第12話:未来へ星を掴む者

 ねえねえ、あおい、と、ベランダにいる成実の声が、ほんの少しだけ開けた窓の隙間から聞こえてきた。


「ちょっとこっち来て見ない? 星空がすっごく綺麗だよ」


 ミルクを飲んで寝てしまった夢をベビーベッドに寝かせ、そっと離れる。冷気が部屋に入らぬよう、ベランダに出て急いで外から窓を閉めた。


 冬に入った雪国の夜のベランダは、漆黒の静寂が染み込むような寒さとなって辺りを包んでいた。厚手の上着を着てもまだ寒いくらいだ。白く吐き出される息が、夜の闇を少し薄めた。


 成実の隣に立ち、明かりの乏しい夜の景色を眺める。四階のベランダからは家の明かりと街灯がまばらに見えるだけで、その周りを埋めるのは暗く沈む田畑ばかりだった。


「うー寒っ。ジャケット着ないとダメだね。成実、こんなところにいたら風邪ひいちゃうよ。早く中に入ろうよ」


「もうちょっとだけ、ね。ほら、星が綺麗なんだ。やっぱり都会とは違うよね」


 見上げると闇の中で冬の大三角形が美しく輝いていた。今夜は月がないから星が余計に綺麗に瞬く。


「空気が澄んでるから光が冴えてる。こういうのを見ると、田舎暮らしもちょっとはいい感じがするよ」


 遠くでJRの汽笛の音がする。静かな景色を邪魔せぬよう、成実は声を限りなく小さくした。屋根に隠れた空の半分を見るために、手摺に手をかけて首を伸ばす。化粧を落とした切れ長の目が弓の形となって、夜空に微笑みを投げかけていた。


 成実とは五年ほど前、結婚相談所で知り合った。成実が求めていたタイプは、穏やかな性格で主夫もできて転勤も可能という人で、その条件に私はピッタリだった。


 私より一歳年上の成実はとにかく仕事第一主義で、男性社会の企業体質にも負けないくらいの強靭な精神力を持っていた。夢を産んで一年で会社に復帰し、転勤と昇進というハードな出世コースにも耐えられるほどの強さである。私には勿体ないくらいの立派な妻だ。


 成実の隣で私も空を見上げる。強い光を放つ星が何度か瞬いて私に応えてくれた。


「ほんとだね……星が掴めそうなくらいに綺麗な夜空だ」

「ねえ今度さあ、美味しいって評判のカフェに一緒に行こうよ」


「小野孝之のお店のこと? 前にさ、東京で一度だけあの人の店へ行ったことがあったよね。店名は何だっけ、なんとかロールって変わった名前。あんまりにも高尚過ぎて、赤ちゃん連れはお断りって感じじゃなかった? あんな店に夢を連れてっても大丈夫なのかなあ」


「大丈夫だって。こっちのはすごくアットホームなお店なんだって、会社の人が言ってたよ。ねえ、たまには美味しいもの食べに行こうよ。いつも育児で大変だろうから、あおいにもゆっくりしてもらいたいし」


 切れ長の目の微笑みが私に向けられる。


 小野孝之、か――あれほどまでに劇的な恋愛で結婚したにもかかわらず、小野と智子は数年前に離婚した。同窓会以来、智子とは連絡を取っていなかったのだが、最近になって偶然フェイスブックで繋がり近況を知ることができた。


 離婚をしたことで気落ちしていないかと心配したが、ネットで見る限りは元気そうで安心した。元の仕事に復職して、育児も落ち着いて、今は英会話を動画で勉強しながら海外業務の配属へ意欲を燃やしているそうだ。海外支店で働きたいという夢はまだ途絶えていなかったらしい。


 智子も成実もアラフォーであるが、仕事への情熱が失せることがないというのは実に素晴らしいことだと思う。


 智子はまた、藤原の近況についても教えてくれた。なんと彼は独立して自分の店を開業したとのことだ。バカだ、バカだと自分のことを笑っていた彼が一国の主。人生分からないものである。今となっては、あの輝かんばかりの稲穂頭も懐かしく思えてくる。


「……そうだなあ、成実の言う通り、久しぶりに美味しいものを食べたいなあ。その店だったら星が見つかる以上の幸せがあるかもしれないなあ」


「星って……なにそれ?」


「前ね、知り合いの人が教えてくれたんだ。今思い出したよ。サヴァランって美食家の人が、そういうことを格言に残したんだって。本当に美味しいものに出会えたら、天体発見以上の幸せがあるって」


 ふうん、と成実は頷く。


「じゃあわたしはもう星が見つかってるなあ。どんなお店で出されるものよりも、あおいの作ってくれる料理が一番美味しいもん」


「……そう?」


「うん、わたし、あおいと一緒でとっても幸せだよ」


 成実は私に身体を寄せてきた。乾かしたばかりの髪から甘いシャンプーの香りがする。私は成実の小さな肩を抱いた。私の温もりが彼女へ伝わり、彼女の温もりが私の身体へと流れ込む。


「あおい、大好きだよ」


「私もだよ。成実が好きだ」


 夜空に光る星が一つ、宇宙の灯を地上へ贈った。


 成実からもらった温もりを返そうと頬を寄せ、口づけを交わした。軽く触れ、離れて、深く、より深く――二人の唇の熱が互いの身体へと溶けていく。私は目を閉じたまま流れ星に願いを込めた。


 この幸せをずっと留めておけますように。


 地上に流れてきた星を心の中へ掬い取る。私の掴んだ星は、今ここにある未来への祝福だ。

<完>

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サヴァラン狂騒曲 nishimori-y @nishimori-y

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