第3話:ブリア・サヴァラン
*
それから二週間後、私は有休をとり、智子と一緒に例のパティスリーへと向かった。
甘いものには目がないというのは私も智子も共通していて、美味しいケーキと出会えることに喜びを隠しきれなかった。常緑樹が並ぶ大通りを二人で歩きながら、会話も弾む。
「智子、今日はちゃんと仕事が休めてよかったね」
「当たり前だよ。休めなかったら有休取ってくれたあおいに悪いよ。この間もドタキャンになっちゃって、ほんとゴメンね。……というか、休みの日でも休めない今の仕事って、ほんっとサイテー」
智子は頬をぷっくりと膨らまして不満を見せる。黒のタイトスカートを履き、白いヒールで闊歩するその姿はなんとも勇ましく、可愛らしい怒り顔を見せる表情とのアンバランスさが何気に面白い。
「サービス業って大変だよねえ」
「大変って言葉で片付けちゃダメなんだよ。サービス業がサービス残業してるって、洒落にもならないわ。この間さあ、同僚の子が有休取ろうとしたら、店長に理由訊かれて休みを却下されたんだよ。海外旅行に行きたいっていうのは理由にならないからって。信じられないでしょ?」
「そうなんだ……人手が足りなかったんじゃないの? 休みをとりにくい時期はうちにもあるよ」
「別にねえ、忙しいときでもなかったんだよ。新しく配属された店長の嫌がらせだよ。あのバカバカ店長。本社勤務になれないからって、いっつも部下に当たってんのよ」
へえ、と、私は相槌を打つ。
「酷い店長さんだね。よくそんな状況で今日の休みがとれたね」
「ノルマを達成してやったのよ」と、智子は赤い唇の端を上げた。「期限の二週間前で、しかも目標金額以上に。大口顧客を捕まえて、五万円プラス」
「すごい」
「会社の社長令嬢とお友だちになったのよ。お店の端から端までの陳列が全部なくなっていて、あの店長、目がひん剥いていたわ」
ふふっと智子は軽やかな笑い声を出す。さすがだなあと、私は素直に感心した。
「そういや智子だって本社勤務を希望してるんだよね?」
「まあね」
「どんな業務希望なの?」
「プレス対応が人気あるんだけど、私はやっぱりバイヤーがいいなあ。結構な狭き門だけどね。私はさあ、やっぱり得意の英語を使いたいんだあ。いつかはロンドンとかパリの支社にでも行って、現地で買い付けしたりして、バリバリと働きたいよ」
あーあ、とため息をつく智子は、その言葉に反して目の輝きが鋭い。その鋭さが私の心に突き刺さるほどに。
就職氷河期最前線にいた私は、就職活動を大手メーカーに拘り過ぎてその波に乗り遅れた。当然ながら内定をもらえることもなく、半ばやけっぱちで受けたのが生保会社だった。私を拾ってくれたのは、その生保会社一社のみだった。それでも一応は国内で名の知れた大手の生保会社だ。その内定をもらえただけでも有難いと思った。
しかし営業の壁は思っていた以上に厳しかった。連日の中小企業へのアポなし訪問とその門前払いで私の心は疲弊し、一年半で会社を辞めてしまった。その後転職先を探すもののことごとく落とされてしまい、今の派遣の事務職に至る。
何もできない自分が、どうしようもなく惨めで、情けなくて、この一年ほどは布団の中でさめざめと泣いたものだ。本音を言えば、隣で歩く智子の輝かんばかりの活躍が羨ましくもある。まあこんなの、比べたってどうにもならないことだが。
やがて細長いビルの角を曲がり、目的の店舗らしきものを見つけた。道の片隅に例の店の看板が見える。独立した一戸建ての店舗で、ベージュ色のひさしが目印になっていた。
黒い重厚な雰囲気を持つ扉を開けて中に入った。ウォールナットの木目が美しい売り場には横に広がるショーケースがあり、中には二十種類ほどのケーキが並ぶ。そのショーケースの反対側にはクッキーやフィナンシェなどの焼き菓子が陳列されている。
販売員の後ろには、厨房の一部分がガラス越しに見えていて、男性のパティシエが忙しなく手を動かしていた。店の隅っこの方にテーブル席が二つあった。どちらも空いていたのでケーキを注文して座る。私は無難にイチゴのショートケーキを注文し、智子はサヴァランという名のケーキを頼んでいた。
