貸しはいつか返される
※ 後半、トイレシーンがあります。お食事中の方や苦手な方はご注意願います。
小学三年生。
図工の時間。
家から持ってきた慣れない金槌を使いながら、僕は工作を進めていた。
やがて、しばらく金槌を使わない作業に入ると、先生が僕に声をかけてきた。
担任の先生の補助ということで入っていた初老の先生(指導教員?)だ。図工はこの先生が担当していた。
気さくなこともあって、クラスの生徒からの人気もあった。いや、田舎だからか小三程度の年齢だからか、自分たちに関わりのある先生の人気がないなんてことはまずなかったのだけれど。
「成野くん、金槌を使っていないようだね。ちょっと貸してもらってもいいかな」
使っていないのだから、問題はない。
「はい」
返事をしてさっと貸す。
さて、作業を進めよう。
制作は続く……。
再び金槌を使う工程。
そろそろ、金槌を使いたいなぁ。
先生はまだ返してくれないのだろうか。
辺りを見渡すと、近くの作業机に僕の金槌があった。
先生め。使った後、そこらに置いてしまったんだな。
僕の金槌だし、勝手に回収してしまっても構わないだろう。
そう思って、金槌を手にした時だった。
「おい、成野。何してんだ。その金槌、オレが使ってるんだよ」
クラスメートの
「いや、それ僕のだし」
成野のハンコが押された小さな白い紙。それが柄の上の部分にセロテープで貼られているではないか。
間違いない。
ないのに。
「オレは先生から借りたんだよ」
それを大義名分として、永見は譲らない。
先生が貸したというのはあまりに大きなことだったのか、そうした言い争いに僕は言い負けてしまう。
僕のなのに。
先生、どうして貸してしまったんだ。
忘れた(家になかったのかもしれないが)奴が手にして、ちゃんと持ってきた奴の手にないなんて。
うう。
泣き虫の成野少年は泣き出した。
だが、何も事態は変わらなかった。
あれから三年。小六となった成野少年の一人称は『僕』から『俺』に変わっていた。
俺は学年のみんなと共に、修学旅行の帰りの特急電車に乗っていた。
電車に揺られる俺は、少し調子が悪かった。
酔いで気分が悪いのではない。お腹の調子が、だ。
下っているわけじゃあない。修学旅行という独特の緊張感のせいか、お通じの時間であったり出の良さだったりに不調をきたしていたのだ。
行っても出るか分からないけれど、便意は強い。これはこれで参った腹具合だ。
一応、トイレに行くことにする。
電車のトイレは、いまいち勝手が分からなかった。
俺は分からないままにトイレに入り、ズボンと下着を下ろしてしゃがみ込んだ。
※ まだまだ和式が多かったころである。
トイレの引き戸には、体の側面を向けていた。
やっぱり出ないなぁ。
なんて思っていた、その時だった。
ガー。
トイレの引き戸が空いた。
そう、俺は鍵のかけ方が分からなかったのか、そもそも電車のトイレは鍵をかけるのかどうか迷ったのか、鍵をかけていなかったのだ。
誰か入っているとは思わなかったのだろう。
一瞬で驚いてビクッとしたその相手は、あの永見だった。
「入ってんだよ!」
そう言って、俺はしゃがんだまま引き戸を素早く閉める。
どの口が相手を責めるようなことを言っているのか。鍵を閉めずに、見たくもないものを見せたのはお前だ、成野。
結局出なかった俺は、立ち上がって下着とズボンを上げるとか準備を整えてトイレの引き戸を開けた。
出てすぐの所で、永見が気まずそうに下を向いて待っていた。
無言で何かを交わすようにトイレに入れ違う。
ああ、とんでもないものを見せてすまなかった。
でも、これであの金槌の件と相殺、チャラということにしようじゃあないか。
俺には少し不安もあった。
小学生男子のトイレ(大)事情なんて、格好のお笑いネタである。
授業中にも行ったのだったか、回数が多かったある男子生徒は『ダイベンジャー』なんてあだ名を付けられていた。
まさか、俺も?
俺はなんと名付けられる?
ケツミセンジャー?
がたがたと震える。
さらば、俺の学校生活。
さようなら、俺の人生。
けれど、不安をよそにこの件が広まって、俺が笑い者になるなんてことはなかった。
永見が自分の胸の内にしまっておいてくれたのだろう。
ありがとう、永見。
お前のおかげで、俺の学校生活と人生は終わらなかった。
そんな永見は、今もきっと優しく生きていることだろう。
※ あだ名について触れている場面がありますが、人が傷付くあだ名はやめましょう。
『ダイベンジャー』は名付けられたものの、教育の賜物かそんなに言われていなかったと思います。その人物もちゃんと学校生活を楽しんでおりました。
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