第一章 クマゼコ

ガーディアン

 ため息は人を殺す。

 ため息をつくと、幸せが逃げるという言葉があるらしい。僕は父のため息に殺された。今の僕は抜け殻だ。

――気にするな。ため息なんて生理現象さ。緊張感をほぐす為に、人はため息をつくのさ。

 広大君はそう言う。でも、僕はため息が嫌いだ。

 朝は気だるい。一日の始まりは希望に満ちているものだが、僕にとっては新たな苦しみの始まりに過ぎない。日々の営みをこなして行くことに、僕の神経は耐えられないようだ。

だけ君。事件だ。それも殺人事件だ。急ぎ県警まで来てくれ」

 隈井さんから電話があった。隈井さんはそれだけ言うと電話を切った。余計なことは話さない。余計な詮索はしない。そこが隈井さんの良いところだ。

 殺人事件だと言う。人一倍、神経の脆い僕が警察官をやっているなんて、まるで笑い話だ。しかも、所属は大分県警の捜査一課。凶悪犯罪の最前線だ。

「はあ・・・」ため息が嫌いな僕がため息をついてしまった。

 出かける準備なんて、とうの昔に出来ている。寝坊なんてしたくても出来ない。一日、外に出て働く。その勇気を奮い起こす為に、長い時間が必要なのだ。

 一課に顔を出すと、僕の姿に気がついた隈井さんが腰を上げ、「行くぞ」と声をかけた。休む暇もない。僕が到着するのを待っていたようだ。

 隈井さんが目の前を通り過ぎて行く。

 隈井尚文くまいなおふみさんは三十代、だが、どう見ても二十代にしか見えない。痩せてスタイルが良い。すっと通った鼻筋、大きな目、俗にいうイケメンだ。刑事というより美容師に見える。

 慌てて後を追う。

「場所は七軒屋だ」と隈井さんが言う。

「七軒屋?」聞いたことがない。

「中津から山国川をさかのぼった場所にある」

「中津と言うと、隈井さんのかつての職場ですね」

「・・・」隈井さんは返事をしなかった。

 隈井さんは県警に異動してくる前、中津署にいた。

 黒塗りの警察車両に乗り込む。運転は隈井さんだ。一課に異動して、最初の出動の際、運転を任されたが、一度でクビになった。

「嶽君。君の運転だと効率が悪い。安全運転も大事だが、我々にとって時間は貴重だ。過ぎたるは及ばざるが如し。もう少しメリハリつけてくれ」

 そう言われ、以来、ハンドルを任されたことがない。

「大分県中津市耶馬渓町大字山守というのが村の正式な地名だ。だけど、村の人間は、村を七軒屋と呼ぶ。開村時に家が七軒しかなかったことが由来らしい」

 隈井さんが七軒屋について説明してくれる。饒舌な人ではないが、優しい人だ。七軒屋に関する予備知識を僕に与えてくれているのだ。

「村人は代々、山肌に張り付いたような田畑を守って暮らして来た。昨今では、僻村が辿る運命から逃れようがないらしくて、過疎化の波に晒されている。七軒屋と言っても、開村時に七軒だった家が盛時には分家も含め十数戸に増えていた。村人たちが狭い村でひしめくようにして暮らしていた。それが今は、確か・・村名通り、七戸の世帯が残っているだけだ」

 隈井さんはハンドルから片手を離すと、「入田、服部、田口、芦刈、黒枝の五家に、首藤、それに新顔の七家のはずだ」と指折り数えた。

 片手ハンドルになると、心臓がドキドキした。

「詳しいですね」

 僕の言葉を無視して、隈井さんは話し続ける。「二、三年前、恵良という四人家族が長女の喘息の治療のため、七軒屋に越して来た。首藤は村医だ。村に山守診療所という病院があって、そこに常駐している。それが首藤医師だ。恵良家を除けば、老人ばかりの村だが、首藤医師も六十歳過ぎのはずだ。若くない。何処が気に入ったのか、三十年以上、医師としてあの村に住み続けている」