「何それ、サヴァラン? ちょっと変わってるね」
「うん、フランスの伝統菓子みたいでさ、わたしは結構好きなんだ」
智子の前にあるケーキはぽってりとした茶色い焼き菓子風のスポンジに、生クリームとオレンジの皮のシロップ漬けのようなものが付いていた。何かのお酒でも使われているのか、オレンジのような香りがこちらまでふわりと漂ってきた。
「……うん、これ、確かに美味しい」と、智子の瞳が流れ星の如く輝いている。「何て言うか、上品な味わいになってる。……やだすごい、下の方が層になってるよ? シロップにもコアントローが入ってるんだ……へえー、へえー」
智子は少しづつケーキをフォークで崩しながら、一口ずつ丁寧に味わっていた。私なんかはペロリと五口程度でケーキを平らげてしまい、智子のような研究熱心さは微塵もない。
「そんなに美味しいの? そのケーキ」
「んー……多分、今までの中で、一番わたしの好みに近いかも。すごいなあ、こんなに美味しいサヴァランがあったんだ……」
うっとりするような目で智子はケーキを見つめる。まるでようやく出会えた恋人を見るかのような瞳になっていて、私は少し笑ってしまった。
「それだけ美味しそうに見つめられたら、さぞかしやそのケーキも嬉しいだろうねえ。――ほら、あそこの窓に職人さんらしき人が見えるよ。新しいパティシエってさ、あの人かもしれないね」
私が指刺した先に智子も目をやる。先ほど窓越しに見えていたパティシエは、銀色のヘラのようなものを使ってクリームを一心不乱に塗っていた。素人目でも分かるくらい、その手捌きはあまりにも鮮やかで美しく、私と智子は共に目を奪われてしまうほどであった。
「すごいねえ、あの人の手の動かし方。さすが職人技だ」と、私は思わず感嘆する。
うん、カッコいい……と、智子も呟く。視線がその職人から離せないようだった。
「『新しい御馳走の発見は、人類の幸福にとって天体の発見以上のものである』……」
彼女の口からぽつりと出てきた言葉に、私は首を傾げた。
「何? 誰かの格言? 聞いたことないけど」
「このケーキの名前の由来になった、ブリア・サヴァランって人の書いた本に載っていた格言だよ。フランスの美食家さんでね、有名な格言をたくさん残してるんだ」
「へえー……よくそんな人知ってるね」
「お客さんにグルメ雑誌作ってる人がいてさ、その人に教えてもらったの。サヴァラン好きになったのも、この人がいてくれたおかげ。哲学的で難しいんだけどね、でも大学で学んだことも被っていたりして面白い。お得意様だし、話合わせるためにもちょっとだけ本読んだんだよ」
智子は頬を緩ませ、ティーカップを口に持っていった。商売のためには努力を惜しまない、こういう熱心さが、彼女の営業成績にもしっかり反映されるているのだろう。私には到底真似できないものだ。智子は再び口を開く。
「美味しいものを食べると幸せになるってのは分かるんだけど、天体の発見以上の幸せなんて、どんだけ大げさなんだよって思うよね。この人ってさ、食べたものでその人の人生が分かるとか、人の食べ方が国民の盛衰に関わるとか、とにかくすごいこと言っちゃってるわけ。スケールが派手すぎて、表現が斬新で、逆に面白いんだよ」
「ふうん……」
「でもさ、お星さまを見つけちゃうほどの美味しいものって、いったいどんなんだろうね。そんだけ美味しいものが作れる人と一緒になれるなら、きっと、ものすごく幸せなんだろうなあ……」
智子の前には、中身のなくなったサヴァランのカップケースがあった。視線の先には、窓の中でチョコレートのようなものをケーキにかけている職人がいる。手に顎をのせて思いに耽る智子の顔を、じっと見つめた。その横顔が学生のころの彼女の表情と重なり、私はさらに昔の記憶に思いを馳せた。
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