羽化する

夜如ふる

羽化する

 小さい頃、セミが羽化するのを観察するのが好きだった。


 七月の終わり頃、夏休みの自由研究にしようと父が連れて行ってくれた雑木林で、一匹のセミが成虫になるのを見た。

 正直、セミなんてうるさいし、茶色くて可愛くも綺麗でもないし、あまり乗り気ではなかったが、父が、「まあ、見てみようよ。きっとびっくりするぞ」と目を輝かせて言うものだから、仕方ないからついて行った。


 しかし、それは、美しかった。

 一匹のセミが、成虫になる瞬間を眺めている。それだけで心が躍るのに、殻を破って出てきたそれは、濃い茶色の幼虫からも成虫からも予想がつかないような、透き通って綺麗なエメラルドグリーンだった。

 小さな体をうねらせ、少しずつ、少しずつ出てくる。体がほとんど出ると、落ちてしまうんじゃないかと心配になるが、うまく足を引っ掛けているのだろうか、葉っぱにくっついて、私たちに見せびらかすかのように羽を広げていった。


 あれから私も大きくなり、だんだんと雑木林など入りたくもなくなったが、セミが羽化するあの光景だけはしっかりと脳に焼き付いている。



 重いリュックを背負い、通い慣れた塾の帰り道を歩く。

 歩き慣れた道だが、受験の重みが足取りを悪くする。むしむしとした空気が、疲れた頭をさらにぼんやりとさせてきた。


 大学。なんとなくの憧れと、やりたいことへの熱。まだまだ中途半端な思いを抱えて突き進む今を、大人は青春と呼ぶ。


 大学生になったら大人だろうか。まだ働いていないから子供だろうか。

 働き始めたら大人になれるのだろうか。色んな責任が押し寄せ、無理やり大人にするのかもしれない。


 もうすぐ十八歳になる。成人になるとは、なんだろうか。私はまだまだ自分を子供だと思っているのに、今日から大人です、と印を押されるとはどんな気持ちだろう。

 できることとできないこと。私たちは、そんなに単純じゃない。


 セミの声が一際大きくなり、雑木林の横の道だ、と気づく。

 熱に促されたのか、それとも子供の頃に戻りたくなったのか。

 三段ほどの階段を登り、雑木林の柔らかい土へ足を踏み入れる。足の下で木の枝がポキポキと鳴り、木の上からはセミが命を燃やす音が聞こえる。


 一本の木の上。何かが動いているのが見えて、よく目を凝らすと、ちょうど一匹のセミが羽化しているところだった。

 殻の背中が裂け、成虫の背中と頭が出てきている。

 黒くてつぶらな目がどこか遠くを見つめ、時間と共にゆっくりと前足、後ろ足、腹と殻から抜け出していく。

 しばらくすると、くしゃくしゃだった羽が少しずつ伸びていき、見慣れたセミの形になる。

 もうすっかり暗くなった雑木林の中で、そいつだけが、透き通っていた。


 羽化したセミは、一晩同じところに留まって硬化し、色が変化して、翌朝になると飛び立っていくらしい。


 きっと、今は羽化の時期。私もゆっくり大人になるんだ。

 一晩かけて殻を脱ぎ、明るくなったら飛んでいくセミのように。

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