 限界集落といえる村に医師が常駐している。喘息もちの子供を抱える恵良家が七軒屋への移住を決断した理由のひとつに、医師が駐在していることがあったのだろう。

「被害者は服部家の当主、服部順治。昨日の十七時三十二分に通報があり、下郷警察官駐在所から警官が駆けつけたところ、診療所で服部順治の遺体を発見した。外傷が見られ、殺人事件だと判断された。第一発見者は妻の由紀。首藤医師から電話があって診療所に出かけたまま診療所から戻らないので心配になって探しに行き、夫の遺体を発見した」

「医師は? 首藤という医師はどうなったのでしょうか?」

「診療所にいなかったそうだ。詳しいことは、現場に着いてからだ」

 隈井さんもまだ詳しい状況は掴めていないようだ。会話が途切れる。もう一度、尋ねてみた。「七軒屋のこと、随分と詳しいですね? 住人の名前を全部、覚えているなんて」

「ああ、調べた」と隈井さんは言う。僕が来る前に事前調査を終えていたようだ。もう少し、早く県警に顔を出せば良かったと後悔した。隈井さんが呟く。「俺が最初に担当した事件、それが七軒屋で起きた猟銃誤射事件だった」

 どうやら中津署時代に担当した事件のようだ。

「猟銃の誤射事件ですか? うっすら記憶にあるような気がします」

「ふっ。嘘つけ。覚えてなんかいないだろう。ローカルニュースとして報道されただけだったからな。だけど、俺ははっきりと覚えている」

 今から十年前、七軒屋で猪の被害が頻発した。山で猪駆除に当たっていた黒枝裕紀が、村人で狩猟仲間だった田口公正に射殺された事件だ。田口は猪と間違えて黒枝を撃ってしまったと過失を認めている。

「業務上過失致死罪の判決が出て懲役が言い渡されたが、執行猶予がついた。被害者の黒枝は妻とふたり暮らしで、息子が一人いたらしいが、早くに亡くしている。自殺だったらしい。執行猶予がついたとは言え、田口家も悲惨だった。田口の妻は、子供たちが人殺しの子と呼ばれることに耐えられないと言って離婚を申し出た。田口との離婚が成立すると、子供たちを連れて村を出た。その後、刑を終えて出所した田口も、暫くは村にいたらしいが、突然、姿を消したらしい」

「ひとつの事件がふたつの家族を崩壊させてしまったのですね」

「その通りだ。去年、中津に戻った時、偶然、田口家の長男と会った。今は母親の旧姓、加志崎を名乗っている。少し話をした。縁が切れたとは言え、故郷だ。七軒屋の近況について、色々、教えてもらった。だから詳しい」

 もともと詳しかった上に、事件発生の連絡を受けて県警に顔を出し、僕が来るまで七軒屋について調べていた。この人にはかなわないと素直に思う。

 ハンドルを握る横顔に見惚れてしまう。格好良い。

――いいんだ。君は隈井さんになる必要はない。

 広大君がそう言ってくれることだけが救いだ。どうせ、何をやっても隈井さんにかわない。


 山国川が削り取った深い渓谷の山腹を縫うように国道が走っている。

 ハンドル操作を誤れば谷底へ真っ逆さまという危険な道路を走り続け、乗兼寺という寺の横にある坂道に分け入る。車が一台通るのがやっとの勾配の急な坂道だ。右に左に、酔う程、登って行くと七軒屋へたどり着く。正直、寿命の縮まる思いだった。こんな道、僕に運転は無理だ。

 坂道を登りきると、開けた場所に出た。僻村に似合わない鉄筋コンクリート造りの二階建て建物があった。山守診療所だと隈井さんが教えてくれた。

 県警を出てから二時間はかかった。

 診療所の前は若干、広くなっていて車を停めることができた。警察車両が二台と軽自動車が一台、駐車してあった。僕らが乗って来た車を停めると、狭い駐車場はいっぱいになった。

