七軒屋の悪魔

西季幽司

プロローグ

 大分県中津市にある中津城は黒田如水が築城し、細川忠興が完成させた城だ。豊臣秀吉より豊前国十二万三千石を与えられた黒田如水は、山国川の河口付近に中津城を築城し、居を構えた。

 やがて起こった天下分け目の大決戦、関が原の合戦で、如水は徳川方として中津城より兵を挙げた。知略に優れた如水は九州の石田方、西軍の武将を次々と攻め滅ぼした。如水には九州の地で勢を張り、最後には徳川家康と天下を争う気概と秘策があったと言われている。

 だが、如水の天下取りの夢ははかなくもついえてしまう。

 長引くと思われた天下取りの一戦がわずか一日で決着を見てしまったからだ。家康の野望にくみし、奔走した息子の長政が、如水には腹立たしかったに違いない。

 中津城は城が河口付近にあり、堀に海水が引き込まれていることから、今治城、高松城と並んで日本三大水城のひとつに数えられている。

 その中津城を取り囲む山国川を遡り、更に支流を遡って行った先に耶馬溪と呼ばれる渓谷がある。耶馬溪を形作る山系のひとつ楢熊岳の中腹に、小さな村があった。人里離れた僻地に、まるで人目を忍ぶように部落が存在していた。

 大分県中津市耶馬渓町大字山守というのが、この村の正式な地名だ。この地に住む者は何処か誇らしげに、村を「七軒屋ななけんや」と呼ぶ。開村時に家が七軒しかなかったことが、村名の由来となっている。

 村人は代々、山肌に張り付いたような田畑を守って暮らして来た。

 この村も僻地の農村が辿る運命からは逃れようがなく、過疎化の波に晒されていた。七軒屋と言っても、盛時には分家も含め十数戸の家族が、狭い村でひしめくようにして暮らしていた。だが、今では村名通り、僅かに七戸の世帯が残っているだけだった。

 入田にゅうた家、服部家、田口家、芦刈あしかり家、黒枝家の五家が古くからの村の住人だ。

 余所者を嫌う土地柄だが、恵良えら家という四人家族が長女の喘息の治療のため、都会の喧騒を離れ、空気の良いこの村に越して来た。

 わざわざ人里離れた村に移り住もうというのだ。多少、胡散臭い感じがしない訳ではなかったが、村人は一応に恵良家を歓迎した。高齢化の進む村では、恵良家の二人の子供はまばゆい未来に見えた。

 新参の恵良家の家族を除けば、村人は六十歳以上の高齢者ばかりだ。

 村の生まれではないが、もう一人、首藤招運しゅどうしょううんという村医がいた。大の酒好きで、腹回りはビール腹で膨れ、ふくよかな頬は赤みを帯び、何時も汗をかいていた。汗を拭うために、常に首に手ぬぐいをかけている。

 限界集落と言える辺鄙な村に、ちゃんと「山守やまもり診療所」という医療機関があり、医師が常駐している。村人同様、医師の首藤は既に齢、六十歳を超えており、何処が気に入ったのか、三十年以上、七軒屋に医師として住み続けていた。

 喘息もちの子供を抱える恵良家が七軒屋への移住を決断した理由のひとつに、村に医師が駐在していることがあったことは言うまでもない。評判が良いとは言えなかったが、貴重な医師だ。村人は陰口を叩きながらも、当人の前では敬虔なクリスチャンのように敬っていた。

 首藤医師を合わせて七家が村に住んでいた。こののどかな僻村を舞台に、世間を震撼させる大事件が勃発する。


 夕食時になっても戻って来ない夫が気になった。

 好物の肉じゃがの用意ができている。このままでは暖めなおさなくてはならなくなる。服部由紀はっとりゆきは食卓から立ち上がると、勝手口のサンダルを引っ掛けて外に出た。

 山守診療所の首藤医師から電話があった。

 夫の順治じゅんじは血圧が高く、月に二回、診療所を訪れて、薬を処方してもらっている。首藤から電話があり、「明日は診察予定日だが、急に中津へ出かけることになった。悪いが、今から来てもらえないか?」という話だった。

「あら、珍しいわね」と由紀が言うと、順治は「風邪を引いたとかで、がらがら声だった。医者の不養生だな」と言って笑った。

 梅雨時だ。時に寒さがぶり返す。山の上は気温が変わり易い。

 順治は無骨で、ごつごつとした岩のような顔の男だが、笑うと八重歯がのぞいて愛嬌が出る。由紀は順治の笑顔が大好きだった。

 二人には息子が一人いるが、都会に働きに出てしまった。今は夫婦二人暮らしだ。

 首藤が診療所を留守にすることは珍しいことではなかった。事前に予約してあったのに、尋ねてみるといなかった。そんなことは日常茶飯事と言えた。だが村人で首藤医師を批難するものなどいない。半日、診療所の待合室で、ぼんやりと待っているだけだ。わざわざ電話を掛けて来て予約を変更するなど、首藤らしくないと言えた。

 どういう風の吹き回しと由紀は思ったと言う。

 それでも人の良い順治は「ちょっと行ってくる」と出かけた。長身で足の長い夫なら、診療所まで徒歩で十分程度だ。診察を受けて、薬をもらうだけだ。半時もすれば戻って来るはずだった。だが、一時が過ぎても戻って来なかった。

