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 あなたは非常口の鍵を開けた。今日は立て込んでいた仕事のため、普段より帰りが遅くなってしまった。階段を上り、三階の外廊下へと歩く。切れかけて点滅している蛍光灯なんか、あってもなくても構わないくらい体に染みついた足取りである。

 そのまますぐ自室へ入る、ともちろん私は思っていた。だが、あなたはその少し手前で立ち止まった。私は何事か、と少し考えてからすぐ、理由を発見した。あなたの部屋の扉の、すぐ横へ置かれている消火器で、ひと月前に見かけたものと同じ種類だと思しき、大きな蛾がその翅を休めていたのだった。新雪の積もった枝のような触覚と、柔らかなスノーホワイトの鱗粉をまとった身で、ピンで刺された標本みたく微動だにせず、真新しい光沢の赤をした消火器に、軽やかな白を浮かび上がらせていた。

 私はその姿を可憐だと思っているのだが、あなたはどうしても怖いようで、なるべく距離をとり、目玉模様の紋で虚空を見つめる蛾を刺激せぬよう、恐る恐るその横を通り過ぎて行った。

 鍵を開け、扉も普段より静かに引いて、自宅へ入るとすぐに閉める。それからはまた習慣通り、スーツを脱いでシャワーを浴びに行く。私はウォーターサーバーの冷水に漠然とした自分の形を溶かし、時が流れるのを待つ。

 大学生のころから着続け、そろそろくたびれかけているワンピースパジャマで戻ってきたあなたは、クローゼットの前に置いた鞄の前にかがみ、一冊の青いバインダーノートを出した。蛸足配線に繋いだままのドライヤーで髪を乾かすこともせず、机の前に座ったあなたはノートを開く。それはこの数日、あなたがしきりに取っていたメモだった。

〈◇さん 155センチ? 私より細い 茶髪 ☆ちゃんに似てる鼻 ラメのグロス〉

〈◎さん 165センチ? 日焼け お笑いの×みたいな声 目元が人事の□さん〉

 ……(ページ毎にその人の名刺がセロテープで貼りつけられている。上手ではないが、簡単で分かりやすい似顔絵も描かれている)

 濡れて束になった長い髪の先からは水滴が滲み、木綿のパジャマにべたついた染みをつくっている。あなたはやがてノートを閉じ、机の上に倒れていた卓上ミラーを立たせ、ドライヤーで髪を乾かし始める。鏡に映るのは暗い顔だ。新人のころ、業務を覚えるためにノートを作り、家でも熱心に見返していたときの様子とそれはそれは違った。分からないことを知り、身につけて、自分が会社の構成員として成長していくのを実感していた当時は、忙しかったが今に比べればずっと気分は良かったはずだ。失っていくものを引き止めようと足掻かなければならない悲しさは、長く生きればいつかは知ることになるが、若いあなたにとっては唐突過ぎた。

 テレビが点き、時が経つ。あなたは台所で茹でたスパゲッティに、レトルトのカルボナーラソースをかけて啜っていた。食べ終わって食器を流し台に置き、戻ってくるとタブレットを触りながらまたテレビを見る。私はキャッチーで華やかな音による水の振動を受けながら、昨日や一昨日と変わらず過ごしていた。

 そのうちあなたはテレビを消し、洗面台で歯を磨いたり美容液を塗ったりしてきてからベッドに入り、枕元のラックに入れてあった雑誌を少しのあいだ読んでから、リモコンの操作で電気を消して掛け布団を被った。私は夜を更けさせる掛け時計の針の音に、何かを忘れているような引っかかりを感じていたのだが、少し時間を振り返ってみてそれの正体をすぐ見つける。今夜、あなたはウォーターサーバーから水を注いで飲まなかったのだ。寝起きにコップ一杯の水を飲む習慣は、もうずいぶん長く続いている。確か高校一年生のとき、テレビ番組の美容法で見て以来だと思う。その当時は低血圧気だったあなただったが、それを始めてから朝の満員電車で立っているのが少し楽になり(期待していたのはニキビの出やすい肌質の改善らしかったが)、続けることにしたのではなかっただろうか。小さなきっかけなのであなたは覚えていないかもしれない。

 今日ウォーターサーバーの水を飲まなかったのは、急に忙しくなった仕事に生活のリズムを崩され忘れたからだろうか。それかもう、すぐそこまで来てしまっているのだろうか?