 昨夜の内に鑑識作業は終えている。制服姿の警官が診療所から転がり出て来た。現場保全の為に詰めているようだ。

三苫みとまさん。ご苦労様です」

 隈井さんが車を降りて挨拶する。顔見知りのようだ。僕も慌てて車から降りた。下郷警察官駐在所の三苫巡査部長だ。三十過ぎだろう、コンタクトがダメなのか、今時、珍しく度の強いメガネをかけている。つぶらな瞳の上で、太い眉毛が見事なアーチを描いている。意志が強そうに見える。

「事件の状況は?」

「被害者は弐の屋の主、服部順治さんです。妻の由紀さんと村人の芦刈喜則さんが診療所に入って遺体を確認しました。服部順治さんは電話で首藤医師に呼び出されたそうです」

 三苫巡査部長が遺体発見の状況を詳しく説明してくれた。そして、最後に「芦刈喜則さんと服部由紀さんには自宅で待機してもらっています。話を聞きますか?」と尋ねた。

 隈井さんは首を振って、「先ずは現場を確認しておきます」と答えた。

 参った。いきなり現場検証だ。

 三苫巡査部長の案内で、診療所に足を踏み入れる。隈井さんの背中から発せられる圧力に引っ張られるような気がした。

 診療所に入って直ぐに待合室があった。昔の病院には、こういうソファーがあったなと郷愁を感じさせる茶色い長椅子が並んでいた。待合室の奥に診察室のドアがあった。

 血の匂いがする。むせ返りながら診察室へ入った。

 中は薄暗い。診察室は長方形になっていて、入ると直ぐに診察台があった。救急患者の処置室となっている。向かいの壁は窓になっているが、ブラインドが降りていた。

 左手奥に机と患者が腰をかける丸椅子がある。診察の際に、首藤医師が使っていたものだ。入り口から見えないように、衝立で仕切られていた。更に奥に薬棚があり、突き当たりにドアがある。奥に更に部屋があるようだ。

「あの奥には?」と隈井さんが聞いた。

「隣は受付兼首藤医師の執務室になっています。首藤医師は日頃、執務室にいて受付を兼ねていたようです」と三苫巡査部長が答えた。

「この建物は二階建てのようですね」

「二階に入院用の病室がありますが、もっぱら首藤医師の居住空間になっていたようです」

「遺体は?」

「衝立の向うです」

 いよいよだ。無残な遺体が横たわっているところを想像したが、既に遺体は運び去られた後だった。遺体発見から半日経っている。考えてみれば当たり前だ。拍子抜けしてしまった。

 だが、床には血痕が広がっていた。そして、遺体をかたどった白線が引かれていた。御免なさいと心で唱えながら手を合わせた。何故、謝るのか自分でも分からなかった。

「遺体はうつ伏せの状態で床に倒れていました。背中に無数の傷跡が見られ、幾つもの傷跡が平行してついていました。まるで熊に襲われたかのようでした。首筋などは、三分の一くらい切り裂かれて、傷口がぱっくりと口を開けていました」

 三苫巡査部長が遺体の状況を説明してくれた。想像するだけで、胸がむかむかする。むごい話だ。

 医療器具やカルテが部屋中に散乱していた。格闘があったというより、被害者が犯人に追われ、必死に逃げ回った跡に見えた。

 狭い診察室だ。早々に観察を終え待合室へ戻った。

「芦刈喜則さんは、これは人間業じゃない。クマゼコの仕業だと言っていました。診療所に入った時に、獣の匂いがしたなんて証言しています」

「クマゼコ?」

 聞いたことがない。何だろう?

