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第9話:智子の決意
三日後、私は仕事を五時ちょうどに切り上げて、エトワール・フィラントへと向かった。店の閉店時間は六時だから急げば間に合う。店の手前まで来ると、夕暮れの光を全身に浴びている智子の姿があった。
「智子、お待たせ。待った?」
「うん、わたしも今来たとこ」
「そっか、よかった。じゃあこれ、渡しておくね」
私は例の花柄封筒を智子に差し出した。智子は頬に力を込めて口を真一文字に引き締め、神妙な面持ちでそれを受け取る。今日の智子は仕事が休みで、半袖の白の清楚なブラウスにロングスカートというごく普通の洋服だった。ただし化粧だけはバッチリで、真っ赤な口紅に濃い目のアイシャドウ、カールされた髪先は竜巻のように激しくうねり、白い花の飾りが付いたピンまで付けられている。まるで大好きな先輩に告白する前の女の子のような気合の入れ方だ。
「勝負掛けてるねえ。ファンレター出すだけなのに」
「こっちは本気なんだもん! もうわたしの中では、あの人は憧れの人になってるんだから。神だよ、神。すっごい緊張してるんだよ」
ぷっくり頬を膨らまして怒る智子を見て、思わず笑ってしまった。
「大げさだなあ。分かったよ、応援してるから頑張って」
夕日の色が智子の頬を染めた。こんないじらしい智子を見たのは、稲穂頭と付き合っていたとき以来だ。余程このファンレターに思いを込めているのだろう。
――三日前の電話の後、一通の封筒と一枚の紙きれを前にして、次第に自分のしていることが馬鹿らしく思えてきた。無性に腹が立ってきた。その勢いに任せて私はもう一度受話器を取った。掛けた相手はもちろん智子だ。
「あおいじゃん。どうだった? 手紙を渡してくれたの? あの人、何か言ってくれた?」
「渡してないよ」と、即否定。「智子、やっぱり私には他人の手紙を渡すことができない。自分の思いは自分で伝えて」
「えー……そんな……どうしよう」
電話の向こうの怯えた顔を想像すると罪悪感を感じて怯みはしたが、いやここで諦めちゃいかんと自分に喝を注入する。
「あのさあ、これって智子の大事な手紙なんでしょ? 自分の精いっぱいの思いが込められているんでしょ? それを他人に任せてどうすんの。思いってのはさ、他人に任せた時点でただの空っぽの容器に成り下がっちゃうんだよ。渡す前から大事なものをこぼしちゃ駄目だ。あの人に会えた幸せも、あの人が作るケーキが食べられるのも、自分から店に飛び込んだからだ。幸せっているのはね、自分で取りに行かなくちゃ零れちゃうんだ。ましてやこれって、大事なファンレターなんでしょ。大事なものは自分で渡さないと思いなんて伝わらない。星ってのは、黙って待っているだけだったら流れて消えちゃうもんなんだから」
「星? 星って、あのサヴァランのこと?」
「そう、星を見つけると幸せだってサヴァランも言ってたでしょう。人にとって、星は欲しくても手に入れることのできない幸せの象徴なんだ。流れ星はその幸せを手に入れることができるチャンスなんだよ。星がチャンスを与えてくれているんだよ。だからみんな、流れ星を見ると必死に祈るんだ。お願いします、宇宙の神様、この幸せを私にくださいって。宇宙がくれたこのチャンスを逃したくありませんって。本気で信じたものだけが、幸せの星を掴むことが出来るんだ。手を出して流れ星を掴むのは、自分の力しかないんだよ」
いつも以上に厳しい私の意見に、智子は言い返すことはなかった。この助言でようやく腹を括ってくれたようで、決意にまでようやくこぎつけ、ここへ至ったわけである。いやはや、手紙一枚に大変なものである。「よしっ」と二人で気合を確認し、いざ店内へと勝負に入る。
もう閉店前とあって、客は一人もいなかった。ラストオーダーは過ぎている。手紙を渡すには絶交のチャンスだ。二人で商品を選ぶ振りをする。智子は息を整えて心の準備をする。小窓で働くいつものパティシエは、他の作業に入っているのか姿が見えなかった。
一分、二分、三分……じりじりとそのときを待っていたが、智子は一向に動こうとしない。残り数分、そろそろ閉店の時間になる。レジにいた店員が、私たちに閉店の合図を目で送っていた。
「ねえ、智子、そろそろ店が閉まっちゃうよ」
「そうだよね、うん、ごめん……」
そのとき小窓にパティシエの姿が見えた。それでようやく決意ができたのか、智子はソロソロとレジの方に寄る。パティシエはじっとこちらを伺っているようだ。ふとその顔に違和感を覚えた。いつものパティシエと顔つきが違う気がする。はて、どこかで見たような……智子はそれには気が付かない。レジの人に恐々と声を掛けていた。
「あの……小野さんって方、今日いらっしゃいます?」
「小野ですか? ああ、ごめんなさい、本日は、小野は休みを取っておりまして」
「え? そうなんですか……」
「何かお伝えすることがありましたらお伺いしますけど」
智子は手に持っていた封筒をどうするか迷っていたようであるが、その手をそのまま腰まで下ろした。
「いえ、何もないです。すみません……」
トボトボとテーブルに戻ってきた智子の顔は、眉と口がお揃いでへの字になっていて、あまりの情けなさに美人顔が台無しであった。可哀そうに、今日は運が悪かった。さすがにこればかりはどうしようもない。まあ諦めるな、今度頑張ろう、と私は彼女の頭をポンポンと叩いて慰めた。智子も項垂れるようにして頷く。扉を開け、店を出ようとした、そのときだった。
「あの……智ちゃん! 俺……」
男の声がこちらを呼ぶ。私と智子は同時に振り向く。活舌のはっきりした、人をちょっと茶化したようなハスキー声。忘れるわけがない、その声は――
「雄ちゃん!」
「稲穂!」
……あの稲穂頭の雄ちゃん、安田雄介。
頭に生えた稲穂を白いパティシエ帽に隠した雄ちゃんが、小窓から離れてレジの後ろから現れたのだ。
「智ちゃん、あのときはほんとにごめん」と、雄ちゃんは深々と頭を下げた。「俺、ここで働いてるんです。結婚して名前が変わったんすよ。『藤原』って」
フジワラはパティシエ帽を頭から外し、バツの悪そうな顔つきでもう一度頭を下げた。私と智子は動きがシンクロするように、お互いの顔を見合わせた。
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