっ!」と一笑にふされてしまった。

 芦刈さんから聞かされたクマゼコ伝説に影響され過ぎた。

「子供の頃に、悪さをすると、クマゼコにとって喰われるぞ! と脅されたものだ」

 僕をからかっているのか、隈井さんは目を細めた。

――熊の爪痕って見たことあるかい?熊が引っ掻く時、親指の爪痕はつかないから爪痕は四本だ。ほら、親指は反対方向を向いているだろう。五本爪って、見た目はインパクトがあるけど、なんだか嘘くさい。

 広大君が話しかけて来た。

「そんなこと、分かっているよ!」とうっかり口に出してしまった。頭の中で考えるだけで、広大君には伝わるのに。

「うん⁉」と隈井さんが怪訝な目を向けた。

「あっ、いえ。熊の爪痕だとすると、親指の爪痕はつかないでしょうから五本爪は変ですよね」と咄嗟に誤魔化した。

――なんだ。僕の考えを横取りか。

 広大君が呟く。今度は黙殺した。

「君の言う通りだ。クマゼコの仕業じゃないってことだ。五本の傷跡がつく凶器とは何だろう?」隈井さんが考え込んだ。

 隈井さんの思考を遮るかのように、三苫巡査部長が話かけた。「どうやら服部さんが殺された日に、殺害されたようです。同一犯の仕業でしょうかね?」

――同じ凶器で殺されているから、同じ犯人だよね。

「殺害に同じ凶器が使用されています。同一犯の仕業を考えて間違いないでしょう」

 隈井さんの答えと広大君の回答が被った。二人共、同じ意見だ。

「どうします?村人から話を聞いてみますか?」

「現在、村には・・確か、七世帯あったはずですけど、今、何人住んでいるのですか?」

「現在、七軒屋には六世帯があります。入田家、服部家、芦刈家、黒枝家、山守診療所の首藤医師、それに外部から引っ越して来た恵良家の六世帯です。他に廃屋となっていますが、村はずれに田口家の屋敷が残っていますが、住人は村を離れており、ここにいません。まあ、住民票がありますので、七世帯と言うことになります。住人の数は・・・被害者である入田孝道さん、服部順治さん、それに首藤医師を除くと、残りは服部家の奥さん、芦刈さん、黒枝のお婆ちゃん、それに恵良家の一家四名ですから七名ですね」

「七世帯で七名ですか。七軒屋だけあって、七に縁があるようですね」

「みたいです」

「全部で七名なら、全員から話を聞きましょう」

 現場保全を三苫巡査部長に任せて、僕と隈井さんは七軒屋の住人から話を聞くことにした。入田家の周りに家はない。一旦、山守診療所に戻り、そこから程近い場所にある服部家を訪ねた。

 事件後、妻の由紀さんは家に閉じ篭っている。服部家を訪ねると、幽鬼のような表情をした由紀さんが顔を出した。

 目の周りが黒ずみを塗ったかのように真っ黒だった。切れ長の目、小ぶりな鼻で、小面という能面のような顔だなと思った。

「服部さんは首藤医師に呼び出されて殺害されたと言うことですが、服部さんと首藤医師の間で、何かトラブルがありませんでしたか?」

 隈井さんが尋ねると、「夫はどうしようもないほどのお人よしで、人から恨みを買うことなんてありませんでした。首藤先生との関係も良好でした。今から来てくれと言われて、診療所に行っただけです。何故、夫が殺されなければならなかったのか、私にはさっぱり分かりません。ううっ!」と泣き崩れた。

 事件当日、由紀さんは夫の順治さんと一緒にいた。他にアリバイを証言してくれる人間はいない。泣き止まない由紀さんから話を聞くのをあきらめ、お悔やみを告げると、服部家を辞去した。

 隣は軒を接するようにして建つ芦刈家だ。

「この村でまともな話が出来そうなのは芦刈さんくらいですね」

「ああ、そうだな」

 芦刈家を尋ねたが、留守だった。自宅にいるように言っておいたが、出かけたようだ。狭い村だ。行先などたかが知れている。入田家の畑の一部を借りてナスを育てている。それに、村外れにぶどう畑を持っていると言っていた。ここに来る時、ナス畑を通って来た。芦刈さんの姿はなかった。となると、ぶどう畑にいるに違いない。