 怪訝な顔をする僕に気がついたのか、隈井さんが「ああ」と僕を見て、教えてくれた。「君が知らないのも無理はない。この辺りに伝わる伝説の妖怪――みたいなものだ。この辺には昔から、体は熊で、顔は猿のクマゼコという化け物が住んでいるという言い伝えがある。夜中に畑を荒らしたり、子供をさらって、油を取ったりすると言われている。こいつを怒らせると五本の爪で襲いかかって来る。鋭い爪で切り裂かれ、頭からバリバリと喰われるらしい」

 この辺にそんな妖怪伝説があるなんて、知らなかった。

「ところで、首藤医師の行方は分かりましたか?」

「いえ。診療所に彼の姿はありませんでした。車が停めてあるので、遠くには行っていないと思います」

 診療所の前に停めてある軽自動は首藤医師のもののようだ。

 三苫巡査部長が続けて言う。「芦刈喜則さんによれば、昨日の午前中、畑で農作業をしている時、首藤医師が入田家へ往診に行く姿をみかけたそうです。だが、戻って来るのは見ていないと言っています。ですが、一日、畑で見張っていた訳ではないので、戻って来るのに気がつかなかっただけかもしれない。そう証言しています」

「入田家に確認に行く必要がありますね」と隈井さんが言った時、「どんな塩梅かな?」と痩身で色黒、短髪の老人が待合室に姿を現した。

「あっ!困ります。芦刈さん、中に入ってこられちゃあ」と三苫巡査部長が慌てて、老人を制した。どうやら遺体の発見者の一人、芦刈喜則さんのようだ。

「だって刑事さん、後でまた話を聞きに来ると言ったのに、何時まで経っても来ない。だから様子を見に来たんだ」

「ああ、丁度良い」隈井さんは芦刈さんに近づくと、「芦刈喜則さんですね。首藤医師の行方を捜しています。昨日、入田さんの家に行く姿を目撃なさったとか」と声をかけた。

「見ましたよ」

「彼を入田さんの家に案内してもらえませんか? まだ首藤医師がいるのかどうか、確認したいのです」

 隈井さんが僕を指さした。うへっ、僕が確認に行かされるのだ。

「お安いご用だ」芦刈さんが頷く。

「頼んだぞ」と僕は、芦刈さんに引きずられるようにして診療所を出た。


 緩やかな上り坂が続いている。道の両側に田んぼが広がっていた。平地の少ない七軒屋だ。段々畑になっている。斜面をめいっぱい使い、日光を集めるかのように田んぼが連なっていた。

 田んぼが切れると林が広がっており、左手に見える林の向う側は切り立った崖だ。

 青葉に、稲穂に、太陽の光が反射している。空気が薄いせいかもしれない。輝いて見えた。いや、そんな高地ではない。都会の喧騒に慣れ切ってしまい、村の自然が眩しく見えるのだ。

「のどかなところですねぇ~」と呟くと、芦刈さんは「田舎だってことだ」と身も蓋も無い言い方をした。そして、「そういやあ~刑事さん。順さんの、あの傷を見たか? あれはクマゼコの仕業だ。違いない。診療所に入った時に、獣の匂いがしたんだ。あいつだ。クマゼコが順さんを切り刻んだんだ」と言って、まじまじと僕の顔を見た。

 どうだろう? 事件後、診療所は血の匂いが充満していたはずだ。血の匂いを獣の匂いと間違えただけだろう。

「検死の為に運び出された後でしたので、遺体は見ていません」

「そうか。あんた、見ていないのか。ひどいもんだった」

 良かった。見なくて。

「ところで、入田さんって、どういう方です?」話を変えた。

「壱の屋か?あれはげってんだ」

「げってん?」

「変わったやつだと言うことよ。人が右向きゃあ、左を向くようなやつだ。でも、笑うとえくぼが出来てな。娘のような顔になる。今年の春に連れ合いを亡くして、わたしもそうだが、何もかもが嫌になってしまったようだ。もともと頑固な性格だったが、益々、意固地になってしまった。最近は全く、近所付き合いをしなくなっていた」

「先程から入田さんのこと、壱の屋って呼んでいます?」

「屋号だ。村の人間なら、みな、屋号を持っている」

 新入りの恵良家以外、皆、屋号を持っていて、入田家が壱の屋、被害者の服部家が弐の屋、桶屋が黒枝家、そして、芦刈家は鍛冶屋だと教えてくれた。

「へえ~面白いですね」

「そうかい。生まれた時から背負っているものだ。面白いかどうかなんて分からない」

「入田さん、奥さんを亡くされたばかりなのですね」

「由香里さんだ。後妻よ。中津の飲み屋で働いていたらしい。水商売の人間にしては、しっかりしていてな。ここに来てからは、畑仕事に精を出していた。壱の屋は前の奥さんとの間に娘が一人いてな。由香里さんに気を使ったのか連絡を取っていないようだ。ろくに養育費を払って来なかったので、会す顔がないのだろう。今ではもう赤の他人だ」

