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第6話:智子の失恋
変化が訪れたのは大学二年の春だった。その日の二時限目は休講だったため、図書館にでも行こうと大学の中庭に出た。六月中旬の暖かさになると予報されていた通り、日中は汗ばむほどの陽気に包まれていた。空も突き抜けるように青く、あまりにも気持ちの良い天気で、道端に生えている樹木の名前は何だろうとどうでもいい事を考えながら、散歩がてらにキャンパスをぶらぶらと歩いていた。
ふと会館のガラス越しに喫茶室で本を読んでいる智子を見つけた。ゼミのことで訊きたいことがあったので、これ幸いと思い会館に入って智子に声を掛けた。
「智子、今度の授業の英文だけど……」と言って、すぐに彼女の様子がおかしいことに気が付く。智子は口をハンカチで押さえ小さく嗚咽していた。彼女の瞼は虫にでも刺されたかのように、真っ赤に膨れ上がっていた。
「どうしたの、智子。本に感動したの? それとも具合でも悪い?」
「雄ちゃんが……雄ちゃんが……別れたいって」
「えっ?」
「他に好きな人ができたんだって……大学も辞めるし、もう会えないって言われた」
智子は周囲を気にすることもなく、ダラダラと涙を流し始めた。洟も溢れてきて風船のような泡が鼻の穴から膨らんだ。せっかくの綺麗な顔が台無しで、慌てて私はティッシュを出して、アイラインが墨汁のように流れる智子の顔を拭いてやった。
智子は途切れ途切れに話をしてくれた。彼のギャンブル狂はパチンコから競馬へとエスカレートしていき、毎週のように大井競馬場へと足繁く通うようになった。運がよくないと言っていたくせにギャンブルにはのめり込む、相当のバカである。
当然ながら金もなくなり生活は荒む。最低限の生活を智子に貢いでもらいながらも、ローン会社に手を出す一歩寸前まで来ていた。
ところが運命というものは皮肉なものだ。なんとたった一枚だけ購入した馬券が当たって五十万円に変わったのである。あいつのことだ、神よ仏よと、その喜びはすさまじいものがあっただろう。
しかしこんなクズ男が運だけで舞い込んだお金を大事にするはずもない。ぱーっと飲みに行こうぜ! というわけで、友人たち数人を飲み屋へ連れて行き、お金を使い果たすまで遊びまくったとのことだ。
問題はその後である。朝、気が付いたらどこかのホテルにいた。隣には裸になった女性が背を向けて気持ちよさげに寝息を立てていた。昨晩遊んだ友人の一人だった。
弾かれるようにして掛け布団の下の例のモノを見ると、しっかり行為をしたらしき跡がある……ような気がした。なんせ付けるべきものを付けていたのか、それさえの記憶もないのだ。さすがに青ざめて服を身につけ一目散に家へと帰り、その友人とも一切連絡を取らないようにした。とてつもないバカである。
もちろんそんな行為を神が赦すはずもない。数か月後、彼の恐れていた最悪の事態が起こった。その友人から連絡が入ったのである。「妊娠した」と――
「バカ? そいつってどこまでバカ? バカの中のバカ? 最低最悪のクズ男じゃん」
「もういいよ、雄ちゃんも反省してたから――でね、雄ちゃん、悩んだらしいんだけど、責任取ってその人と一緒になるって決めたんだって。大学辞めて、結婚して、どっかで働くって言ってた」
振られちゃったよおー……と、智子は震える声を出す。私は何も言うことがなく、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる智子の痛ましい姿を見つめるだけだ。
今までの稲穂頭の傍若無人な行為を許すわけではない。しかし、智子には悪いが、男としての責任を全うしようとする彼の態度だけは評価した。あいつは誰もが認める真のバカではあったが、バカはバカなりにも一応の誠意はあったらしい。
しかし事故とはいえ智子との縁を断ち切ることができた、これが僥倖と言わずして何と言おう。私は神に感謝した。ついでに稲穂頭にも感謝した。よき人生を全うするようにと、彼の幸せな未来を密かに願った。
そんなこんなで、それ以来彼女は男を作ることを極力避けるようになってしまった。手痛い失恋を思い出の片隅に残しながら、彼女の恋愛遍歴は今に至る。
あれだけ綺麗な容姿をしているんだから、本気で彼氏を探せばいくらでも見つかるだろうに。人は見かけではそのすべてを分かるものではないと、彼女を見ていてつくづく不憫に思う。
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