 血圧の高い夫のことだ。診療所からの帰り道、眩暈を起こして、畑の中でひっくり返っているのではないかと心配になった。

 通り――と言っても田んぼのあぜ道だが――に出たところで、芦刈喜則あしかりよしのりと出会った。狭い村だ。住人はみな、子供の頃からの知り合いだ。順治と芦刈は仲が良かった。朴訥で無口な順治も芦刈に対しては饒舌に話をする。ウマが合うようだ。

 芦刈は痩身で色黒、短く刈った頭髪が白くなっているのが目立つ。七軒屋に散髪屋はなく、髪を切ろうと思うと中津まで出なければならない。散髪が面倒で、村の男たちは大抵、バリカンを持っていて、自宅で丸刈りにするものが多い。皆、似たような坊主頭だ。

 鼻梁が高く、鷲鼻で、長い眉毛の下の目が鋭い眼光をたたえている。

 順治が診療所に行ったきり戻って来ないと言うと、「そりゃあ、変だ」と心配そうな顔をした。「昼前だったかなあ~畑に出ていたら、首藤先生が歩いてきた。こんにちはと挨拶をしたら、壱の屋に行くと言う。壱の屋は最近、家に閉じこもってばかりだからな。悪い虫に取り憑かれてしまった。ご苦労なことだと思った。よく考えてみたら、先生が戻るのを見ていない。先生がいないのに、診療所に行っても仕方がないだろうに」と芦刈が言う。

 壱の屋とは入田家のことだ。入田家は村落で一段、高い場所にある。周りに民家はなく、斜面を削り、土を盛って石組みの土台を築いた上に、まるで絶対君主として村を睥睨するかのように屋敷が建っている。屋敷を下ったところに入田家の畑が広がっている。平地の少ない七軒屋では、畑は権力の象徴と言えた。七軒屋における入田家の権勢を、畑の広さから伺うことができた。

 主の入田孝道にゅうたたかみちはこの春、連れ合いの由香里ゆかりを病気で亡くし、それまで夫婦で精を出していた畑仕事に嫌気がさしてしまったようだ。貴重な畑が荒れ放題になっていた。そこで、遊ばせておくのはもったいないと、芦刈は畑の一部を借り受けた。

 四年前になるが、芦刈も長年、連れ添った妻の景子けいこを病気で亡くしていた。以来、一人暮らしだ。入田から畑の一部を借り受け、ナスの栽培を始めた。家にいてもすることがない。最近は終日、畑に出ている。

「あの人は首藤先生に呼ばれて出て行きました」

 由紀の心配そうな顔を見て芦刈が言う。「まあ、ずっと見張っておった訳ではないから、先生が帰って来るのに、気がつかなかっただけかもしれない。だけど、心配だな。どうれ、由紀ちゃん、一緒に診療所に行ってやろう」

 由紀と芦刈は診療所を目指した。

 七軒屋は高所にある入田家を頂点に、村が広がっている。村で唯一の舗装された道路が入田家の門へと続く。道路の南側には小川が流れ、畑が広がっている。反対側、道路の北側は削ぎ落としたかのような崖となっている。

 そして下手の道路沿いに服部家がある。服部家からあぜ道で黒枝家、芦刈家と繋がっており、道路を少し降ると、山守診療所があった。診療所の前はちょっとした空き地になっており、村の社交場となっていた。

 そして診療所の前に恵良家がある。

 村を出るには診療所前の道路を下る。勾配が急になり、曲がりくねった山道が続き、やがて国道へ出る。国道は山国川が削り取った深い渓谷の山腹を縫うように走っていた。

 診療所の前の空き地に、軽自動車が駐車してあった。首藤の愛車だ。車があると言うことは村にいるのだろう。

 夕暮れ時とあって、診療所の待合室に人の姿はなかった。

「先生~! 首藤先生~いるかい?」と芦刈が声をかけながら待合室に入る。「あんた~」と由紀が続いた。二人はスリッパを引っ掛けて中に入ると奥へ進んだ。

 人の気配のない診療所は不気味な静けさに包まれていた。

 陽が長くなったが、既に暗闇が村を黒く塗り潰そうとしていた。灯りが点いておらず、待合室は夕暮れに溶け込んで行こうとしていた。芦刈は待合室を通り過ぎ、診察室のドアを開けた。

 空気の淀んだ診察室は真っ暗だった。そして、獣の臭いに満ち溢れていた。

――血の臭い!

 咄嗟にそう感じた。芦刈は後ろの由紀に「由紀ちゃん、入っちゃあダメだ!」と怒鳴った。診察室に入ろうとしていた由紀は、芦刈の大声に「ひっ!」と小さな悲鳴を上げると足を止めた。

 何かがいる。確か、電源スイッチは――暗闇の中、黒い煙のような生き物が床の上に蠢いているような気がした。芦刈は手探りで壁をまさぐった。部屋の電気スイッチがあるはずだ。

 由紀は芦刈の背中越しに診察室を見つめていた。暗闇に目が慣れてくると、診察室の様子がおぼろげに見えて来た。

「ひっ!」由紀がまた、悲鳴を上げた。

 壁のスイッチを見つけて、電気をつけようとして気がついた。手がぬめぬめと濡れている。液体が壁にかかっているのだ。

 芦刈が電気をつけた。

「う、うむむむむ・・・」

 壁に幾筋も赤黒い筋がついている。血しぶきだ。診察室の壁に無数の血しぶきが飛び散っていた。床の上にも血痕が広がっていた。

「あわわわわ・・・」由紀はがたがたと震えながら、芦刈の背後で崩れ落ちた。

 診察室の奥に男が横たわっているのが見えた。

 男は見覚えのある靴を履いていた。

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