第11話:星を掴む?

 この後、智子と飲みに行くことはすっかりなくなってしまった。あのケーキ屋へ行くこともなくなった。智子にも、藤原にも、小野という男にも二度と会う気はしなかった。


 私は仕事も勉強もぱっとしない、どうしようもなく出来の悪い男であった。気弱な性格で、ウジウジしていて、派遣社員でロクに給料ももらえていない、なんの価値もない男だ。


 そんな私を救ってくれていたのが智子という一人の女性だった。才があり、美しくて、明るくて、誰もが羨む華やかなオーラを持つ女性が、私の大切な友達になってくれている――それだけが私の存在をこの世に肯定してくれている唯一の証明だったのだ。


 私は彼女のことを愛していたが、不思議なことに藤原への嫉妬心はなかった。全くないというわけではないが、彼女がいくら藤原のことを好きで自慢しようとも私は平常心でいられた。


 恐らくは、私は彼のことをバカだバカだと卑下することで自分の優位性を保っていたのではないかと思う。私よりも遥かにランクの低い男が智子の彼氏になっている、こう思うことで、私は智子を見下して優位に立つ喜びを得ていたのだ。全く、歪んだ愛情だ。


 だからあの天才パティシエのような、自分よりも優秀だと思われるような男に智子が奪われたことをまともに直視できなかった。まさか本当にあの恋が成就するとは思わなかった。悔しかった。どうにもならない自分に腹が立った。


 そして私の恥さらしはそれだけではない。藤原が一人の自立した人間として成長していたことにさえも嫉妬を覚えていたのだ。私は智子にも、藤原にも、小野という男にも、言いようのない惨めさと虚しさを感じていた。


 翌年の正月、智子から年賀状が来た。年賀状の裏には、結婚したこと、会社を辞めたこと、引越ししたことなどが書かれていた。苗字は篠原のままだったが、もう一人の名前を見てああやっぱりそうなのかと思った。篠原孝之――「孝之」とは、小野孝之のことだろう。二人は無事結婚したということだ。私はその年賀状の返事を書かなかった。


 気分が沈んで鬱っぽくなったり、回復したり、そんな状態がしばらく続いたが、どうにかこうにかそれで数年を過ごした。派遣社員から正社員登録へ移りたいと会社へ希望を出していたのだが、それさえも叶うことはなかった。


 数年後、大学の同窓会へふらりと出向いた。会場のホテルへ行くと、ベビーカーを押す一人の女性がロビーにいた。飾りっけないシンプルなベージュ色のワンピースを着て、踵の低いヒールを履いている。けれども上に巻いた髪が妙に艶っぽい。ベビーカーの中でぐずり始めた子どもを抱き上げようとしていた。その女性の顔を見て、思わずあっと声をあげる。


「智子……久しぶり」


「あ、あおいじゃん。同窓会に来てたんだ。久々だね。元気にしてた?」


 うん、と私は答え、智子と彼女に抱えられた子どもを交互に眺めた。


「もしかして、その子……」


「うん、わたしの子どもだよ。『亮』っていうの。諸葛亮の亮ね。今ね、二歳になったとこなんだ。――ほら、亮くん、お母さんのお友だちだよ。挨拶して」


 智子に抱かれたその男の子は、笑うことなく、つぶらな二重の目をじっと私に向けていた。こんにちは、と握手しようと手を出したが、男の子はくるんと首を捻らせてそっぽを向いてしまった。


「あれ、なんだか嫌われたかな」


「ごめんね、この子人見知りなんだ。こらこら亮くん、挨拶しなきゃダメだよー」


 子どもを抱っこしてあやす智子の顔つきは、すっかり母親のそれになっていた。化粧も自然で落ち着いた色が塗られている。智子とは二度と会うまいと思っていたはずなのに、子どもを優しく見守る彼女の微笑みを見ると、凝り固まっていたしこりも嘘のように消えていくようだった。


 喫茶店での藤原との再会から三年ほど経つ。あれからの流れを尋ねると、智子は簡潔に話してくれた。


 智子と小野、二人はすぐに付き合い始め、三か月でスピード結婚をした。智子が妊娠したためである。付き合い期間が短すぎること、結婚相手がパティシエという不安定な職業であること、しかもできちゃった婚ということで、智子の両親、特に母親は激高した。親の反対を押し切っての結婚だったので、実家とはほぼ絶縁状態になったそうだ。


 小野はそろそろ独立開業をしたいと考えているそうだが、実家は頼れないし貯金も満足にないしで、この調子だとしばらくは赤字経営かなと智子は苦笑した。


「でもね、雄ちゃん――藤原くんが頑張ってくれてるから安心してるよ。開業したら一緒に来てくれるんだって」


「へーそっか、よかったね……あいつももう一人前だ。変わったんだね」


「うん、変わったのはわたしもだよ。この子ができて、幸せでさ……あおいの言った通り、やっと自分の星が掴めたんだって思ったよ。あおいはどう? あれから何かの星は見つかった?」


 智子は柔らかな笑顔で訊いてくる。抱いていた子どもの小さな手がペチンと頬に当たり、しかめっ面をしてまた笑う。釣られて私も目を細め、さあねと応えて誤魔化した。


 星……掴んだ星とはどういうことだろう? 星のことなんて、すっかり頭から消えていた。私は、それを口にしたことすら忘れていたのだ。

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