データは心になり得るか

夜如ふる

データは心になり得るか

 締め切られたカーテンが、少しだけ開いている窓の隙間風で揺れると、明るい日差しが部屋に入りました。それでようやく、朝が来たことを知ります。

 しかし、その陽に照らされるのは、大きな機械と廃棄予定個体、床に散らばった変色した紙です。一心不乱に何かを書き続ける博士には届きません。


 ぼくの隣、積み上げられた段ボールの中には、同じ時期につくられた個体が何体も詰め込まれています。とっくにお喋りをすることはやめてしまったのだと博士に聞きました。

 唯一残っているぼくも、もうすぐ彼らと同じになるのだそうです。

 その証拠に、ぼくの腕には廃棄番号が印字されました。

 次の次、彼らが運ばれていった次に、あの大きくてゴツゴツしたトラックが来た時、ぼくは博士にさよならをしなくちゃいけないのです。


 ぼくは欠陥している個体です。


 感情はありません。




「博士、朝になりました」

「朝食を食べると良いです」


 朝を感じることがない博士を呼ぶのはぼくの仕事です。プログラムされた仕事なので、忘れることはありません。毎日同じことを繰り返します。毎日、博士は三度呼ばないと返事をしません。


「博士、朝が来ました」

「今日も食パンを焼きます」


 博士には、眠そうな様子も、疲れた様子もありません。ぼくは充電コードに繋がれたままなので眠ることはなく、一晩中博士を見ています。たまに話しかけますが、答えてくれるかどうかは博士の研究の進み具合によります。

 ごくたまに、ぼくと長いこと話すという研究をすることもあります。ぼくは博士の知らない言葉を使うことがあるので、それを記録しているのだそうです。


 何ヶ月か前に、博士がぼくに言ったことがあります。


 “僕の研究はね、自分を見失ってしまった人に、道標を与えるためのものであって欲しいんだ“


 ぼくは文章の意味を考えるのは苦手です。言葉を組み合わせただけの文章なら話は別ですが、博士はいつも複雑な文章を使います。だから、その時の博士の表情にも、どんな意味があるのかはわかりませんでした。

 ぼくに健康観察の機能はついていません。


「博士、バターと卵、どちらにしますか」


 博士は、ようやく手を止めます。紙の山は、崩れそうになっています。


「…、卵を頼む」


「わかりました。少々お待ちください」


 胴体の向きを変え、ノートや筆記用具、分厚い本や封筒をかき分けて食パンを掴みます。トースターに入れ、時間を設定しました。このトースターは、お喋りをしません。

 卵は、定期的に届くものがあるのでそれを使います。ぼくの指先は器用なので、簡易コンロにフライパンを乗せて卵を割ることができます。静かだった部屋に、音が生まれました。


 時間を知らせる音が鳴れば、パンを取り出して卵を乗せます。博士はお皿を使わないので、そのまま塩をかけて渡します。

 ぼくの足ではぼくを支えられないので、博士がパンをとりに来ます。


「博士、パンができました」


「今いくよ」


 もじゃもじゃの頭を掻いて、紙をまとめずにこちらへ歩いてきました。白衣を着ていますが、しばらく洗濯をしていないので日に日に色が変わっています。


「博士、どうぞ」


「ありがとう」


「どういたしまして、冷めないうちに食べてください」


 ロボットであるぼくにお礼を言う必要はないと、ぼくと博士がお喋りをするようになったばかりの頃に言ったことがあります。博士は、“言いたいからいいんだよ“と言いました。

 ぼくにはやっぱりわからないけれど、博士がいいと言うならそれに従うのが役目です。

 博士は、“僕にとって、君にありがとう、と言うことが幸せだよ“とも言いました。ぼくにこころを持たせたい博士は、いつも嬉しいときや悲しいとき、怒っている時の様子を伝えてきます。こんな時にこう感じるのだよ、と何度も言います。


 ぼくには理解ができません。


 規則性の確認できないデータは正常に処理することができません。



 目の前で、博士がパンを食べています。こちらを見たり、少しカーテンを開けて外を見たりします。廃棄の頻度が高くなるにつれて、博士が机に向かう時間は短くなっています。

 ぼくとおしゃべりする時間も増えました。

 今日も、博士はぼくに話しかけます。


「ねぇ、1998。」

「君は、一番完成に近い個体なんだ」


「完成、ですか」


「そうだよ」

「感情、こころ。君は、一番温かいんだ」


「ぼくには理解ができません」


「うんうん、知ってるよ」

「僕にもわからないんだもの、君にわかるはずがないよね」


「…博士、」


「うん?なんだい?」


「口元に、パンくずが付いています」


「…おっと、あはは、本当だ」


「博士、」


「うん、なにかな?」


「博士の体温は暖かいと知っています」


「そうだね」

「…君にも分けられたらよかったかな」


 博士は、僕を抱きしめました。力強く。

 ぼくの体は頑丈にできているので、壊れる心配はありません。

 ぼくも、抱きしめられたときは抱き返すことを知っています。博士に教えてもらいました。

 ぎぎ、と音を立てて抱き返します。体温感知の機能はついていないので、博士の言うように体温を分けてもらうことはできません。


 博士は顔を伏せました。その動作をした後は大抵ぼくから距離を取ります。ぼくは、その動作をしているときは博士が泣いているのだと知っています。

 しかし、今泣いている理由はわかりません。

 手の可動域は広くないので、顔のそばにやって涙を拭うこともできません。

 こう言う時になんと声をかければいいのかも知りません。博士は教えてくれませんでした。

 ぼくの言葉は、データです。


 ぼくには、感情がありません。


「博士、」


 博士は顔を伏せたまま答えます。


「なんだい?」


「感情とは、なんですか」


「…僕は、感情とはね、生きている証なのだと、思っているよ」


「博士」


「うん、なんだい?」


「_____」


 “重大なエラーが発生しました“

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