タップダンス

 その薬の効果は本物だった。

 家に着いて少し経ってから、明らかな身体の変化を感じた。

 常に温かく湿っていた頭皮は三ヶ月ぶりに大気を吸い、おそるおそるなぞった腕は以前とは打って変わって摩擦を感じさせない滑走路になっていた。汗でできたお尻の形も存在しない。俺の汗は止まったのだ。

 歌い出したくなる気持ちを枕に顔をうずめて叫ぶという俺流のやり方で消化する。しかし、それでも足りず結局歌った。翌朝、声がひどく枯れていたのに何を歌ったのか全く覚えていなかった。

 そうやって希望を飲み込んだ俺は今までの暗く、辛い時間を取り戻すかのように残りの夏休みをゆっくり過ごし、最終日は早めに夢の中へ潜った。



「渡!早く起きなさい!今日から学校行くんでしょ!」

 母に起こされ時計を見る。もう七時か。身体を起こし、ベッドの横に置いた薬を手に取り、洗面台へ向かう。顔を洗い、いつものようにそれを飲んだ。リビングには目玉焼きとハムを乗せた我が家の定番トーストが用意されていた。朝のニュースを見ながら手短に食事を終え自室に戻る。制服はなんだかコスプレをしているみたいで恥ずかしかった。鏡で髪を整えた後、鞄を勢いよく背負う。玄関で靴を履きながら自分の呼吸を確認した。うん、大丈夫。ドアの取っ手に手をかけた。


「……行ってきます!」



 担任になにか言われたのか、休んでいたことについて触れてくる者は誰一人いなかった。代わりに夏休みの課題が多かっただとか、初めて海に行っただとか、あたりざわりのないことを話してきた。

 学校に着くまでは聞かれたくないと思っていたのに、実際に聞かれないとそれはそれでむず痒いものだ。

 そんなことを考えていると朝のホームルームが始まった。

 俺は学校に行くという一大イベントを終えたつもりでいたが、まだまだこれからなのだ。一時間目の教科書を準備しておこうと、鞄に手を伸ばす。次の瞬間、突然クラスが騒がしくなった。

 驚いてみんなの視線の先に目を向けるとそこには、アサガオがいた。

 朱色のえらく大きいブリムがついた麦わら帽子をかぶる彼女はまさにそれだった。

 違う制服を着ており一目で転校生だと分かったが、時期が時期なだけに違和感を覚える。しかし、そんなことはすぐにどうでも良くなった。

 彼女は溜息が出るほど美しかったのだ。

 挑戦的な目つきで、それでいて敵意を感じさせないアーモンド型の大きな一重。

 長い睫毛は彼女の目を修飾し、より美しさを際立たせる。

 ぷっくりとした涙袋の間を綺麗な鼻すじが通り抜け、小さな顎が彼女の完璧な顔を完成させた。胸元まで伸びる髪が風になびいて、艶かしい。


 担任が彼女の名前を黒板に書き始めた。高橋……。

 それを書き終える前に彼女が口を開く。

「始めまして!高橋蘭たかはしらんです!遠路遥々やって来ました!置かれた場所で咲いてみせます!蘭ちゃんって呼んでね」

 そういうと彼女はにこやかな顔で頭を下げた。

 物怖じせず、立板に水の如く話すその姿は蘭、というよりはアサガオに近かった。

「はい、ありがとう。じゃあ高橋さんはそこの席に座ってね」

 そう言って担任が俺の横の席を指差す。彼女がゆっくり歩いてきた。

 俺は頬杖をつき、校庭を眺め平然を装ったが、傍から見ると典型的な思春期男子だったかもしれない。

 気持ちを昂らせる俺の横でイスを引く音が聞こえた。腐ったミルクの様な鼻につく嫌な匂いも。……ん?鼻につく嫌な匂い?

 人間はこういう時、無意識に匂いの方向へ目を向けてしまうと知った。

 俺は彼女と目が合った。

 ほんの一瞬。でも彼女は全て理解したように。

「あぁ、今くさい?ごめんね、私ワキガなんよ」

 と言った。彼女が日本だとしたらその言葉はブラジルだろう。

 聞いたことのある言葉が聞いたことのない言葉に聞こえた。

 彼女はキーホルダーをいくつも付けたブラウンの鞄からおもむろに何かのスプレーを取り出し、自身にシューっと吹きかけた。

 遅れてシトラスの匂いが鼻をくすぐる。

「きもぢーやっぱりこれに限るね」

 二回目の第一印象で俺の中の彼女は別人になった。

 クラスのみんなが目を丸くしてこちらを見ている。

 そんなことを知ってか知らずか、無邪気な笑顔が確かにそこで咲いていた。



 一時間目が終わった後、俺は彼女に話しかけた。

「あの、渡って言います。何か分からないことがあったらなんでも聞いて下さい」

 一時間かけて考えたセリフだ。

 不登校だった俺が言うのはおかしいと、自分でも分かっている。

 でも彼女の魅力を前に話しかけずにはいられなかった。

「え〜助かる!ありがと!渡君ね、覚えた!」

 その言葉につい頬が緩む。

 頑張って学校にきて良かった、これからの学校生活が楽しくなりそうだな、そんなことを考えながら俺は浮かれていた。そう、俺は浮かれすぎていた。


 汗を止めてくれたこの薬が何を意味するのかなんて、この時はまだ気づかなかったから。






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