 道が急坂となった。息が切れる。

「刑事さん。きつそうだな」

「はは。芦刈さんはお元気ですね。足腰が達者だ」

「村外れに、ぶどう畑がある。ぶどう栽培は爺様の代に初めて、わしで三代目となる家業だ。ぶどう畑に通っているから、足も丈夫になるさ」

 坂を上りきったところに入田家の門があった。

「この坂じゃ。鶏も登って来ない。壱の屋は痛風持ち、足が悪かったから、出不精になるのも無理はない」

 平地の少ない七軒屋だが、入田家の敷地には、庭としては広すぎる土地が広がっていた。庭兼自家用菜園となっている。

「お~い、壱の屋よ~いるか~?孝道さんや~」声高に呼ばわりながら、芦刈さんが玄関のドアを開けた。

 鍵はかかっていなかった。田舎のことだ。鍵をかける習慣がなかったりする。

「邪魔するぞ~首藤先生が、こっちに来ておらんか~?」

 ドアを開けると土間が広がっていた。芦刈さんが靴を脱いで屋敷に上がり込んだ。立派な家宅侵入だ。迷ったが「失礼します」と一言、断ってから後に続いた。

「こ、これは一体・・・」

 屋敷に上がって驚いた。

 土間に続くのは居間だろう、部屋はまるで嵐が過ぎ去った後のようだ。ところ狭しと物が散らかっている。空き巣に入られたみたいだ。金目のものを探し回った後だろうか。箪笥の引き出しが引っ張り出され、手当たり次第といった感じで、畳の上に中のものがぶちまかれてあった。それだけではない。壁の一部が壊されていたし、畳がひっくり返され、床板が剥がされているところまであった。

 何かを徹底的に探し回ったようだ。

「刑事さん。クマゼコじゃ。クマゼコが荒しまわったんだ」芦刈さんが呟く。

「芦刈さん。まだ、その辺に犯人が潜んでいるかもしれません。気をつけて下さい」

 芦刈さんはこくと頷いただけで、「孝道さんや~寝ているのか?」と平然と先に進み始めた。「ちょ、ちょっと、芦刈さん」恐る恐る後を追う。

 居間を抜け、隣接する台所へと進んだ。ここも食器が散乱している。気をつけないと、床に散らばった食器の破片を踏んでしまいそうだ。誰も居ないことを確かめると、一旦、居間に戻って奥へ進む。いつ、クマゼコ、否、強盗が襲い掛かって来るか分からない。周囲の気配に気を配りつつ、ゆっくりと進んだ。

 昔ながらの日本家屋だ。部屋が直線に並んでいる。冠婚葬祭で人が集まる時は、襖を外すと大広間になる構造だ。居間を抜けると書斎として使っていたのだろうか、書物が散乱した部屋があった。

 辺りを見回す。クマゼコ、いや、強盗の気配はない。畳に転がっていた壁掛け時計がボーンと不気味な音を立てた。思わず、ひっ!と悲鳴を上げながら飛び上がった。

 情けない。「大丈夫か?刑事さん」と芦刈さんに励まされる始末だった。

 奥に更に部屋がある。先に進むしかない。「行きましょう」と先に進む。襖を開けて、奥へ奥へと進んだ。何もない。ものが散乱しているだけだ。また部屋だ。部屋がある。

 襖越しにエアコンの音が微かに聞こえた。

「孝道さん~開けるよ~」芦刈さんが襖に手を掛ける。

 芦刈が襖を開くと、部屋からどっと冷気が流れ出してきた。そして、冷気に伴って異臭が押し寄せてきた。

「うへっ!」芦刈さんは異臭に弾き飛ばされるかのように、後ろ向きに転がった。

 目をしばたたかせながら、部屋の様子を伺った。

 どうやらこれが最後の部屋、寝室だ。八畳ほどの部屋の中央に布団が敷いてあり、掛け布団が大きく跳ね飛ばされていた。そして、男が一人、布団を斜めに、庭のガラス戸に頭を向けてうつ伏せに倒れていた。

