7

 私は昼だ。晴天であり、初夏であった。その朽ちた太陽が一体どこの夢から持って来られたものなのか、今となっては知る由もなかった。

 森が浮かぶ。これも古い夢であり、生い茂る緑の外観にも関わらず、あせて土色に近づいている。続いて古い一本の道が伸び、それを比較的新しいアスファルトが覆い、最後に一切の錆びさえない照明灯が生えて並んだ。

 始まりという地点は夢にもある。気づくとなんの疑いも持たずに、荒唐無稽な意識の中を放浪させられているのが夢だと多くの人は認識しているが、それは私に限ってだけいうと間違いである。ただし脳が休みをとり記憶を整理するために見る本当の夢は、どうなっているのか私は知らない。ひとの頭を開けてしっかり見たことのある私はまだいないからね……

「昨日はおかしな夢を見たんじゃないか」

 トンネルに差し掛かる手前で私はラジオをつけ、運転席のあなたに話しかける。だいたいは馬鹿みたいに古い歌謡曲しか聞こえてこないのだが、ここ最近色々と変わった音声を受信することも多い。今日は効果音付きのラジオドラマのような放送が小さく聞こえてきていた。

「見たわ。凄く気持ち悪かったの」

 左車線を走るトラックを抜いたあなたの車は、トンネルで減速する。

「嫌な夢だったんだね。覚えているどころだけでいいから教えてくれない?」

 トンネルも長い直進だった。あなたはスピードをそっと上げる。他の車は速度がどうも遅すぎる、と気づいてきているかもしれない。

「そうね、忘れられないのは沢山の顔かしら。真っ白な人間の顔がいくつか現れて、大きな目玉でこっちを見てくるのよ」

「それはどこで?」

「どこかしら。見たことのない場所だったと思う。でも小さな部屋だったっていうのは覚えているわ。そこのドアの窓から私は、宙に浮かぶ顔の様子をうかがっていたの」

 高速道路は相変わらずの直進だ。やはりあなた以外の車は、高速道路らしからぬゆっくりとした速さでしか走っていない。ずっと前を走っていたはずの黒いシトロエンを追い抜くと、それもすぐにサイドミラーの彼方に遠ざかっていく。

「もう少し正確に思いだして欲しいな。それは本当に顔だった?」

「顔には違いなかったけれど……ただ、言われてみれば顔だけじゃ説明不足だったかもしれない。鼻から下がない、目元だけを切り出したような顔って言ったら多分正しいわ」

「それがドアの向こうに?」

「……いいえ、違う。ドアの向こうにいたのは、ただの大きな蛾だった。それもたった一匹だけだったのに」

「あなたはそれが人の顔に見えた」

「どうしてそんな風に見えたのか……」

「とうとう思い出したね」

 子供騙しのハリボテのような、立体感のない森が燃えていく。青空はぼろぼろと塵を吐きながら崩れ、照明灯は溶けていく。

 あなたが車を飛ばす先の道は、金属の板をねじ切ったように、いびつに歪んで途絶えている。その向こうは奈落だ。あなたはブレーキを踏んだ。ハンドルを大きく回し、燃える夢の森へ突っ込みそうになりながら、車は高速道路を逆走しようとしだす。しかし、アクセルはついに踏み込まれなかった。

 一八〇度回転した車の、フロントガラスから見上げる空は蠢いていた。私の青空は剥げ落ち、ひしめき合うその本質を露わにさせている。ほとんど誰も見たことがないこの概念的な形状を、ここに来る以前に見知ったあなたは希だ。覚えているはずだ。思い出しただろう。夢のような記憶の中に、ウォーターサーバーのおどみが、視線をあなたへ一斉に向ける、白い顔の集合に見えたという一片があるではないか。

 私はあなたを哀れだと思う。でもどうしようもないことだった、私にもこの夢の顛末を自由に変えることなんかできない。

 空があったその場所に、巨大な顔がひしめきあう。どれもがあいまいでぼやけた顔だ。森も道路も燃え上がり、逃げ場のなくなった三輪トラックを焦がしていく。

 高速道路の夢を見たあの日から、あなたはこうなると決まっていた。セーラー服を着た中学生であるあなたが、マニュアル車の運転を具体的にしている夢を見ていたのは、今までに喰った幾人もの「私」の記憶が、経験が、すでにあなたの心に食い込んでしまっていたからだった。

 ウォーターサーバーから這い出て、私はもうすぐ夢から覚める。次もまた、とても離れた知らないところで……けれども私の長い夢に、ほんの十年あまり現れたあなたのことなんて、きっと溶けるようにすぐ忘れてしまう。だから、あなたもなるべく多くを忘れてきてほしい。

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