「どうします?」と聞くと、「良い天気だ。折角だから、ぶどう畑まで歩いてみよう。こっちかな?」と隈井さんが歩き始めた。

 梅雨の晴れ間で太陽が顔を覗かせていたが雲が多い。良い天気だと隈井さんは言ったが、良い天気とは思えなかった。それでも、湿度の高い下界に比べて、ここは天然のクーラーが効いているかのようだ。肌寒いほどだ。

 道は直ぐに坂道となり、二人で黙々と坂道を登って行った。ほどなく、道端の一軒屋から芦刈さんが出てくるのが見えた。

「やあ、芦刈さん!丁度、良かった。探していたのです。少し話を聞かせてもらえませんか?」声をかけると、芦刈さんが立ち止まって、「おう。刑事さん」と片手を上げた。

「こちらはどなたの家です?」

 隈井さんが、芦刈さんが出てきた屋敷を指差して尋ねる。

「ああ、ここは参の屋だ。もう何年も、誰も住んでいない。たまに空気を入れ替えてやらんと、参の屋が戻って来た時に困るからな」

 都会なら立派な家宅侵入だ。山奥の僻村のことだ。空き家は、残った村人が、住人が何時、戻って来ても良いように、空気の入れ替えをしたり、掃除をしたりして管理をしている。勿論、家財を持ち帰るような不届き者などいない。田舎ならではの、ほのぼのとした光景だ。

 そもそも芦刈さん自身、家宅侵入の罪を犯している意識など微塵もないだろう。

「参の屋?」

「田口のことだ。悪いことをしたと、村の者はみんな後悔している」

 田口家の屋号は参の屋らしい。

「悪いこと?田口さんと言うと、例の猟銃誤射事件の加害者のことですね。悪いことって何ですか?」

「事件の後、村のもん、皆で、公正さんを責めた。村八分だ。公正さん、耐え切れなくなって村を出て行った。本当、悪いことをした」

 村八分なんて、本当にあるのだ。「朝からぶどう畑に出て、今から家に帰って、一休みしてから畑に出ようかと思っている。なんだか、このところバタバタして、畑がすっかり疎かになってしまった」話を逸らした。多くを語りたくないようだ。

「今回の一連の事件は、誰の仕業なのでしょうね?」

「誰? 人じゃない。クマゼコの仕業だ。あんなこと、まともな人間に出来るはずがない」

「昨日は何をしていました?」

「うん?ああ、そうか。村の男が三人、殺されたからな。残っている男は、俺と恵良のご主人だけになった。疑われても仕方ないな」

 頭は衰えていないようだ。

「いえ、芦刈さんを疑っている訳ではありません」

「よかよか」と芦刈さんは手を振ってから、「アリバイってやつだろう。昨日は朝からぶどう畑に出て、昼に家で飯を食って、午後は畑だ。毎日、同じだよ」

「それを証明してくれる人・・・なんて、いませんよね」

「ああ、いないなあ~」

「首藤医師はどういう人でしたか?」

「首藤先生?よそ者だが、何が気に入ったのか、ここに三十年以上、居座っていた。もう立派な村の人間だ」

「貴重なお医者さんです。村にとってかけがえのない人物だったのでしょうね」

「藪医者よ。都会にいられなくなって、ここに流れてきただけだ。村に巣くうゴキブリのような男だ。福岡の大きな病院で、よからぬことを仕出かして逃げてきたたみたいだ」

 身も蓋もない言い方だ。過疎化の村で医師は有難いものだと考えるのは、部外者の奢った見方のようだ。実際は狭い地域社会とあって、医師と患者のトラブルが深刻化することが多いという。

