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あらゆる人が早回しで生きている。あなたが目前の物事を把握し、構築された自らのシェマを解凍し、次に取るべき行動を考え出しているだけで、時間は信じられないほどの駆け足で経っていく。抽象性を持つ言葉への理解力や、総合的な判断力が日毎に損なわれていき、あなたは真夏の月曜日に、とうとう会社員という立場を捨てざるを得なくなった。
毎日絶望を、それも日に日に深まっていくそれを、打つ手もなく繰り返していたあなたにとっては、そのときが一番のどん底だった。しかしそう感じる意識も、人と人の間にいたからこそ生まれたものである。ひとりになったあなたは、先日まであった圧迫的な自己否定感の直接的な原因からは逃れられたかもしれない。ただその空白に流れ込んでくる虚無感や不安と、どちらがあなたにとって辛いのか、私には分かりかねることだった。
日は昇り、夜は更け、テレビは一秒と遅れることなく番組を流す。タブレットの受信フォルダにある未読メール数は増えていく。差出人のほとんどは恋人だった。おそらくあれ以来、あなたをずっと心配しているのだと思う。あなたは本当にたまに返信メールを送るが、それらは全て、私から見てもうやむやで、言いたいことがよく分からない文面にしかなっていなかった。辛うじて読み取れるのは一貫した、心配させたくないという意思だけだったが、それは恋人同士の思いやりからそう伝えようとしているのではなく、心配されてもそれに返す言葉を考えるのが苦痛だから、もう放っておいてほしいという気持ちを由来としているようであった。電話も時々かかってくる。恋人のほかに故郷の親や友人からの着信履歴も残っている。あなたは電話に出てもまともに喋れない。どうしたの、という当たり前の質問に対しても答えられない。自分がどうなっているのか分からないのだから当然だ。あなたはすぐに電話そのものが嫌いになり、着信の音に悲鳴をあげるほどの恐怖感を持つまでになってしまった。そしてもう丸三日弱、タブレットの電源は落としたままに、電話の線は差込ジャックから抜いたままにされて、どちらもゴミばかりが増える部屋で埋もれるがらくたとなり果てていた。
あなたは不定期に、アパートから歩いて三分程度のコンビニエンスストアへ行く。私もその時は部屋から出て行かなくてはならない。ただそれ以外の時は、もちろんウォーターサーバーのところにいる。
生活のリズムを完全に失ったあなたには、もう決まった時間に行う習慣なんか残っていなかった。喉が乾けば水を飲み、空腹だと感じれば手近なものを食べる。何もなければコンビニへ行く。そこではだいたい一食分の弁当と、数百円分のスナックや菓子パンくらいしか買わない。時おり思い出したかのように、買い置きしたものを一気に食べることもあるけれど、何も食べずにずっとベッドから出てこない日もあった。
毎月頭にダンボールで配達されるミネラルウォーターのストックは、ひとまず潤沢に残されている。サーバーの水が減ったなら台所にあるペットボトルを開け、なみなみとタンクへ補充しなければならないという事項は、あなたの頭の中にわりと強烈に残っているらしく、まだ欠かされたことはない。それとも変な観念にとりつかれ、このウォーターサーバーを経由した冷水でなければ、飲んではいけない気分にでもなっているのであろうか。
閉ざされたカーテンに午後の日差しが透けている。この部屋は空調が効いているが、外の暑さは嫌でも想像がつく。ずっと点けたままになっているテレビの音量は、毎日少しずつあなたが下げている。もともと静けさを好むあなたであったが、日に日に、目が覚めるたび、音に対して神経質になってきているようだった。けれどもテレビを消して完全な無音にだけはしない。その理由はきっと、流れる時の指針がないと、時間の底に取り残されてしまう気がしてしまうからだろう。それはアナログ時計だけでは不十分なものだ。だって孤独に動く針だけじゃあ、外界とのつながりにはなってくれないから……
