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第7話:智子の依頼
記憶は大学から就職時代へと舞い戻る。例のパティスリー「エトワール・フィラント」へ足を運んでからひと月ほど経った。会社も終わり、久々に誰かとご飯でも行こうかと思っていたら、タイミングよく智子から連絡が入った。いつものように駅前で落ち合い飲み屋へと赴く。
「ねえあおい、……あのケーキ屋さんってさ、今でもまだ行ってたりする?」
焼き鳥の肉の塊を串から丁寧に箸で外しながら、智子は話しかけてきた。
「ケーキ屋って、エトワール・フィラントのこと? うーん、そこまでスイーツに飢えてるわけでもないし、さすがにあれからは行ってないなあ」
「そっか、そうだよね……」
いくつか皿の上に広がっている鳥肉に箸を付けようとせず、しばらくの間智子は黙っていた。
「どうしたの? あの店になんかあった?」
「……うん、実はわたし、今もあそこへ食べに行ってるんだよ」
「へえ、智子が一人で? そりゃ良かった。そんなに気に入ってくれたなんて、こちらとしても有難い。いい店を紹介できて良かったよ」
「そうじゃなくてさあ……」と智子は、箸で行儀悪く鶏肉をつついてサイコロのように転がした。「あそこのパティシエさんが気になって仕方なくってさ……」
へえ、ともう一度相槌を打って、私はジョッキを口につけた。口先から感じられる冷えがたまらく美味い。
「パティシエっていうのは、レジの後ろの窓から見えてた人? 意外だね。智子って、あんな人が好みなの」
「なんだか素敵なんだよ。こう、手がシャッシャッって動いてさ……この間ね、レジの人にちょっとだけ聞いたんだ。そしたら、あの人がパリで修行してきた人なんだって教えてくれた。パリだよ、パリ。エスプリだよ? カッコよくない? でね、名前もついでに教えてもらっちゃった。小野孝之さんっていうんだって」
えへへ、と智子は頬を緩めた。血色のいい肌が少しばかり色を濃く染めたようだった。
智子が気になるというのなら私も当然気になってくる。そのパティシエの顔を思い出そうとしたが朧げにしか思い出すことができない。顔立ちは確かに二枚目であったような気もするが……
智子は冷めて固くなった鶏肉を口に運んだ。咀嚼しながら話を続ける。
「でね、できるだけあの人にたくさん会いたいなあと思って、休みになるたびに毎週通ってたの。一時間くらい座って、じいっと眺めてるんだけどね」
「一時間!」
「そ、一時間」と、智子の眼は一切の陰りもなく嬉しそうだ。「見ているだけで飽きなくって。あの人がこの美味しいケーキを作ってるんだなって思うだけでさ、もう幸せで、幸せで……考えてるだけで、胸のここら辺がきゅうってするの」
「きゅうって」
「そう、きゅううーってね。そのときさ、あの言葉を思い出したんだ。あのサヴァランの言葉だよ。美味しいものを見つけたときには、天体発見以上の幸せがあるって。あ、わたし、とうとう自分のためのお星さまを見つけたんだって、そのときやっと分かったんだ」
「へえー……」
ジョッキを持っていることも忘れて、私は智子の表情をまじまじと見つめた。これほどのとろけるような笑顔を彼女の顔に見るのは久々だった。
「よかったねえ、人生に楽しみが一つ増えて」
「でもねえ、最近、あの人から睨まれているような気がするんだ。わたしを見るたびに、顔が真っ赤なの」
「どうして」
「んー……やっぱり、何度も行くから、しつこくて嫌われたのかなあって」
「まさか、お客さまを嫌うってことはないでしょう」
「それでね、実はあおいに頼みがあるんだ」と言って、智子は椅子の背もたれに置いていたシャネルのショルダーバックから、一枚の封筒を取り出した。カラフルな花柄が描かれた可愛らしい封筒だった。
「この手紙をあの人に渡したいんだけど、わたしじゃどうしても恥ずかしくって……あおいにお願いできないかなあ……」
「は? 私? なんで?」
「だって、あおいってさ、いざというときの度胸ってありそうじゃん。飛び込み営業の経験だってあるでしょ?」
「飛び込みの営業とラブレターを渡すのとでは話が違うでしょう」
「ラブレターじゃなくて、ファンレターだよ」
「ラブでもファンでもどっちでもいいよ。それにその営業のせいで、私は会社辞めることになったんだよ。知らない人に他人の手紙を渡すような度胸なんて、私にはないよ」
「そんなこと言わずにさあ……なんとか協力してもらえると嬉しいんだけどなあ。わたしってさ、こういうのってどうしてもダメなんだよ……」
「私もそんなのダメだよ」
「ええー……」
「ええーじゃないの。横についていてあげるから、智子が直接渡しなさい」
「え? わたしが? 無理無理無理無理」
智子は何度も小さく頭を振る。私は呆れてため息を零した。
「智子が無理だったら、私だって無理に決まってんじゃん」
「……うん、そうだよね、そうに決まってるよね……」
いつもの強気なオーラはどこへやら、しゅんと肩を小さく窄める智子のバツの悪そうな顔が私を見つめる。困ったものだなあとは思うのだが、たまにしかお目にかかれない彼女の弱気な姿を放っておくこともできやしない。分かったよ、なんとかするよと返事をすると、智子はこれ以上の祝福はないとでもいうような満面の笑みを見せ、私の手を握ってきた。
「ありがとう! あおいなら、絶対になんとかしてくれるって信じてた。やっぱりあおいは頼りになるよ。じゃあお願いね!」
彼女の柔らかな手から熱気が迸ってくるようだった。ブンブンと振り回される私の手は、その熱気をいささか持て余し気味に感じていた。
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