「よからぬこと? 何ですか?」

「さあな。そこまでは知らない」

「では、入田さんと言うのは、どういう方でした?」

「孝道さんか? 人を人とも思わんようなやつだった。坂の上の一軒屋に住んでいるが、足が悪くてな。もともと出不精だったが、春先にかあちゃんを亡くしてからは、益々、人付き合いが悪くなってしまった。家に閉じこもったきり、最近は顔を合わすこともなくなっていた」

「人に恨まれていたとか?」

「偏屈者だったけど、根は悪い男じゃない。人に恨まれていたなんてことは、なかったように思う」

「そうですか。では服部順治さんはいかがです?」

「順さんは、良い人だ。良い人過ぎて、損ばかりしていた。もう少し、要領よく立ち回ることができれば、余計な苦労をしなかっただろう。とにかく、壱の屋はともかく、順さんを手にかけるなんて、まともな人間のすることじゃない。やっぱ、クマゼコの仕業よ」

 芦刈さんはクマゼコ犯人説だ。

「最近、村で不審者、見知らぬ人間を見た――なんてことはありませんか?」

「ないと思うな」

「芦刈さんの家の屋号は鍛冶屋だったと思いますが、もともと鍛冶屋をやられていたのでしょうか?」

「そうだ。ご先祖様は村で一軒の鍛冶屋だったそうだ。だから、鍛冶屋。もっとも鍛冶屋はとうの昔に廃業していて、今はぶどうにナスじゃ。今なら葡萄屋だな」

 そう言って芦刈さんは「へへへ」と笑った。

 芦刈家まで戻った。門前で芦刈さんと別れると、黒枝家に向かった。黒枝家には幹江さんという老婦人が一人で暮らしている。

「幹江さんは、かつて村にあった加志崎家の分家の出身だ。加志崎家は七軒屋の七家のひとつ、屋号を馬廻と言った。幹江さんが嫁いだ黒枝家は桶屋だ」と芦刈さんが教えてくれた。

 黒枝家の屋号、桶屋は前に聞いた。

――面白いね。でもさ、昴君。七軒屋というくらいだから、最初、七軒、家があったんだよね。七軒、全部に屋号があったとすると、屋号がひとつ足りなくないかい?

 唐突に広大君が話しかけて来た。

「うん?」と頭の中で整理してみると、


「壱の屋」――入田家

「弐の屋」――服部家

「参の屋」――田口家

「鍛冶屋」――芦刈家

「馬廻」――加志崎家

「桶屋」――黒枝家


 となり、確かに一軒、足りない。

「どうかしたのか?」と隈井さんが聞くので、「いえ、屋号がある家、七軒屋なのに一軒足りないんじゃないかと思いまして」と答えると、「そうだったかな。壱の屋、弐の屋に・・・」と隈井さんが指折り数え始めた。

――おいおい。また、僕の考えを横取りかい。

 と広大君が文句を言うので、「うるさいな。少し、黙っていてくれ」と小声で囁く。

「確かに一軒、足りないようだ。村が出来た時には七軒あったはずなので、もう一軒、屋号を持った家があったことになる」

 黒枝家を訪ねた。

「黒枝の婆さんち、行っても無駄だと思うぞ」と芦刈さんに言われていた。

 自宅前に引水路が走っていて、板で作った小さな橋が架かっていた。引水路を覗き込むと山奥の村らしく透き通った清水が流れていた。

 黒枝家には幹江さんという老婆が一人暮らしをしている。夫に先立たれ、本家の加志崎家、分家の実家も、今は絶えてない。息子が一人いたのだが、親不孝なことに先に逝ってしまったそうだ。芦刈さんと服部夫婦で面倒を見ている状態だった。最近はボケが進んでいて、芦刈さんを「お父ちゃん」と呼ぶことがあるらしい。

 幹江さんは在宅していた。縮んで小さくなっているのに、髪は黒々としていて、こけしを思わせた。

 玄関の靴箱の上に一輪挿しが置いてあった。紫陽花が生けてあるが、見た感じ一輪挿し用の花瓶ではなく、徳利のように見えた。使わなくなった徳利を一輪挿しの代わりに使っているのだろう。全体に青味がかかっており、深みのある青が美しかった。

