2
第2話:エトワール・フィラント
あれは今から二十年近く前――おそらくは十八、九年前のことになるのか。都内のとある駅から徒歩十分ほどのところに、エトワール・フィラントの店はあった。
一流ホテルから独立したというパティシエの作ったその店は、ケーキの繊細な味と見た目の美しさに定評があり、若い女性客から大層な人気を得ている店だった。
その評判がさらに盤石となったのは、新しいパティシエが雇われたときだ。
フランスから帰ってきたばかりだというそのパティシエは、パリの有名店で修業していたらしく、相当な実力を持った人物とのことだった。
近所の評判を聞きつけてすぐに私はその店へ赴き、いくつかのケーキをお持ち帰りしたが、彼が来てからのケーキは噂通りぐんとレベルが上がったように思う。デコルテは斬新で、生地は滑らかで、一つ一つの素材が輝いている。職人一人でこれほどまでに菓子が変わるものかと、驚きをもって味を堪能した。
「その店、そんなに美味しいの? へえー私も一度行ってみたいなあ」
そう言い出したのは、大学からの私の友人である篠原
彼女は関東の私立大学を卒業したあと、某大手アパレルメーカーに就職し、今は現場の販売員に配属されていた。
彼女と私は同じ英文学部でゼミも同じだ。相手が誰であろうと物怖じせず、率直にものを言う智子の姿勢が好きで、卒業してから二年ほどになるが、私は度々彼女を飲みに誘っていた。
今日も駅近くの居酒屋で落ち合い、二人でビールを乾杯する。初夏の暑さの中での冷えたビールは最高に胃に沁みる。
「じゃあ今度一緒に行ってみる? あそこ確か、店内に席が何個かあったはずだよ」
「えーいいの? 行く行く!」
「なんだったら、席を予約しておこうか」
「ありがと。ああでも、あおいとわたし、休みが合わないかなあ……」
今の智子の職場は休みが平日だ。対して私は登録派遣社員として事務で働いており、休みは土日である。どちらかが有休をとって休みを合わせない限り、流行りのカフェなど行けるはずもない。
智子はエルメスのショルダーバックから取り出した手帳を広げて、うんうんと唸りながら予定表と睨めっこをしていた。視線の位置をそのままにして、赤い唇にビールのジョッキを寄せる。ジョッキを下ろし、緩くパーマのかかった長い髪を右手でかき上げる。長い睫が忙しなく上下する。目の周りに縁どられた濃い目のライナーが、彼女の潤みがちな瞳をひと際美しく輝かせていた。
「そんなに行きたいんだったら、私が有休取るよ」
「え、わざわざそのケーキ屋のために? そこまでしなくってもいいって」
「いいんだよ、有休たくさん余ってるし」
「でも……」
「それに私、派遣で休みは取りやすいから」
智子は私の顔をひととき見つめた後、身体を背もたれからゆっくりと起こして背筋を伸ばした。ピンと伸びる服に豊かな胸を確認する。アパレルで働いている彼女は、ヨレヨレになった私の地味なグレーのスーツ姿とは全く別世界の、華やかな薄いピンク色のワンピースに身を包まれていた。
「……じゃあ折角だし、お言葉に甘えさせてもらっちゃおっかな。わたし一人でケーキ屋巡りなんてできないし助かるよ。あおいの休みが取れたら、またうちに電話して」
智子は頬を緩めて柔らかな笑顔を作った。アルコールの余韻が彼女の頬へ艶やかに残されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます