私にはもう母がいない。記憶に残っている母との思い出は片手で足りるほどだ。庭先で遊ぶ幼い私を縁側でじっと見守ってくれていた、そんな日が夏のある時期にいくらかあったというのが私に残るわずかな思い出であり、母の像であり、それが母と子の関係としてはあまり有り得ないものだったとは、成長するまで気づく機会が私には訪れなかった――母とはそういうものなのだと私は思っていた。

 確かまだ朝早い時間だったか、健やかな陽射しと淡い雨の香りが、ゆるく庭園を包み込んでいた、そんな肌の感触も覚えている。空は薄く曇っており、幼い自分にそびえ立つ庭木を見上げると、その濃い緑の浮き上がった色に鮮烈な面白さを感じることもあった。縁側では母が背筋を伸ばし、足をそろえて腰をかけ、私の方に顔を向けていた。私は、見守られているのが嬉しかったのか、それとも元気よく遊ぶ姿を見せつけたかったのか、母がいる時には意識して、いつもより活発に庭を走り回ったりなんかしていた。

 どんな顔で母が座っていたのか、思い出せないことが少しもどかしい。着ていた浴衣さえ、はっとするほど豊かな露草色であったような気もするし、どんよりと重い鈍色であったような気もする。質感をともなう具体性を持って思い出せる景色の中で母ひとりが、ぼうっと光る昼の月のように、儚い姿で浮かび上がるのだ。まだ子供と呼べる年のころまでは全て思い出せたのかもしれないが、いつの間にか母の姿だけが、鮮明な記憶の中で溶け、滲み、輪郭をぼやけさせてしまったのだ。

 その夏の朝のこと、どんな遊びのつもりだったのか忘れたが、幼い私は庭石の周りをひたすら歩き回っていた。今も庭園の中央に置かれている無骨な安山岩だ。足取りもおぼつかないころの、体の小さな私にとっては、何てことのない庭石も背丈ほどある大きな障害物であった。ひかえめな音を立てながら冷たい玉石を踏みしめる感触が、靴越しの足の裏に心地よかった。

 私はその低い目線から、よく虫の姿をとらえていた。鈍間なおんぶ飛蝗や金蚊なら、両手で包み込み捕まえることができた。本当はしじみ蝶が欲しかったのだけれど、素手の幼児にはとても捕まえることができなかった。

 私はひとりで遊んでいるときなら、手にしたそれらの脚や翅を千切り、虫の種類によって違う腸の色を確認してから、池か石畳の上に捨ててしまっていた。玉虫や天道虫のように面白い色をしている種の翅は、しばらくとっておいて眺めることもした。しかし母が居るときには、捕まえた虫の形を壊さないよう手のひらの中で丁寧に包み、縁側へと生きたまま運んで行っていた。私は母に虫を見せたかった。別に褒められるわけでもない。また、虫を殺すことを母に窘められていたわけでもない。ただ、母に虫を見せると、

「それは飛蝗よ」

「それは花潜よ」

 などと、毎度すぐにその名を教えてくれた、私はそれが嬉しかった。それは母の声が聞けるためか、自分の知識が増えていくためか、あるいはまた何か違う理由があったためか、そこまで自らの複雑な感情を把握するほどの頭はまだ私になかったが、とにかく良い気分ではあった。母の声は、夜の彼方から響く笛の音のように、はっきりとこの耳に届く存在感を持っていながら、どことなく古びた幽幻な含みを隠しているかと思われる、柔らかくも妖しい表情を持つ声であった。

 概ね、母は見せた虫の名前をすぐに教えてくれるだけだったが、そういえばたった一度、芥虫をずっと華奢にしたような、赤い頭の地味な虫を持っていった時には、

「あら、こんなところに蛍なんて。よく見つけたわね」

 と言って、少し喜んでくれた。母はその地味な虫を私の手からそっと摘まみ上げ、自身の白い手のひらに乗せ、もう一方の手をかざして、虫の上に影を落とした。すると私は蛍と呼ばれたその虫の腹から、磨かれた水のように清らかな光が溢れているのに気づいた。

「光っているでしょう。私、蛍好きなのよ」

 母は嬉しそうに言っていたと思う。私はできるなら、すぐにその蛍を取り返し、光る腹を割ってその中身を見てみたかった。けれども、実際にそうする気にはなれなかった。そのうち母は蛍を私の手に返してくれたが、やはりこれをすぐには千切りたくなかった。というか、母に一度見せた虫はすべて、何となく殺すことができなかった。飛蝗も天道虫も、そのまま地面へ逃がすか、池に捨てて溺れる様子を眺めるかの、どちらかの方法で処分するようにしていた。だからその後蛍をどうしたかは忘れたが、多分殺しそびれたと思う。いずれ見飽きた頃合に、存分にばらばらにしようと思い、庭石の窪みあたりに隠したのをすっかり忘れたりでもしたのだろうか。それは幼心に少し惜しかったが、何より母の喜んだ声を聞けたことが記憶に深く残っているので、今思えば殺すことを忘れて良かったのかもしれない。別に殺すところを見られたからと言って、母が何か思うとと決まっていたわけではないが……