私は振動も静寂も甘んじて受け入れる。テレビはまだ眠っているあなたを突き放すように、こんこんと新しい話題を発している。データ化された均一な音量で語るアナウンサーの声、効果音……少し大きく響くCFのはっきりとした輪郭を持つ振動。私は受動的でありながら貪欲に、水と重なっていく自己を迎え入れていた。夢よりも閉ざされたウォーターサーバーの中で、あなたに今一度の別れを告げる時が来るのだから、私の心は洗われている。あなたが私の夢を見るのが分かる。あなたの心と私の距離はあと僅かだった。
でもそれは、私にはどうしようもないことなのだ。時間は勝手に過ぎていくし、ものを考えても虚しい。だからまた昨日とも一昨日とも同じように、ひたすらテレビの明るさを、水の振動を経由し味わっていると、ようやく起きたあなたが身を起こし、ベッドから立ち上がろうとしている様子が私にも見えた。
あなたはもう思い出す。始めて夢を見た少女の日から、あなたの時は撓められ、現在に至るように決められていた。今のあなたは少女のあなたと何も変わっていない。これまで現実を生きていたのは、高校生のあなたも、大学生のあなたも、求人広告代理会社員のあなたも、すべて夢に歪められた、あるべきでない仮りそめのあなただった。
今や心は葉に枝、幹の皮さえ削ぎ落とされて、一〇年以上夢に抑圧されていた本当のあなたを露出させている。それは過去に置き去りにしたままの、錆びきった使いものにならない心でしかない。これまで見た夢の記憶が一斉に蘇る。なぜずっと同じ夢を見ていたのだろう。あなたが持てる確かな疑問は、もはやそのひとつだけだ。
あなたはおぼつかない足取りで、私の方へと歩いてきている。そういえばかなり長いこと眠っていたのだから、とにかく喉が渇いているはずだ。パンの袋や弁当の容器も片付けられていない床で、力なく横たわる曇ったコップを、あなたは鈍い動作で拾い上げる。そしてサーバーのスイッチを入れようとしたので、私は水流を避けようと少しその場から離れた。しかしあなたは水を注ごうとしない。ボタンを押そうと持ち上げた右手を、焦点が定まらない瞳のようにさまよわせただけで、しばらくするとまたベッドへと戻っていってしまった。プラスチックのコップは枕元に投げられた。
あなたはベッドの上に転がり、テレビの方を眺めていた。内容を理解した上で暇を潰しているのではなくて、ただ人間らしく番組を見ているふりをしているだけの行為だ。そこから何も得ていない。振動さえあなたの体を素通りしていっている。意味がないままのあなたはしばらくそうしていた。
窓辺に西日の気配を感じる時刻になったころ、私はひときわ大きな振動に揺さぶられた。それはインターホンのチャイムだった。あなたは三度目のそれでだるそうに起き、壁付けの親機の方へと非常にゆっくり歩いた。その間にも連続でチャイムは鳴っていた。
あなたは受話器を取る。相手の声は私にも聞こえた。それはあなたの恋人の声で、あなたの恋人の名前を告げていた。あなたは何も言わずに受話器を置く。
またチャイムが鳴る。あなたは出ない。それでも誰か来ているのを何とかしなければという気持ちはあるらしく、あなたはオートロックの開錠もしていないのに玄関へと歩いていく。
チャイムはまだ連打されている。あなたは扉の前に立った。足取りは止まっている。私は水から出てあなたの後ろに来た。あなたの耳元で私は囁く。吸い込まれるがごとくあなたはドアスコープに右目を近づける。
あなたは後ずさりした。それから部屋の中を走って、ベッドへと倒れ込んだ。チャイムの連打はなくなった。私はいつもの場所に戻って、またあなたを見つめ続ける。テレビの番組は子ども向けのアニメが始まったばかりだった。カラフルで可愛らしい音と拍動は、囲われた水の実体に優しく響き、そこに乗り込む私にも、浅ましい安堵を与えてくれた。
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