「お婆ちゃん、綺麗な一輪挿しですね」と幹江さんに声をかけると、「おうおう。和尚さんかい」と歯の無い口を開けて言った。

 隈井さんは思わず自分の身なりを見直した。どう見てもお坊さんには見えない。

「法事はまだだったはずだが・・・」

「お婆ちゃん。お坊さんじゃなくて、刑事です。大分県警の警察官です。村で事件があったこと、知っていますか?」必然、大声になる。

「はあ~⁉ どちらのケイジさんですかの?」

「大分県警の刑事です」

「オオイタさんとこのケイジさんかい? そんなやつ、知らないな」

 ボケが進んでいると聞かされていたが、会話がかみ合わない。困った。幹江さんは村で殺人事件が起こったことを知らないようだ。

「調子の良い時がある。その時は普通に会話が出来る」と芦刈さんは言っていた。今日は調子が悪そうだ。

「仕方ない。出直すか」隈井さんは早々に白旗を上げた。

 黒枝家を退散した。

 残るは恵良家だ。新参者で、最近、七軒屋に引っ越してきた。小学校に通う息子と娘がいる四人家族だ。長女の喘息の治療の為に、空気の良い七軒屋に引っ越してきたという。

 診療所に近い、加志崎本家を住処として選んだ。廃屋になっていたが、診療所に近いし、家屋の傷みが少なかったからのようだ。住人がいなくても、家屋敷の手入れを怠らない芦刈さんのような人間がいるからだ。

 恵良家を訪ねると、応対に出た多美子さんは、子供を迎えに麓の小学校まで行かなければならないと言う。夫の勇さんから話を聞くことになった。

 多美子さんは小柄で、丸顔、体つきも丸い。目がぱっちりしている。勇さんは背が高い。細くて真っすぐな眉毛の下に、細い目がついている。二が二つ並んでいるように見えた。細身だが、おなか周りに、たっぷり肉がついている。

「お子さんたちを毎日、学校に送り迎えしているのですか?大変ですね」

 応接間に通され、隈井さんの事情聴取が始まった。

「大変ですが、子供たちのためなので仕方ありません。住めば都で、山奥の田舎暮らしも悪くありませんよ。家内か私のどちらかが、朝、学校まで子供たちを送って行って、町で買い物をして帰ります。意外に不自由は感じません」

「失礼ですが、どういったお仕事をしていらっしゃるのですか?」

 平日の日中、家にいる。どうやって生活の糧を得ているのだろうか。

「ウェッブ・デザイナーをしています。パソコンがあって、ネットが繋がれば、どこででも仕事が出来ます。幸い、この家は診療所から近いので、無線通信システムの通信エリア内にあって、ネットは問題なく繋がります。長女が喘息持ちですので、診療所に近いのも助かっています」

 正直ウェッブ・デザイナーが、どういう仕事なのか、はっきりとは分からなかったが、パソコンを使って自宅で作業できる仕事だということは分かった。腹回りに浮き輪をつけたような肉がついている。座った仕事が多いからだ。机に座って出来る仕事なのだ。毛量が少ないのに肩まで伸びた髪がオタクを思わせた。

「服部順治さんとは親しくされていましたか?」

「服部さんや芦刈さんにはお世話になっています。畑で取れた野菜や果物を届けてくれます。本当に助かっています。村の暮らしが悪くないのは、服部さんや芦刈さんのお陰と言えます。子供たちも可愛がってもらっていました」

「なるほど。首藤医師はいかがですか?」

「良いお医者さんですよ。長女に喘息の持病があるものですから、毎週、診てもらっていました。夜中に発作が出た時も、文句ひとつ言わずに往診に来てくれました。町じゃ、往診なんて、簡単にしてもらえませんからね。助かりました。専属のお医者さんがいるみたいだなって家内と話していました。本当に首藤先生は亡くなったのでしょうか?」

「現在、検死の結果待ちです」

 首藤医師と思われる遺体には首から上が無かった。遺体が首藤医師のものだと確認できた訳ではない。

「そうですか。先生がいなくなると、ここでの暮らしに影響が出てしまいます。折角、慣れてきたところなのに、また、町に戻らないとならないかもしれません」勇は憂鬱そうだ。

