第8話:謎の携帯番号
*
全く、彼女に関わるといつもこうだ。
アパートに帰り、シャワーを浴び、パジャマを着てテレビを見て缶ビールを飲む。折り畳み式のミニテーブルの上には智子の封筒があった。
智子に振り回されるのは今に限ったことではない。大事な友達だし、彼女が喜んでくれるのだったらその手伝いをしてやりたいとは思う。しかしこの手紙だけはどうしたものか。私は彼女のために、ここまでする必要があるのだろうか……
いつもどうして私は……
智子は私のことをいったい……
迷った挙句、いつも面倒を背負う羽目になる。ダメだ、出来ない、やめておけとはっきり断ればいいのに、それができないのはどうしたものか。これが彼女のためといえるのか。断る勇気がないためか。いやそれとも、彼女に嫌われたくないためか。
智子は私にとって、数少ない、大切な友人の一人だから。
無下に断ってそれを失うわけにもいかないだろう。とはいえ私の行動に問題がないともいえないし。じゃあどうすればよかったのか。ピシャリと門を閉じればよかったのか。そうすれば彼女が悲しむだけだろう。いやしかし……
どうにもならない思いが堂々巡りで蓄積する。ここまで悩んでいるなんて、当の本人は知るはずもないのだ。どれほど悩もうとも、どれほど苦しもうとも、何も知らない彼女は溌溂とした笑顔をいつでもどこでも絶やさない。残酷とも呼べるその輝きが、陰を隠す私の暗部をより苦しめるというのに……
心に石ころのような塊が五つ、六つと増えていく。冷めきった鶏肉の塊がコロコロと胃袋の中で転がっているような、不快な感触だ。軽く息を吐いて心を休めた。今は休め、仕方がない。
封筒をじっと見ていたため、カラフルな花の模様が目に焼き付いてきた。目が疲れてくる。私は封筒を掴んで通勤鞄の中へ放り投げた。
*
次の週の土曜日、私はエトワール・フィラントへと足を運んだ。
通勤鞄の中には例の封筒が入っている。なんだかんだと言いながらも結局最後には彼女の願いを叶えようとしてしまう、頼まれたら嫌とは言えないこの気弱な性格に、呆れを通り越して情けなさへと辿り着く。もうこうなったら、やるならやるで、とっとと仕事を終わらせてしまおうと、私は勇み足で店へと向かった。
ところが運は私になかなか味方してくれようとはしない。どうやら大手のグルメ雑誌に店が紹介されたらしく、評判を聞きつけた客が大量に押し寄せていたのである。次から次へと客が来店し、いつになっても封筒を渡すチャンスを掴むことができずに、私は悶々と苛立ちを募らせていた。
店にある二つのテーブルにも、今日は先客がいて座ることができない。レジに背を向け、焼き菓子を選ぶ振りをしながら、いつ封筒を渡そうかとそろりそろりと伺っていたのだが、どれくらい時間が経とうとも客足の途絶えることはなかった。狭い店だし、あまり長時間ウロウロとしているのも不審がられるので、仕方なくこの日は封筒を渡すのを諦めた。
次の日、再度店へと出向く。昨日のリベンジだ。しかしなぜ他人のためにここまでしなくてはならないのだろうかと、いい加減ウンザリとしてくるのだが、ここまできたら絶対に封筒を渡してやると、半ばやけっぱちな気分にもなっていた。
この日は運よくテーブル席が両方とも空いていた。ショートケーキを食べ、本を読みながら、レジの方へと意識を向ける。客は相変わらず多いが、必ず渡せるタイミングがあるはずだ。そう思うと逆に緊張してきて喉が渇く。水をたらふく飲んで、尿意を感じてトイレへ行く。
トイレから戻ると、場所取り用の鞄を乗せたテーブルの上に白い紙きれが一枚置いてあった。はて、誰かのレシートでも落ちたのだろうかとその紙を見る。紙には走り書きの汚い字がボールペンで書かれていた。
《0902341XXXX フジワラより》
はて、これは携帯番号だろうか。フジワラというのは、いったい誰。その名前に心当てはない。他の客が忘れていったのだろうかとも思ったのだが、店内を見渡しても商品補充をする従業員意外にそれらしき人影は見当たらなかった。
レジの人か商品補充の従業員に紙を渡そうかとも思ったのだが、客がまた増えだして忙しそうにしていたため、渡すタイミングが見つからない。菓子の製造が追いつかないようで、商品補充の人が内から呼ばれて慌てて厨房へと戻っていった。まあまた今度渡そうと、封筒と一緒に鞄に入れる。
で、結局その日も封筒は渡せなかった。
アパートに帰って、二枚の紙を机に並べる。
花柄の封筒、そして一枚の紙きれ。
腕を組んで頭を悩ます。これはどうするべきなのか。課題をこなすどころか宿題が逆に増えてしまった。
ふと興味が湧き、出来心でその番号をプッシュする。誰が出るかは分からないが、間違えましたと言っておけば済むことだ。
コールが三回ほど鳴ったところで、「はい」と男性の声がした。例のフジワラだろうか。
「あ、もしもし、二宮と言いますが、こちらフジワラさんの携帯でしょうか」
「いえ、違いますよ。うちは小野です」
「え? ……そうですか、間違えたようです。どうも失礼しました」
プツリと電話を切る。そして頭を捻る。小野――小野って言ったら、もしかしてあのパティシエの小野だろうか。どうして彼の電話番号がこの紙に?
で、フジワラって、いったい誰?
謎めいたメッセージに首を一層大きく傾ける。全くもって、訳が分からない。
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