第10話:フジワラ登場



 近くの喫茶店でしばらく待っていると、無地の白いTシャツに着替えた安田、もとい藤原がやってきた。


「大事な友人と話をしたいんで、十分だけ厨房を離れさせてくださいってお願いしてきました」


 そう言って藤原はまたもや頭を下げ、席に座ってコーヒーを注文した。


 藤原と会うのは何年ぶりになるのだろう。私が大学二年のときに二人が別れたから、五年ぶりになるのか。しばらく会わない間に藤原の顔つきは大人っぽく精悍な顔つきとなり、稲穂頭も短く刈られて黒くなり、かつてのヘラヘラとした薄っぺらいバンド野郎の雰囲気はすっかりなくなっていた。


 久しぶりに出会った元彼と同席して、和気あいあいと会話が弾むわけがない。三人三様に相手の出方をけん制し合いながら、会話のボールの投げ方をしばらくの間悩み続けた。最初にボールを投げたのは藤原だった。


「……智ちゃん、ほんとごめんね。俺、こうやって智ちゃんと話す資格なんかないんだろうけど」


 さすがに智子は目をまともに合わせられないようで、俯いたまま軽く頭を振って髪を揺らしたが、肩に力の入っているのが傍目にもよく分かった。膝の上で握る拳には青い血管が浮いている。返事を返せないようだったので、私が助け舟を出した。


「君のしたことは絶対に許せないよ。でも真面目に働いているようで、それだけはよかったと思う」


 あざっす、と藤原は応えた。


「智ちゃんは、今はどっかで働いてるの?」


 ほんのしばらくの沈黙の後、か細い智子の声が口から出てきた。


「……うん、アパレルの会社に行ってるよ。雄ちゃんとこって……その……赤ちゃん、が、生まれたんだよね?」


「あ、うん、今四歳だよ。女の子。写真見る?」


 藤原は携帯画面に写る小さな子供の写真を見せてきた。幼稚園児の制服を着て、髪の毛を頭の上で括って朗らかに笑う、天使のような女の子だった。写真を見せる藤原はすこぶる嬉しそうで、どうやら立派な父親として成長したようである。


 強張っていた智子の表情も次第に和らぐ。可愛いねえと二人で褒めると、藤原は昔と同じように、くしゃりと皺をたくさん作って無邪気な笑顔を返してきた。


「しかしまさか稲……じゃない、藤原くんがここの店にいるなんてね。驚いたよ」


 私の言葉に藤原は神妙に頷く。


「俺、大学辞めてから仕事いろいろやってきたんすよ。工事現場とか、宅配とか、コンビニとか。でも俺ってほら、バカでしょ? 覚えが悪くっていつも怒られてばっかりで、なかなかうまくいかなくって。あー俺ってほんと、ダメ人間だなーって落ち込んでたんすよ。でも子供いるし、育児で嫁も働けないし、どうしよっかなー困ったなーって悩んでて。とにかくなんでもしてみよって思って、ここに来たんすね。食うのは好きだったし、舌には自信あったから。でもやっぱり俺ってバカに見えるみたいで、履歴書と面接で落とされそうになったんすけど、そのとき気を利かせてくれたのが小野さんなんです。あの、パリから帰ってきた人です。確かあれは新作のレアチーズケーキだったかな、俺の前にそのケーキを一つ置いて、『これ食って感想教えろ』って言ってきて。訳分かんなかったんすけど、とりあえず食って感想言ったんすよ。『ヨーグルトと白ワインの組み合わせが最高っすね』って。ケーキなんて作ったことなかったですし、大した事言えなかったんすけど、その感想一つで即採用になったんです。お前、素質あるよって褒められちゃって」


 藤原は首筋に手をやり、照れたようにしてへへっと笑い、再びくしゃりと皺を増やした。


「あの人がいなかったら、今の俺はないんです。仕事はすっげー厳しいんすけど、いろんなケーキ作れるのが楽しくって。この仕事って俺の性に合ってて、本気で頑張ってるんですよ。小野さんは俺の人生の師匠であり恩人なんです」


 藤原は満面の笑みを浮かべた。


 ひとは変わるものである。昔のバンドマンからは想像もできないような今の境遇に感心しきりだ。「そうなんだ……」と、ため息交じりに称賛する。と、そこで思い出すのが先日の「フジワラより」と書かれた携帯番号と紙きれだ。