「引越しは大変ですからね。入田さんはいかがですか?親しかったですか?」

「入田さんですか。この春に奥さんを亡くされてから、お姿を見なくなってしまいました。もともと人付き合いの良い人ではなかったので、あまり話したことがありません。そうそう、子供たちは懐いていましたよ」

「村で何かトラブルになっていたことはありませんか?」

「この村でですか!? いいえ、聞いたことがありません。ここはのどかで平和な村です」

「昨日は何をしていましたか?」

「おっ! アリバイですか~そうですか。アリバイを聞かれるんですね~ああ、大丈夫ですよ。関係者全員から聞いているのでしょう」と妙に感心した後で、「家で仕事をしていました。家内も家にいました。外出したのは、子供たちの学校の送り迎えをした時だけです。昨日は朝、家内が子供たちを学校に送って行って、僕が迎えに行きました。まあ、アリバイという点では、ないに等しいですね」

 隈井さんが苦笑する。

「お忙しいところ、ご協力ありがとうございました」

 収穫があるとは思っていなかったが、恵良家で有益な情報を得ることはできなかった。

「すいません、お茶も出しませんで――」

 勇さんが玄関先まで見送ってくれた。お茶を出さなかったのは、長居をしてもらいたくなかったからだろう。意外に癖のある人物なのかもしれない。


「鍵がみつからないのです」

 診療所に戻ると、三苫巡査部長が言った。

「鍵ですか?診療所の?」顔見知りしか住んでいないようなところだ。診療所に鍵をかける必要などなかっただろう。

「診療所の入り口には日頃から鍵がかかっていなかったそうですが、首藤医師の車を調べようと鍵を探したのですが、ありませんでした」

 診療所の前に泊めてある軽自動車が首藤医師の愛車だ。

「遺体が持っているのでは?」

「診療所にないので、そう思って、入田家に行って鑑識官に聞いたのですが、遺体のポケットに鍵は無かったそうです。芦刈さん曰く、最近、首藤医師は運動不足だと言って、往診は歩いて回っていたそうです」

――犯人が持ち去ったのかな?

 何故、わざわざ? 車を置いて、鍵だけ持ち去るなんて。

「変ですね」と言った後、隈井さんは僕に向かって「ぼちぼち日暮れだ。今日はこれくらいにしておこう。係長に報告して来るから、ちょっと待っていてくれ」と言った。

 隈井さんが携帯電話をかけながら歩いて行った。

 三苫巡査部長と二人切りになる。「山の日暮れは早いですからね。気を付けた方が良いですよ。あっという間に日が暮れてしまいます。夜道を走るには、なかなか厳しい山道ですから、谷底に落ちれば一巻の終わりです」と三苫巡査部長が物騒なことを言う。

 確かに、ここに来るまでの道は崖の斜面を削り取ったような山道ばかりだった。

「三苫巡査部長はどうされるのです?」

「私はここで交代を待ちます」

 下郷警察官駐在所から交代要員が来るまで、犯罪現場の警備を指示されていて、まだ当分、帰れないと言うことだった。

「大変ですね。帰りが遅くならないと良いですね」

「はは。日が暮れたら、交代が来ることができませんから、戻るのは明日の朝かもしれません」

「気をつけて下さいよ。犯人がその辺をうろうろしているかもしれませんから」

「人間なら怖くはないのですけどね・・・」と三苫巡査部長が眉をひそめる。

「クマゼコですか?」

「ですね。話の通じない相手は質が悪い」

 無言になった。辺りは徐々に暗闇に覆われて行く。目を凝らして、何か動きはないかと診療所の先に広がる林を見つめた。あの林の中にクマゼコが潜んでいるかもしれない。そして、襲い掛かってくる機会を虎視眈々とうかがっているのかもしれない。

