第5話:智子の黒歴史
どうしてこんな稲穂頭のチャラい男が智子と付き合っているのか不思議でたまらなかったのだが、どうやら高校生の時は正反対の真面目な性格だったらしく、大学受験に失敗してから一気に弾けてしまったということだ。
都内に住んでいるというのに、通学に一時間も掛かるのが嫌で大学近くの安アパートを借り、掃除や洗濯、食事の面倒などはしょっちゅう智子に手伝わせていた。
次第に安田の生活は乱れはじめ、講義もサボるようになり、パチンコで小遣いもなくなってしまったようである。さすがにもう別れるべきではないかと再三忠告したのだが、智子は「大丈夫、わたしが何とかするから」と繰り返すばかりであった。
大学一年の冬の頃、学食で何かの雑誌を真剣に読んでいる智子の姿を見た。試験も近いことだし、何かの論文でも読んでいるのかと思いきや、なんとそれは料理レシピ本だった。
「智子、それどうしたの? 自炊にでも目覚めた?」
「あ……うん、雄ちゃんが美味しいのをどうしても食べたいからって」
開いたページを見ると、赤ワインを使って牛肉の塊を煮込む本格的なローストビーフである。主婦ならともかく一介の大学生が手を出すような代物ではない。
「どうしてそこまでするの……ご飯なんて安物のカレーで十分じゃん」
「そういうのじゃダメなのよ。彼って結構グルメでさ、美味しいものを作ってあげないとむくれちゃうんだ」
「何言ってんの、智子? コンビニ弁当とか学食で喜ぶようなやつがグルメだなんて」
「あのときはお金がなかっただけだから」
「人の作った料理でむくれるなんて、わがままだよね。そんなにわがままな奴の言うことなんて、気にしなくていいでしょ。結婚してるわけでもないんだから」
「それはそうだけど、作るからには喜んでもらいたいし……彼ってさ、わたしの料理をなかなか褒めてくれないんだよ。美味しくない、肉が固い、野菜が少ないっていろいろ厳しいこと指摘されちゃって。わたしって、よっぽど料理の才能がないんだろうなあって、すごい凹んじゃう。なんだか自分の腕に自信なくなっちゃった」
長い髪の毛を指の間で掬うようにして、智子は頭を抱えた。彼女は傍から見ても明らかに顔色が悪かった。身体つきも若干細くなったように思う。
「栄養学を習ってるわけでもないんだから、料理の才能なんていらないでしょ。美味しいのが欲しかったら自分で作ったらいいだけじゃん。あのさ、言っちゃ悪いけど、パチンコして、授業サボって、女に貢がせて、それってサイテーの男にしか見えないよ……」
あはは、と智子は疲れたように笑う。「でもねえ、あの人タバコだけはしないんだよ。味覚が悪くなるからダメなんだって」
「タバコとか関係ないよ! 智子って人が好すぎるよ! ってか、ちょっと変! その人に騙されてるよ!」
「分かったよ、怒らないで」これほど警告しても、頑固な智子はなおも引き下がらない。「いつも文句言われるわけじゃないんだよ。たまに美味しいのができたりするとすっごい褒めてくれるんだ。智子のご飯を食べないと、生きていられないって言うんだよ。こんなに美味しいものを食べたら幸せになれるって、全身で喜んでくれるの。大げさでしょう。可愛いよねえ。そういうときは嬉しくって仕方なくって。彼ってさ、舌が本物なんだ」
舌がどうとかどうでもいい。とにかくこれは男に依存して身を破滅する典型的なパターンだ。稲穂頭も稲穂頭で、美味しいものを食べたいならば頭に生えた米でも食えと憎らしく思う。
「智子、ちょっとやつれた気がするよ。顔色が悪いっていうか。あいつのせいじゃないの」
「ああ、これは今ダイエット中だから。美味しいのを作るためにたくさん味見してたら、ちょっと太っちゃったんだよね。だから今日はパン一枚しか食べてないの。でも平気、平気」
おいおいおい、と私は呆れた目を彼女に向ける。
智子は気が強いゆえにしっかりしていると思われがちだが、自信のない弱気な部分を強気な心の中に隠しているところがある。そしてその原因は、恐らくは彼女の母親にある。
以前本人がちらりと話していたのだが、彼女の母親は教育熱心だったらしく、智子を大事な一人娘としてかなり厳しく育てたらしい。毎日の塾通いにピアノ、水泳、バイオリン、バレエ。智子はいわゆるお嬢様育ちだった。
大学だって小学校からのお受験でエスカレーター式に上がってきたものだ。母親への過度のご機嫌伺いが、彼女の自尊心の奥底に深い傷を作っており、それが男への依存となって表れているのではないかと、私は密かに分析している。もしくはお嬢様育ちで男を知らなかったゆえの反動か。
しかしよくもまあ、そんな厳格な母親があんなダメ男の交際を許したものだと頭を捻ってしまうのだが、当然ながら母親には彼氏のことをひた隠しにしているんだと、彼女はこっそり教えてくれた。
兎にも角にも今の状態はさすがにまずい。私はどうにかしてあのダメ男から智子を引き離せないものかと、いろんな作戦を考え続けていた。本人と話し合いをするべきかとも思うが、恋愛なんて本人たちの問題だし、赤の他人がどうこう言えるものでもない。智子を説得するのが一番いいのだろうが、私の力では限界がある。
こうなったらいっそのこと、母親にでもバラしてしまうか……しかしそんなことをすれば、きっと智子は激怒するだろう。もしかすると私との交友関係が絶交となるやもしれぬ。ああでもない、こうでもないと幾日も悩み続けたが、良い解決方法を見つけることができるわけでもなく、これ以上事態が好転することはなかったのである。
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