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 その日から、あなたは車を出す前に少しの違和感を持つことがあるようになった。それは必ず朝である。取引先に車を出す時や帰社する時、あるいは休日にのんびりと支度してから買い物へ出かける時などではない。出勤するべくアパートの非常階段を下りて、車を走らせようとしたその時だけに感じるのだ。

 眠りから覚めたばかりの、夢の面影が薄まる少し前の時間は、体が感じる現実にどこか不確定なものを感じる、そんな現象が人間には時々ある。それはいつしか言葉によって、寝ぼけた状態ということに定義された。誰にも身に覚えがある程度のものだ。しかし化粧をしてスーツを着て、まだ寝ぼけているなんてことはないとあなたは思うだろう。あなたが見ている夢は、体の覚醒とともに忘れられていく、健常なありふれた夢に擬態しているが本質は違う。夜な夜な心に絡みつき、朝日とともに消えゆくふりをしながら、あなたに食い込んだ跡を残していくのがそれだ。夜毎に深まる痕跡から、あなたの目に映る現実は溶け出して、やがて夢と混ざり合うようになっていく。

 あなたはあなたなりに努力しているおかげで、仕事のため忘れてはいけない人の顔は覚えていられるようである。昨日出向いた取引先の、新しく完成するショッピングモールの外交である△氏の顔なんか、私はすっかり忘れてしまっていた。髪型と特徴的な眼鏡を変えられると、私は人を全然識別できない。昔からそうだった。そのせいで苦労したことも沢山あっただろう。私には自己流の、人の顔をパーツごとに消化して覚える方法があるけれど、そういえばこれもいつかの末期に苦肉の策であみ出したものだった。あなたも近いうちに使い始めるようになるかもしれない。

 概念と印象を結びつけ、合致する人の顔を記憶から取り出すということと、顔という物体を見たままの情報で噛み砕き、幾つもの連ねた言葉にして記憶するということは全く違う。そして前者を司る感覚の方が、侵食しているこの夢に対しては脆い。なぜなら概念を蒸留して印象だけになった世界にある意識を、私たちはまさに夢と呼んでいるからだ。でもあなたがあなたでいる内に、そういった本来の夢が喰いつぶされていることの異常さに、感覚的ではない事実として気づくことは多分ないだろう。

 また、人には生まれつき得意な記憶の方法があって、あなたはどうも印象と感覚でもって全体的に物事をとらえるのに長けている傾向にある。そして今まさに、その進行による症状があなたを悩ませていた。今日は祝日なので、あなたは高校生のころからの友達と待ち合わせ、少し前に訪れたことのある、人気のレストランへと行こうとしていた。

 地下鉄の改札口を抜けた先にすぐある、いつ行っても雑然とごった返している地下街を、過去に訪れた数回は友達に案内されながら見て回った。今日のあなたはひとりでレストランのすぐ前まで行き、その場で友人と合流するつもりだった。

 いわゆる土地勘の良いあなたは、何度か訪れた場所であるにも関わらず、あからさまに道に迷ってしまうという経験をあまりしたことがない。大きな改装工事を施したデパートなども、細かな店の位置が覚えられなかったりはするが、建物の基礎的な構造が変わっていなければ、最短ルートを大きく外さないで目的地へと歩いていける。これは現場にある目印や、平面の上に書き出された地図だけを頭へ詰め込んでできることではない。あなたは自分の歩いた距離や、目印から目印への所要時間を、感覚的に把握して測り覚えていたのだ。

 改札近くよりは人の流れが穏やかだが、それでも混んでいる地下の通りを歩きながら、あなたは覚えている限りの目印がなかなか見えてこないことに不安を抱き始めたようだ。腕時計を見る。もうすぐ一一時半、待ち合わせの時間だ。地下街の細々した店の並びは、あなたにとっては代わり映えのしない様相だったのかもしれない。一本道の大通りしかない場所で迷うなど、今までのあなたでは考えられなかったことだろう。

 あなたはまた歩きだす。改札を出てからどれほどの時間が経ったのか、どこまで来たのか、そんな簡単なことを考えようとする当たり前の機転さえ頭から抜け落ちてしまっている。どんどん地下街の先へと歩いていくが、あなたが迷ってしまった理由はとても他愛なく、イルカのオブジェやロリータファッションの店など、覚えやすい目印をことごとく見落として通り過ぎてしまったからである。

 あなたはようやく足を止める。そこは広間だった。中央には円筒状の大きな水槽があり、豊かに茂る水草や、何種類かの鮮やかな熱帯魚達が、そこにゆらゆらと住まわされていた。電灯は店の並ぶ通りよりも少し淡い。水槽を囲う形に置かれたベンチで休憩する家族連れの姿が見える。あなたは再び時計を見た。一一時半ちょうどだった。この広間は待ち合わせのレストランへと行くにあたっては、絶対に通るはずのない場所だ。このまま歩いていては地下鉄の次の駅にまで着くところだった。ここであなたはレストランをずっと通り過ぎてしまっていたことにとやっと気づいた。

 どう急いでも待たせてしまうことが決定した友人に、あなたは短いメールを送った。それから早足に地下街を引き返し始める。逃げるように、時間を巻き戻すように、くるくると元来た道を辿っていった。

 その後ようやく友人を見つけ、約束のレストランにふたりで入ることができた。あなた達がそこで魚の香草焼きやサラダのランチプレートを食べている間、美味しいものなんか見てもどうしようもない私はというと、テーブルに置かれたガラスのウォーターピッチャーをただ眺めていたのだった。薄い輪切りのレモンと、不揃いな大きさのロックアイスが、炭酸のはじける泡に包まれて、水の振動と共に揺れているのを見ていた。

 ふたりはしばらくの間、転勤を機に疎遠になってしまったあなたの恋人について話し込んでいた。それは以前にも散々だべりつくしていた話題だ。あなたと友人はそれでも無尽蔵におしゃべりの内容が出てくるようだった。

 正午を過ぎて店の活気は増してきた。しかし騒がしいとは感じない、落ち着いた雰囲気のレストランだった。大所帯や幼い子どもがあまり見当たらない店内は、静かなアコースティックギターの音楽と、まるで暖炉を灯した夜くらいの心地よい薄暗さにひたされ、おだやかに流れる時間のイメージをつくりだしていた。結露に曇っていくウォーターピッチャーは、壁掛けの間接照明から放たれるセピア色の光を浴びて、ウッドテーブルにスモーククリスタルのような甘い影を落としている。あなたの友人はそれの取手を持ち、からになったグラスを近づけ、レモンの浮かぶ水面を静かに傾けた。氷の澄んだ響きと、スパークリングウォーターの泡がはじける音に、私は動的な清涼感をもって聞き入った。

 よくよく寄り添っていると、炭酸は常に少しずつ注ぎ口から抜けていっているのが分かる。時間が経つのに沿って、ロックアイスはあやふやな丸みをつくりながら小さく溶け出し、スパークリングウォーターは気を衰退させ、発する泡の量を徐々に減らしていく。ウォーターピッチャーのガラスの表面を滑る汗は、一滴また一滴と流れ落ちてテーブルを濡らしている。落ち着き払って音もなく滑り落ちる真水は、動的な中身と相対し、奇妙なコントラストをつくっていた。

 理由のない意識が求められるものなど限られている。私はあなた達が席を立つまで、飽きもせずこうして水に侍らされているだろう。

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