複雑骨折

 秋の気配を感じる夕方に、監督から一本の電話があった。

 明日から練習に参加してくれないか、という内容だった。

 俺はあれから一度もサッカー部に行っていない。

 正確には行けなかった。認めるのが怖くて。


 普通、運動して熱くなった身体から発汗が起こり、その汗が皮膚の上で蒸発する際に、身体から熱を奪い体温が下がる。そうやって人間は動き続けている。

 しかし、俺は多汗症を抑える薬を飲んでいる。薬を飲むと汗がも出ない。つまり、上がった体温を自然に下げる機能がないのだ。

 薬は一日一粒。効果は一日。飲まなければ滝汗。飲まなければ外に出られない。

 飲まなければ俺は俺でいられない。

 でも、薬を飲めば二度と俺は……


 本当はとっくに気づいていた。

 学校に行けるようになってから数日後、一人でサッカーをしたあの日に。

 河川敷のグラウンドで倒れていた俺に声をかけてくれたおじさん。あの時はお礼を言えなくてごめんなさい。そう、ただ怖かったんだ。その事実が。

 俺はできないんじゃない。自分の意思で

 そう思っていたかったのに。

 監督からの電話を力無く切る。返事はできなかった。



 ────気がつくと俺はサッカーボールを片手に、スパイクを履いて家を飛び出していた。


 体育の時間も本気で走れなかったせいか、すぐに息が上がった。それでも走り続けた。十八時の闇が俺を不気味になぞる。どこからか焼き魚のいい匂いがした。そう思って顔を上げてみる。見渡す限り暗かった。

 車のヘッドライトがすぐ横を走り抜ける。葉と葉は抱き合い自然の音を垂れ流す。血の味が口全体に広がってきた。唾液の塊みたいな、よく分からないものが口の中を彷徨く。

 どれくらい走っただろうか、限界を迎えた俺の身体は知らない公園に辿り着いた。

 テニスコート一面分ほどの小さな公園には、青白い光を放つ球型きゅうけいの街路灯一つと、その脇に並んでベンチが二つ、ポツンとあるだけだった。

 元々芝でも生えていたのか、枯れた緑が所々見える。


 俺の脳味噌は沸騰し、頭の先からつま先まで、全ての熱が身体から出たがっていた。だけど汗は一滴も出ない。息が苦しい。目眩がする。

 ふと足元に視線を落とすと、そこには街路灯に照らされて、黒くなった俺の化身がいた。無垢な自分が懐かしくなるほど光を失っていた。そいつは俺にずっとまとわり付いてくる。お前はもう逃げられないんだよ、とでも言うように。


「……ふぅ」

 でも、まだ倒れるわけにはいかない。

 持ってきたサッカーボールを夜空に高く蹴り上げ、目を瞑る。



 ____ここは、俺の最後のグラウンド。


 ボールが地面に落ちる音を合図に俺は駆ける。

 とうに身体は臨界点に達していた。

 一歩が痛い。ひと蹴りが重い。だけど俺はドリブルをやめない。


 想像する。目の前の敵を。抜いても抜いてもその先に何度も創造する。

 ダブルタッチ、シザース、ルーレット、俺はドリブルをやめない。

 ダブルタッチ、シザース、ルーレット、俺はサッカーをやめない。

 ダブルタッチ、シザース、ルーレット、だから俺は生きるのをやめる。


 視界が徐々にぼやけ、暑いのか寒いのかわからなくなった時、膝が地面に落ちた。

 不思議と痛みは感じなかった。俺は微笑み、その場に横たわる。

 転がったボールに手を伸ばしてみるが、あと少し届かず空を切った。

「……ぁぁ……ぁ……」

 心臓の鼓動に呼吸が追いつかない。俺はゆっくり瞼を閉じた。


「ねえ!」

 何か聞こえる。


「ねえ!」

「ねえってば!!」

 そこまで聞くと俺の意識は途絶えた。

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