「もしかして、携帯番号と名前の書かれた紙、あれって藤原くんが置いたの?」

「あ、そうっす。すみません、変なことして」


 私の質問に、藤原はペコリと頭を下げた。


「まあいいけど……どうして小野さんの携帯番号にフジワラくんの名前が?」


「ああそれは」と藤原は飲んでいたカップをすぐさま下ろした。「ええと、二宮さん、でしたよね? ――二宮さんが帰ってしまう前にどうしても渡さなきゃって思ったんすけど、すっげー焦ってて、焦ったら頭真っ白になっちゃって、咄嗟に急いでたんでそれしか書けなかったんすよ。小野さんの名前も書き忘れちゃって。しかも安田ならともかく、フジワラって名前なんか分かるわけないっすよね。俺ってもうほんと、バカっすよね。ははっ。菓子の補充ついでに紙を渡してちゃんと説明するはずだったんですけど、すぐにオーナーに呼び出し食らってそのままになっちゃって。あーって思ったときには、もう二宮さんが帰った後だったんです。焦ってややこしいことしちゃってほんとすみません」


 藤原は肩をすぼめるようにして、今日何度目かのお辞儀をした。


「んー……なんとなく事情は分かった。でもどうしてこんな連絡先をくれたの。私、小野さんって人とは関りなんて全然ないよ」

「智ちゃんから小野さんの方へ連絡してほしかったんすよ。二宮さんなら、智ちゃんにこの紙を渡してくれるかなって思ったんで」

「わたしに? どうして?」と智子が訊き返した。


「小野さん、智ちゃんに気があるんすよ。ずっと前から」


 え、と私と智子が驚きの声を重ねた。


「智ちゃんが来るたびに、あの人、顔を真っ赤にしてじろじろ見てて」


「睨んでいたんじゃないの。あまりにも頻繁にお店へ通って席を占領していたらしいから、他の客に迷惑だって」と、私が尋ねると、

「まさか」と、藤原は首を振る。「智ちゃんって美人だしね。目立つんすよ。いやーもう、あの人の気持ちの分かりやすいことったら、他にないっすね。智ちゃんが来るたびに手の動きが神業的に速くなるから、うちの店のやつらはみんな裏でゲラゲラと笑ってました。でもあの人、自分から声を掛けるなんて絶対にしないだろうから、なんとかしてやりたいなーって思って。小野さん、頑固だけど根はいい人だし、智ちゃんなら気が合うんじゃないかなーって。まあ智ちゃんに彼氏がいたら諦めましたけど――で、どうかな? 智ちゃんって、今は彼氏がいんの?」


「え……別にいないけど……」


「じゃあ一度あの人に会ってみる気ない? 俺が紹介するから」


 智子は目をまん丸にして固まっていた。コーヒーは全く手を付けられず、随分前から白い湯気を失っていた。私も同じようなものである。カップの持ち手を掴んでいることを忘れていたせいで指が引き攣ってきた。自分の頭がこの怒涛の展開についていけないでいる。


「それともこういう仕事の人って、あんまり興味ないかな。嫌だったら別に……」


「興味……興味あるよ、あるに決まってるよ!」


 智子は咄嗟に声を張り上げた。周囲の人に視線を向けられ、慌てて口を押さえる。見ている傍から彼女の顔が赤いマニュキュアと同じ色に変化するのが分かった。ちょっと待って、どうしよう、どうしようと、心落ち着かない様子でわたわたと手を動かし、コーチのバッグを手に掴んで、お手洗いに行かせてと席を外した。


 私と藤原、二人だけになってしまい、この会話劇をどうしたものかと少しばかり悩む。指の感覚がなくなっていることに気が付いて、カップの持ち手から引き剥がす。指の関節部分には真っ赤な窪みができていた。


 とにかく智子と憧れの天才パティシエとやらは両思いだったわけだ。素敵なハッピーエンドでいいじゃないか。めでたし、めでたし、ジ・エンドで、私の出る幕はもうない。


「いやーしかし、智ちゃんって、相変わらず美人っすよね」

「まあね」

「今でも、智ちゃんがよく俺と付き合ってくれたなーって不思議に思うことあるんすよ」

「まあそうだろうね」

「男だったら、あんな可愛い子ほっとかないですもんね。二宮さんって、ほんと偉いっすよね」

「なんで?」


「男と女の友情って辛いでしょ? ずっと近くにいると余計に。同じ男同士、二宮さんの気持ちがなんとなく分かる気がするっすよ」


「…………」


 あ、時間になったんでと言って、藤原はコーヒーをぐいっと飲んで、立ち上がって姿勢正しく礼をした。


「今日はありがとうございました。お店に来てくれたらいつでも小野さんを紹介するよって、智ちゃんによろしく伝えておいてください」


 お金を置いて、藤原は職場に戻っていった。智子はまだ戻ってこない。テーブルには、飲み切っていないコーヒーが底に溜まったカップ一つと、手の付けられていないコーヒーが二つ、そして私一人が残されている。


 男と女の友情、か――私はため息をついて、両肘をテーブルに乗せた。


 言われなくても分かっている。そんなの辛いに決まってるだろう。


 ずっとずっと、私は辛かった。辛くて辛くてたまらなかった。


 私だって本当は、彼女のことを心から慕っていたのだから。

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