靭帯損傷

 高二の春、俺は


 始めは体育の後に身体がずっと火照っているな、とか朝起きたら寝汗が酷かったな、とかそんな些細な変化だった。でも、次第に片道十五分の登校で通り雨に遭ったかのような大量の汗が出るようになっていた。


「お前汗やばくね?透けてんだけど」

 座ろうとした俺に向かって後ろの奴が言う。

「……まじそれな、びしょびしょすぎて最悪なんだが」

 そう言って俺は自分を見る。

 髪は毛先のみならず頭頂から濡れていて、女の子だったらきっとドライヤーが欲しくなるだろう。汗が目に染みて悲しくもないのにうっすら涙が出る。ワイシャツが真空パックのように肌に吸い付き不快を極めた。

 あらかじめ持ってきたタオルと着替えを持ちトイレへ向かう。

 朝と二時間目の後、そして昼休みの一日三回、重く深いため息を流しに行くのが俺の日課となった。



 ……ヌルッ

 部活では俺と相手が競り合う度にそんな擬音語が聞こえてきそうだった。

「渡先輩、タオル使いますか?」

 後輩が俺にタオルを差し出す。

「あぁ、ありがとう。でも大丈夫だよ、ありがとう」

 後輩のタオルを汗で濡らすわけにはいかなかった。


 サッカーをしたらどうなるかなんて分かりきっていたはずだ。

 全身からとめどなく流れる汗は、腕がぶつかれば潤滑剤になり、髪を通せばまきびしのように地面に模様を描いた。

 雨の日のワイパーのように顔の汗を何度も拭う。

 着替えることのできないその環境で濡れた練習着は俺の体温を奪ってゆく。

 スパイクの中は汗で蒸れ、つい先日足裏の皮がふやけて剥けた。薄い包帯を巻いても走るたびに小さく疼く。俺のプレーはあの頃の輝きを失っていた。


「渡、ちょっとこっち来い」

 練習中、急に監督に呼ばれた。分からない、でも嫌な予感がした。

「なぁ渡、それどうにかなんない?」

「……それって……ぁ……汗のことですか?」

「そうだよ、それ」

「あの、少し体調悪いので早めに帰っても良いですか?」

 考えるよりも先に言葉が出る。そんな自分に一番俺が驚いた。

 監督に許可を貰い、そそくさと鞄に荷物を入れ、校舎を出る。

 息を切らしながら玄関に荷物を置いた。





 ────翌朝、俺は学校へ行けなくなった。

 本当に突然のことだった。学校に行こうとすると呼吸を止められてしまうのだ。

 自分の身体の変化を受け入れられず、全ての生き物が芽吹く春に俺は冬眠してしまった。呼び鈴を鳴らして懲りずに学校行こうよと言ってくる部活仲間もそのうち来なくなった。俺はこの世界に一人ぼっちだ。そんなことを朝、といってもカーテンを閉め切った暗がりの中で考えていると、動悸と共に奴がやってくる。たまらず俺はシャワーを浴びた。そうやって何度も何度もシャワーを浴びるたびに、あの頃の自分が洗い流されて排水溝に消えてゆく。

 排水ネットがキャッチできないものは、もう戻ってこないのに。



 それから高校は夏休みを迎えたが、俺は約三ヶ月学校へ行っていない。

 見兼ねた両親に病院へ連れて行かれるまで外にも出ていなかった。

 病院へ向かう俺を真夏の太陽が痛く睨みつけてくる。俯いて歩く俺の顎は奴の集合場所となっていた。奴と同時に俺もこの世界から拭い取ってくれよ、近所の玄関に飾られた真っ赤なアサガオを見て惨めな気持ちになった。


「多汗症ですね、お薬出しておきます。」

 身体中に張った根をやっとの思いで切り離しやってきた患者に対して、医者の態度はあまりにそっけなかった。しかし、俺は得体の知れない俺の身体に名前がついたことで彼の態度以上のものを得れた気がした。

「この一粒で汗を抑える効果が一日続きます」

 差し出された薬を奪うように医者から取り、唾で飲みこんだ。

 直径一センチにも満たないこの小さな薬が本当に滝を止めてくれるのか?

「効果が出るまで一時間はかかりますので、あとはお家で」


 そう言われ俺は期待半分で帰路についた。









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