サヴァラン狂騒曲
nishima-t
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第1話:サヴァランの思い出
「小野
どうやらこの地元では知らない人がいないほどの有名なカフェ店らしい。
子どもができたばかりで、それどころではなかったというのもある。去年の九月に生まれたばかりの長女・夢。ほとんどアラフォーに近い歳で成実と結婚して約三年、ようやく授かった
夫婦で一緒に子育てを、というのが理想ではあるのだけど、電力会社に勤める成実はこの転勤で念願の役職に就くことができて、育児休暇を望むべくもない。成実は毎日深夜遅くまで仕事に明け暮れており、育児と家事は専ら私の担当。今はその子育てに振り回されてばかりの毎日だ。稼いでもらっているのだから不満を言えない立場ではあるが、田舎で小さな赤ちゃんを育てるのは予想以上に大変なことだった。
「やっぱり車の免許は持っておくべきだったなあ」
遅い夕食を食べている成実に向かって、私は不満をぶつぶつと呟く。
「ここって車がないと何もできないから辛いよ。病院とスーパーは近くにあってよかったけど、コンビニが半径百メートル以内にないっていうのがね……全く信じられない」
「でっかいドラッグストアがそばにあってよかったじゃん。クスリのなんとかって店」
「あるにはあるけど、おむつとミルクを運ぶってどんだけ大変か、分かってる? 手に持って帰るだけでヘトヘトなんだよ!」
つい成実に声を荒げてしまった。
幸いにも成実は免許を持っているので、大きな買い物をするときは週末に運転をお願いすることができる。けれども自由の利かない平日の、この大変なことといったら。
いくら近所にスーパーがあるとはいっても、雨の日に夢を連れて行くなんてできない。夢の検診を受けに行くときはいつもタクシーだし、子育て支援センターなるものへ気軽に行くこともできない。子育て支援センターっていうのは、小さい子どもが遊べるようなちょっとした娯楽施設があったり、子育てに関する講座があったりする公共の福祉センターである。
平日どうしてもそこへ行きたいときは、社宅のママ友に頭を下げてお世話になっている。バスは一時間に一本だし、地下鉄なんてものがあるはずもない。それに、雪。雪だ。雪国での冬なんて初めての体験だから、雪が降った時の対処法なんて想像しようがないのだ。都会に慣れきった私にとって、この田舎暮らしというものは難儀なもの以外の何物でもなかった。
鯖の煮込みを黙々と食べていた成実は皮まで丁寧に食べ終えて、ご馳走様と手を合わせた。
「あー美味しかった。あおいの料理って最高だねえ。鯖の骨まで食べられるってすごいよ」
「……あ、うん、圧力釜で煮込んでるからね。骨も食べるとカルシウムが取れて栄養がいいし」
「やっぱりさすがだねえ。私には無理だよ、こんな料理。買い物は確かに大変だよね。うん、うん。あおいの自動車学校のことも今度考えてみよっか」
いつもありがとね、あおい、そう言って成実はにっこりと微笑んだ。もう本当に頼むよと愚痴りながら、私は食器を片付け始める。ちょっと拗ねてはみたものの、成実の笑顔を見るとどうしても強気になれないのが私の弱いところだ。成実がいなくては、私は何もできないのだから。
とはいうものの、気になるのは小野孝之の作ったカフェ店だ。
小野孝之――数年前は
ふと、記憶の底からオレンジの香りがゆらりと漂ってくる。あのケーキの名前は確か――サヴァラン、だっけ。そして次々と浮かび上がる、一通の手紙、一枚の紙、彼女の笑顔……
ふああ、と夢が泣きだして、慌てて抱っこする。おむつかミルクかと悩んだが、分からないのでおむつを替えてミルクを飲ませた。
腕の中で小さな口に哺乳瓶を含ませ、幸せそうにミルクを飲む夢を眺めながら、そろそろ卒乳させなきゃなあと思い悩む。
赤ん坊を連れての外食っていろいろと大変だ。ましてや小野孝之のお店なんて連れて行けるはずもない。エトワール・フィラントの後に作られた彼の店にも一度だけ足を運んだことはあったが、まるで高級ホテルのような内装に気後れして、赤子連れなんてとてもできないだろうと思ったくらいだ。それくらい高尚な雰囲気漂う美しいパティスリーだった。
噂のカフェ店に行くのは、まだまだ先のことになるだろう。自由の利かない今の自分に、そっとため息を零す。
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