5

 法律の改訂や新しいソフトウェアの機能を覚えるよりも、人の顔を覚える方が今のあなたにとって苦痛だろう。いや、それよりも感覚と印象で記憶してきた過去の顔を、具体的に展開して思い出そうとする方がずっと難しかったかもしれない。

 私はあなたと過ごしながら、私自身のいくつかの記憶が、この心で風のように過ぎっていくのを感じることもある。ひとりの人として具体的に目で見た風景や、肌で感じた触覚はもうどこかに失われてしまったけれど、あなたと重なる感情ならば、勘を取り戻していくようにするすると思い出せる。私が今のあなたを理解できるのは、長いつき合いであなたを知り尽くしているからというだけではなく、そういった埋蔵された経験が底なしに深くあるからなのだ。

 夕方、外回りから帰社したあなたは、本社ビルの前で二人組の男性に話しかけられた。

「お疲れ様です」

 やたら作ったような笑顔に見えた。あなたは何も言わず、不規則に瞬きをするだけ。彼らが誰なのか思い出せないようだ。近ごろノートに書き加えた顔なのかどうか、それすらも分かっていない。いつも会社で顔を合わせている人であるような気もしない。どこかで会った覚えは確かにある。ただ、思い出すために、その記憶を組み立てて自己の中にアウトプットしようとすると、激しい干渉が頭を痛めつけ、飛び散る情報の火花に視界が眩みそうになってしまう。

 背の低い方の男が、少し話をしていいかともうひとりに尋ねた。いいよいいよ、という返事をもらうと、その男性は嬉しそうに、さらに続けて話しかけてきた。あなたは相槌を打つばかりで内容は多分聞いていない。背の高い方は、別段あなたに気を使わない様子で、携帯電話を見たり、車が走っているだけの大通りに投げやりな視線を向けていたりした。

 あなたは何となくだけで頷きながら、一方的に喋っている男性の顔をひたすらに見つめている。思い出せる顔との手当たり次第な照合なんかが、あなたの頭の中では今行われているのだろう。

 注意して見れば見るほど、概念はばらけて纏りを失っていく。あなたは惨めな気持ちになっていることだろう。あなた以外の人間なら他人の顔なんて、最も分かりやすいパーソナリティの具体化として、真っ先に受け入れられるものなのだ。あなたときたら、無造作にぶちまけられた概念を這いつくばるように掻き集め、正しい形に復元し、それからようやく目の前にある顔を人の情報として認識し始めるのだから。

「……またあとでゆっくり、メールでもしましょう」

 別れ際にそう言って、本社ビルの前を通り過ぎていった、男達の後ろ姿をあなたは見届けていた。とても反省している様子だった。顔を覚えていなかったために、外部の人間に悪印象を与えてしまう言動をしてしまったかもしれない。その上話の内容を集中して聞ける状態ではなかった。仕事に関わってくる内容については頭に叩き込み、最低限のアンテナを張っているので、彼らの言葉の中にそういった取っかかりが具体的に出てきたならば、何とか気づいてその言伝てを覚えることだけに専念できたかもしれない。でもなんだか、彼らは関係のない個人的な話ばかりをしていたのではないか、とあなたは考える。クーラーにけだるい涼しさをつくられた社内で、エレベーターを待ちつつ、あなたはその手がかりをたぐり寄せて思い出した。

 あの男の人は、自分の生活の話ばかりをしていた。最近は仕事が落ちついてよく眠れるのだとか、流行りの映画を見てとても面白かっただとか……

 それらの少しあと、あなたはメールを受け取った。あなたの目に映ったのは、さっき体調が悪そうだったけど大丈夫? とフランクにあなたを心配している書き出しだった。差出人は遠くに転勤して久しい、一歳年下の恋人だった。メールの文章は以降、久しぶりにこちらへ滞在することになったので都合のいいデートの日取りはあるか、といった内容へと続いている。最近はなかなか連絡ができなくて寂しい、仕事は大変そうか、というような言葉も見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る