 そういった理由で、私は庭石の周りを歩きながら手近に虫、特に蛍なんかがいないかと目を配らせていた。すると丁度、白い玉石の敷き詰められた上に、萌黄色をした小さな精霊飛蝗の姿があるのを見た。私は両手を伸ばしながら一歩近づく。

 その時に右足で踏んだ草の影から、ひゅっと何やら見なれない虫がまた現れた。虫と言ったが、それは腹に体液を湛えた蝶や蛞蝓にも、せわしなく動く脚を持つ蟻や黄金虫にも似ていなかった。強いて近しいものを挙げるとするならば、綿か紙風船などだろう。植物の綿毛が舞っているようにも見えたが、それが風のない庭をゆらゆら彷徨う様は、どうも意志を持って飛行しているとしか思えなかった。

 虫は、その奇妙な見た目に釘付けになっている私と、玉石の上で休み続けている精霊飛蝗の間を、どこへ行くともなくのっそりと飛んでいる。質感が異なるもの同士の対比なので思い違いかもしれないが、丸っこい奇妙な虫は、そこにあった精霊飛蝗よりも、小さく、柔らかそうに見えた。ずっと私のくるぶしあたりの高さを、まるで捕まえてくれと言わんばかりに、円を描いて飛び続けている。軽そうで、鮮やかに光る見た目だった。その色彩は例えるなら、ががんぼなど羽虫からむしった翅を太陽へ透かしたときに零れる光の粒、そんなものを何色か集めて重ねたような、いじらしく繊細でありながら活力を帯びた輝きだった。

 庭に息づく虫のなかで、もっとも美しい一種は玉虫(蛍ではなかった。幼い私にとって蛍は面白い虫だったが、まだその儚い可憐さは理解できなかった)だと思っていた、私は、その翅らしきものも持たずに飛ぶ虫の、刻々と色をうつろわせながらきらめく姿に、ほんの数秒で心を奪われてしまっていた。そして何としても、これを母に見せなくてはならないという気がした。蛍の光を好きだと言った母ならば、この虫のことも好きだろうと思ったのだ。私はしゃがみ、それを両手の中へと包み込むようにして閉じ込める。殺しても惜しくない見慣れた虫なんかより、ずっと大切に扱おうとの注意を、物心ついたばかりの幼い私であったが、精一杯払うようにしていた。

 虫を捕まえたその時は、いつもより柔らかく重ねた手のひらの中の空間に、生物がいる独特の感触がない気がして動揺した。すぐに指の間から虫の光球が見えるのを間違いなく確認すると、母のいる縁側の方に、私は転ばないよう一歩一歩慎重に近づいて行った。

 母は静かに私を見下ろしている。たとえ私が転んでも、笑顔で駆け寄っても、日の当たらない軒下に座って、ただ私を見つめるだけの母。毎度の通りに私は手をほどき、光の虫を無言で差し出した。

 母は何も言わないままで、私の手に捕らわれたそれを見ていた。なぜだか私はその時、ただ事でないような気持ちになった。

 母の声が聞こえてこない、そんなことの理由なんて今なら簡単に思い当たる。珍しさ故に母も見たことのない虫であったとか、名前をとっさに思い出すことができなかったとか――つまり単に私が幼く、自らの快と不快でしか物事を測れなかったから、期待した通りに虫の名を教えてくれなかった母に対する違和感が、不安や恐怖に似た感情となって記憶に残り続けているだけであったというのが、その実なのかもしれない。ただ私にできたことは、覚えている限りでは怯えるような気持ちで、何も言ってくれない母の顔を見ていることだけだった。黙り続ける母の表情は思い出せないが、その目の奥の色は覚えている。ひたすらに真っ黒で、確かに私の持つ虫を映していたはずなのに、まるで巨大な穴の中を覗き込んでいるかのような、ありえないほどの深い暗さを湛えていたのだ。その静かの中に吸い込まれていってしまいそうで、たまらなくなった私は幼い言葉でなんとか、この虫は庭石の影から出てきたことや、地べた近くをゆっくり飛んでいたことを伝えようと努力した。すると母はようやくこれが何者なのか分かったらしく、

「それは夢よ」

 と教えてくれた。

 母がいなくなったのはその晩だった。

 今はどこで何をしているのだろう。顔も思い出せないけれど、なんとなく父や私とは、似ているところがあまりない人だった気がする。唯一、鏡に映る私自身の目を見ていると、どことなく母から浴びた眼差しに感じた雰囲気を思い出すくらいだろうか。父は私に時おり、母の愛情が足りなかったのだろう、といった言葉をかけることがあるが、私には母のいない日々の方が普通であったし、母がいなくても達者に成長する人の方がよほど多いし、その事実はあまり私の人間性とは関係ないだろうと思う。

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