 朝になると、あなたは忘れずに私の方へ来た。テーブルに伏せられていたプラスチックのコップを取り、サーバーのボタンを押し、水を注ぐ。水位が三分の一ほどになったサーバーに、ペットボトルのミネラルウォーターを補充することも忘れなかった。私は考えたが、今のこの行動は、あなたの感覚が夢に喰い尽くされていないからできた、というより、単に喉の渇きで水が飲みたくて仕方なくなったから、あなたに限らない当たり前のことをやっただけなのかもしれない。昨晩は暑かった。あなたの額は少々寝汗を帯びていた。

 今どき裸電球の白熱灯がソケットに挿さっている、型が古い洗面台の電灯スイッチをあなたは押して点けた。鏡に映るあなたの顔は少しむくんでいるだけで、目立っていつもと変わったところはない。それにも関わらず、あなたは蛇口をひねろうとしないで、重そうな瞼のまま自分の顔と対峙していた。笑ってみたり、眉や小鼻を動かしてみたりと、しばらく繰り返し、「あ、あ、あ」とマイクテストのような声を出してから、あなたはようやく冷水で顔を洗い始める。洗顔剤を泡立て、すすぎ落とし、タオルで水気を拭きとり、化粧水を肌に擦り込む。もう何もおかしな様子はなく、あなたは昨日と同じように、今日も朝の支度を慣習的リズムにまかせて手際よく済ませた。

 スーツの上を羽おり、私には忘れかけられていた青いバインダーノートも鞄に入れる。玄関のたたきで黒革のパンプスを履き、扉に手をかける。すると、また一枚郵便受けから明細書が洩れた。薄い紙がひらひらと舞いながらコンクリートの上に落ちていく。あなたは動きを止めて、白い明細書を凝視していた。それから落ちた一枚を拾い、ごっそり溜まっている十数枚もかき集めて掴む。パンプスを蹴飛ばすように脱いで、洗面台横のゴミ箱まで歩き、それらの明細書を投げ込んで捨てる。あなたはそのまましばらく、鏡の前でうつむいていた。腕時計の針だけが動いている。その規則性に急かされたように、やがてあなたは部屋を出た。

 戸締りをしながら消火器の方を気にするあなたに、よく昨晩の蛾のことなんか覚えているなと私は思った。そこにはもう何もいない。あなたは螺旋階段を下りていく。今日は朝から日差しが強い。非常階段の鉄板はもう熱を持っており、潤いを奪う夏の明快な暑さが、夢から覚め切らない私たちを迎えていた。

 もうあなたが車の発進に戸惑わない朝はない。いつも通りに、体が覚えている通りに、と考えれば考えるほど、あなたと現実のギャップは深くなっていく。忘れてはならない仕事のことだけは、一夜漬けのテストに挑む学生の真似で、あなたは無理矢理記憶に刻みつけているようだけれども、それはとても大変なことだと思う。細かな心の枝葉達は、もうすでに失われてしまっているからだ。大樹を飲み込む炎のように、弱い部分、薄い部分から夢は食っていく。

 全てを夢に食われてしまったら、心は何もかも失った根幹だけになって立枯れていく。根幹とは物心つく前に形成される土台だ。どんなに大切にしているつもりの思い出も、夢は時間さえかければそぎ落とすことができる。残りの幹、あなたは今やその木肌に、業務のメモをナイフで彫って記録しているにすぎない。

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