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 あなたは近ごろ、記憶力が悪くなったような気がしているかもしれない。特に人の顔なんかは、覚えたり、思い出したりするのが苦手になってきていないだろうか。そういう時は印象や主観でなはなく、具体的な言葉に置き換えて覚えるといい。例えば今日出会ったクライアントの△氏は、三〇歳代、あなたより背が一〇センチほど高く、痩せているが肩幅は広く、眼鏡は太い黒縁、やや離れた細い目は右目だけが奥二重で、小鼻が通っており、下唇の厚い口角は下がり、狭い顎は細く……と、もちろんこんなことを気にして観察する必要は普通ないのだが、もしもアドバイスすることができたなら、いつか役立ててもらえる日が来ると思う(無理な話だからむなしい)。

 あなたは彼の名刺に付箋を貼り、今日の日付と仕事の概要を書いていた。きっと頭の中ではその顔を何度も思い出して、忘れないように注意していることだろう。常に多くの人について覚えなければならないあなたは、自身の異変に気づくのが、私たちよりも少し早くなるのではないか。それで何かが変わることもないけれど、見ている分には興味深い。

 ひとまず今日はつつがなく過ごすことができた。あなたの中にたゆたう夢は、薄もやのように朧ろな姿を現実へと伸ばしてきている。それがどこまで這い寄って来ていたか、ようやく私にも少し理解できそうだった。

 薄汚れた街灯が二本しかない、アパートの暗い駐車場をあなたの車が照らす。いつも疲れて帰ってくるあなたは、今夜も深い眠りに落ちるのだろう。見るべき夢はそこにない。

 エンジンを止め、車から降りたあなたは、裏の非常口を開けて三階の自宅へと上り始めた。

 パンプスのウッドソールで打つ足音は、朝と同じように鳴っているはずなのに、刃こぼれしたようにどこか鈍く、違う感じに聞こえる。塗装の剥げた鉄板の階段が臭う、じとついた初夏の夜だ。そびえる建物で狭められた、この街の空にうかがえるのは、暗い藍色の薄雲と光る飛行機の点滅。玄関ではなくここを通るのは、単純な移動距離で比べると確かに近道といえるが、つまり普通の階段より段差がきついこの螺旋階段を上るということなので、労力で比べるとそれほど変わらないように私は思う。

 パンプスは鉄板を踏み鳴らし続ける。三階まであと数段のところで、電灯に照らされた鉄柱に、目玉のような模様を持った白い蛾が止まっているのを私は見つけた。大きな虫が嫌いなあなたもそれに気づいたようで、蛾の大きな翅が目に映らないように、視線をずらし階段を急いで上り行こうとした。

 そしてあなたは三階の外廊下までたどり着く。そのとき、蛾は青白い翅をはたりと上下に動かした。私は少しだけその蛾を見た。すると角度の微妙な変化のせいで、左右の翅にひとつずつ描かれた丸い目玉の紋が、私たちの動きを追っているように……睨んでいるように……錯覚させられて少し面白かった。もちろん見間違いだとは分かっていた。

 明かりの消えたテナントビルと向かいあう外廊下の端、三〇八号室の鍵をあなたは開ける。壁のスイッチを押して照明を点ける。玄関マットには今朝落とした光熱費の明細書が落ちている。あなたはそれを拾い上げ、日付も額面も読まず、すぐ手の中でくしゃくしゃに丸めた。

 黒のパンプスは今日も無造作に脱ぎ去られる。あなたは洗面台横のゴミ箱に丸めた明細書を捨て、ワンルームの隅に鞄を置き、ベージュのスーツとフレアスカートを手早く脱いでハンガーにかけ、クローゼットに吊るしてそのアコーディオンドアを閉めた。その夏物の新しいブラウスは、つい最近デパートで奮発した一品であるが、ストッキングの下に透ける灰色の下着は、スーパーマーケットで値段を見て適当に買った、いやに野暮ったい安物だ。私にとってはどうでも良いことなのだが、恋人が遠くに引っ越してからは、見えない身なりに気を使わなくなったなと思う。

