水夢の澱
ファラ崎士元
《平成二五年度の私》
1
なぜ高速道路の夢を見るのか。
その疑問を持つとき、あなたは少女に戻るだろう。
車を運転しない日は滅多にない。あなたにとってオートマ車の柔らかいアクセルは、右足の一部のように扱いなれたものだと思う。そういう人は夢の中でも運転をする。見知らぬ道を走る夢。事故に遭う夢。人を轢く夢。目が覚めると同時に忘れながら、人は夜に夢を見る。しかしそれは記憶が作った、精神の機能としての健全な夢だ。
思い出してはいけない。あなたは少しずつ、ひとつの夢に近づいている。昨日はどこまで覚えていた? 空は晴れていたか? ラジオは聞いていたか? 最後に追い抜いたのは黒のシトロエンだったか?
その進行を私は把握することができない。ただ大樹の形をしたあなたの心が、末端の枝葉から夢に噛み砕かれ、喰われていくのを、水に揺られて見ているしかないのだ。
心に概念として蓄積するものには、必ず過去の経験、記憶が関わっている。それらに見せられる夢は、どんなに滅茶苦茶なものだとしても、全てが現実と地続きの精神だ。夢は精神の維持と調節に欠かせない、大切な心の働きである。
朝のニュース番組で、八時一五分の星占いが始まる。あなたはテレビを消して出勤する。毎日繰り返して身に染みた、あなたにとって当然の行動だ。しかしあなたがそのリズムを得てから、まだほんの三年弱であるのを心は知っている。遠方へと通う高校生だった時分や、規則もなく気の向くまま寝起きしていた大学生の時分など、あなたを形作る何層ものあなたは、まだ分厚く心の内側に残り続けている。
あなたは狭い玄関のたたきでパンプスを履き、外へ出た。閉められたドアの郵便受けには、光熱費の明細書が溜まっている。その一枚がはらりと玄関マットの上に落ちたが、あなたが気づくのは夜になって部屋に帰って来たときになるだろう。
さきほどテレビで、しばらくは一日中蒸し暑い日が続くでしょう、と天気予報が報じているのを私も見た。パンプスが鉄板の螺旋階段を打つ、その足音が湿った空気を震わせて高らかに響く。あなたは滅多にアパートの正面からは外へ出ない。裏の非常階段から下りた方が駐車場へと行くには近いからだった。オートロックだがその裏口も正面玄関と同じ鍵で開くので便利だ。
あなたが車を停めている駐車場には、昨夜ぱらついた雨のため、水たまりがまばらにいくつもできていた。けれども今の天気はすっかり晴れていて、陰りのない白い太陽が、街にしたたる水の玉を光らせている。濡れた駐車場を見渡せば、古いアスファルトの弛んだ深い水たまりに、空とアパートとあなたの青い車が映っているという、清新な眺めに気づくこともできる。
しかしあなたは今抱えている仕事について考えるので精一杯だった。私が悲しい気持ちになるのは、あなたのせいではない。私自身が情けなく思われてくるからだ。感受性や豊かな気分は、共有する何者かがいてこそ価値がある。というか意識とは、人が自覚し、さらに人と人の間にあって、ようやくその存在を確認できる、果てしなく曖昧なものでしかない。私がひとりで何かに感銘をうけたとしても、だからどうしたという話にしかならないのだ。
そして昨日と同じように、あなたは車に乗り込んだ。助手席に鞄を置いて、エンジンをかけてから……どこも変わることはない、毎日繰り返し続けた一連の動作の途中で、あなたは不意にまごついた。足元のあたりを見ている。どうもそこに違和感があるようだ。あなたは何かを思い出すように左足の位置を適当に変えてから、腑に落ちないような、自分の行動に納得しないようなため息をつき、手馴れた運転でいつもの通りへと車を出した。
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