 音も無く忍び寄ると、五本爪の手で襲い掛かって来るのだ。

「うわっ――!」と背後から大声がしたので、僕らは「ひえっ――‼」と悲鳴を上げて飛び上がった。三苫巡査部長などは独楽のようにくるくると回転してから、尻餅をついた。

「はは。悪い、悪い。何だか二人とも、びびっているようだったから――はは」

 隈井さんだ。真面目な人だけど、時に子供じみたことをする。

「勘弁してくださいよ~隈井さん」

 驚いた拍子に飛んで行った度の強い眼鏡を拾いながら、三苫巡査部長が鼻を鳴らした。


――ネットで七軒屋を検索したい。

 疲れていた。七軒屋での事情聴取を終え、県警本部に戻って報告を済ませた後、自宅に戻って来たばかりだ。コンビニで買った弁当を食べて、早く寝たかった。

「疲れているんだ」と言うと、広大君が言った。

――そうかい? 僕には体の疲れがどんなものか分からない。だって、僕には体が無いんだから。自由に出来る体があるって羨ましいよ。

「仕方ないなあ~」

 それを言われると、頼みを聞かざるを得ない。

 一人だと、こうして声に出して会話ができる。だから、外でついうっかり声を出してしまうことがある。傍から見ると、ぶつぶつと独り言を言っている変な奴に見えるだろう。

 食べながらで良いよと広大君が言ってくれたので、弁当を片手にパソコンを立ち上げて、七軒屋を検索した。人口よりも獣の方が多いような場所だ。ヒットした件数は三件しかなかった。トップに来たのは、七軒屋の悪魔というブログだった。

――ああ、それ。面白そうだね。

 こういう時に楽なのが、真剣に記事を読まなくて良いことだ。ぼんやりと見つめているだけで、広大君が読んでくれている。もっと下、スクロールしてと、広大君の指示通りにマウスを動かしていれば良い。

 ああ、ありがとうと広大君が言った時には、弁当を食べ終わっていた。

「もう、良いの?」と聞くと、広大君は面白い話を見つけたと答えた。

 どんな話なのか尋ねようとした時、携帯電話が鳴った。父だった。父が電話をかけて来た。どうしよう?いや、どうしようも何も居留守を使うなんて出来っこない。電話に出るしかない。

「昴か。どうだ?中津で殺人事件があったそうだな。お前の担当か?」

 流石に早耳だ。

「はい」

「難しい事件になりそうだな。大丈夫か?」

「お父さんもご存じの通り、事件のことは話せません」

「そうだったな」

 父のことだ。事件について僕より詳しいはずだ。何せ、父は大分県警の本部長を務めていた人物だ。どこまで偉くなるのだろう。僕のような出来損ないが、県警の捜査一課に配属されたのは、父のコネによるものだ。そう思っている。

「とにかく心血を注いで捜査に励め。絶対に犯人を逮捕しろ。困ったことがあれば、いつでも相談に乗るぞ」

 そう言って、父は電話を切った。

 父は現在、警察庁に異動となっており、母と二人で都内に住んでいる。僕は一人、大分の家に残った。念願の一人暮らしだった。

 人間性に優れ、誰からも好かれる。部下から頼りにされ、数々の功績を挙げて来た。完璧な人物、それが父だった。僕にとって、父は追いかけても、追いかけても届かない永遠の憧れであると共に、僕の神経を崩壊させた元凶でもあった。

 子供の頃は父が自慢だった。大勢の人たちから尊敬の眼差しを向けられる父が眩しかった。父のようになりたかった。警察官になることが僕の夢だった。

 だが、長じるに従い、僕は父のようになれないということが分かって来た。母親に似たのだ。体力も知力も平均以下の僕が父のような偉大な人物になれるはずがない。大きくなるにつれ、そのことが重くのしかかって来た。

 僕は苦しんだ。

 父のことだ。パワハラ、モラハラといったことには無縁だ。僕のことを見守ってくれていただけだ。だが、僕が失敗する度に、父が漏らすため息が、僕の心をずたずたに引き裂いた。

 仕方ない。お前は母親に似てしまった。だから、そんなことも出来損ないなのだ。父がため息をつく度に、父の嘆きが聞こえて来るような気がした。

 僕は自分の殻に逃げ込み、そして、広大君を作り上げた。

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