 あなたは机の定位置にあるリモコンを手にし、クーラーのスイッチを入れた。冷え性のあなたはあまり温度を低く設定しない。私は冷たいところが好きなので、あなたの部屋にいるときは、テレビの横にある小さなウォーターサーバーへと体を寄せている。去年にあなたが友人に一式を譲られてから設置したもので、以来、私は部屋では動き回らず、この水の冷たい中でじっとしていることが多い。

 あなたはベッドの上に脱いだままにしていた、マリンボーダーのワンピースパジャマを掴み、ユニットバスへと入っていく。その気だるい足音に何となく耳をすませながら、冷たくどこよりも心地良いこの場所で、私は呑気に留まっている。決して鮮烈に流れることなどなく、タンクの中で静かに、寝かしつけられた子どものように横たわる水は、私にとって理想的な拠り所であった。自然とは反する奇観の清純さにそっと寄り添っていると、私はまるで自分が始めからそういった、人間の意識とはなんら関係のない、原始的な何者かであったかのような錯覚を得ることができた。時の中でしんしんとたたずむ、感情や孤独の概念を持たない、一個の存在に返るのだ。

 水は、ドアの開閉や、パジャマを着たあなたが戻ってくる足音や、エアコンの起動音、にぎやかなテレビの音声など、あなたがこの部屋で起こす生活音の、全てを振動にして吸収する。それらを刺激として受け取り、透明なタンクに封じられた水と、私はひそやかな共鳴をする。ここでは私の嫌いな「流れ」が生じる場面があまりない。あるとしても、あなたが水をコップに注いで飲むときくらいに限られている。あなたは朝と、夜眠る前に水を飲む。また、タンクは時おりペットボトルのミネラルウォーターを補充しなければならない。その際にもやはり水流は発生する。だからあなたがウォーターサーバーを使おうとしているのに気づくと、私は少し場所を移動することにしている。流れを得た冷水の清らかさは鮮烈で、あやふやな私がそこにいると少しだけ当てられてしまうからだ。さて、夜も更け、テレビを見ていたあなたが腰を上げ近づいてきたので、私はここから退散しなければ。コップを打つ水音が終わっても、発生する水の渦に舞い上げられた、肉眼で見えるか定かでないほど微細な、ミネラルの澱が底に沈みきるまでは戻らない。

 気になる音があると安らがないあなたがベッドに入り、眠りに落ちる静かな夜中になっても、街のアパートにあるこの部屋が、完全な無音になることなんてない。空調、冷蔵庫、外を走る車、雨風……ゆりかごみたいに水は震え、私をあやし続ける。暑い夏でも寒い冬の夜明けでも、この水は機械の制御で変わらない温度を保っている。このウォーターサーバーからテーブルを挟み、少し離れた位置にあるベッド、そこでほとんど身動きをとることなく眠るあなたを見ていながら、何もできない私は思う。自分の存在がそういうものであることは分かりきっているし、この夢喰う夢からあなたを助ける理由も、助けない理由もないのだから、中途半端で不安定に揺さぶられる浅はかな気持ちなど、最初から認識できないならどれほど良かったか、と考えることもある。だから飛びきり漠然としたものでも良いので、私はここに居させられている理由、水に引き止められている証明を、言葉にして考えなければならないと常々思っている。大部分が闇である部屋の中で、私と、水を囲った機械は溶け合って、外界からの小さな刺激を貪り、このまま考え続けて夜を明かすのだ。

 そして夜通し私と同調させられている、哀れなただのウォーターサーバーは、あなたが眠る暗がりの中でも、いつだって小さな青い電源ランプを光らせている。私の気持ちを落ち着かせる要因のひとつに、非力なこの光の存在もあるのかもしれない。人工物でありながら不純なものを感じない光は、私の感性にとってだけかもしれないが珍しい。蛍光灯や電球、または外で見かける似た色の電飾などよりも、月光や本物の蛍の光に近い、冴えた瑞々しさを放っているように感じられる。

 私は蛍が好きだ。あやふやな感覚の中で、はっきりと言える数少ない事柄のひとつである。けれども私が私の記憶をたどり、蛍の映った具体的な情景を思い出して心に蘇らせることはできない。蛍と、その光の感触を知っているのにも関わらずだ。あなたが蛍を見たことがないのだから、仕方ない話ではある。

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