 血塗れだ。体中に無数の傷を負っている。部屋中に飛沫血痕が飛び散っていた。

――おや?遺体を見ても、意外に冷静だね。すっかり刑事が板についてきたじゃないか。

 広大君が言う。自分でも驚くほど、冷静だった。今晩、餃子が食べたいなと咄嗟に関係のないことを考えたのが良かったのかもしれない。

 遺体はもうひとつあった。男を追う形で足元に遺体が転がっていた。こちらは仰向けにひっくり返っており、やはり血塗れだった。そして、遺体には首がなかった。

 首無しの遺体は白衣を着ていた。

――ほう~首無し死体か。恐らく、ここで死体を解体したのだろうね。

 畳みの上に黒々と血溜まりが広がっていた。そして、血黙りの周りに、鮮血が飛び散った跡が放射状に広がっていた。広大君の言う通り、ここで首を切断したのだ。首を切断するのに手間取ったようだ。切断面が破裂した石榴のようにぎざぎざになっていた。

――部屋中に飛び散った無数の血痕は、犯人の執拗なまでの敵意を暗示している。犯人は被害者に対して強い恨みを抱いていたようだ。凶器らしきものは・・・ないな。恐らく、犯人が持ち去ったのだろう。

 広大君が言う。

 広大君が頭の中で僕に話しかけてくる。広大君は頭の中に住んでいる僕の大切な友人だ。解離性同一障害と言うらしい。俗に言う多重人格だ。僕の中にいる、もう一人の人格、それが広大君だ。普通、人格が入れ替わって現れるらしいが、僕の場合、突然、頭の中に広大君が現れ、話しかけて来る。広大君と会話をすることができた。

 広大君の言葉は僕以外、誰にも聞こえない。広大君が直接、誰かと話をすることはない。僕に話しかけてくるだけだ。そして、僕は考えるだけで、広大君に意思を伝えることができる。

 広大君は僕に無いものを全て持っている。完全無欠の人間だ。そして、常に僕の味方だ。広大君は言う、僕は君のガーディアンだと。そう、彼は僕の庇護者なのだ。

 広大君の存在は誰も知らない。僕だけの秘密だ。父も母も、無論、知らない。いや、誰かに知られてはならない。そんなことになれば、僕は人から異常者に見られてしまうだろう。そして、刑事の仕事を辞めなければならなくなってしまう。

――すばる君。隈井さんに連絡だ。鑑識を呼んだ方が良い。

「芦刈さん、この部屋に近寄らないで下さい。今、応援を、鑑識を呼びます。取りあえず、ここはこのままにして、外に出ましょう」

「頼まれたって、この部屋に入るのは御免だ。クマゼコだ。これはクマゼコの仕業だ!」

 芦刈さんが尻もちをついたまま叫んだ。

――クマゼコねえ~そうそう。東北地方に油取りという妖怪の伝説がある。クマゼコと同じように、子供を誘拐して、その体を絞って油を取るといわれている。特に女の子から良い油が搾り取れるといわれていて、女の子は油取りに狙われ易いと考えられていた。

 明治初期には、秋田県や山形県で油取りに子供が誘拐されたという風説が広まり、子供の外出を禁じる外出禁止令が敷かれたりした。クマゼコは東北地方の油取りと風貌が異なるようだが、子供の失踪が多かった当時の世相を反映した妖怪だったのだろう。

 大分県には全滅したはずのツキノワグマの目撃情報が多い。クマゼコは妖怪伝説と熊の被害が結びついたものかもしれない。

 広大君は物知りだ。なんでも知っている。上の空で広大君の話を聞きながら、僕は隈井さんに電話を掛けた。

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